■ポエムに万歳!<小田嶋隆>新潮社 20140330
「ポエム化」の薄気味悪さを描く。小田島にしか書けないエッセーだ。
「ポエム」は詩とは似て異なる。ふわふわと浮いていて、何を言っているか分からないけど、なんとなく雰囲気だけをのせていて、けつの穴がかゆくなるような感情過多な言葉の羅列といえばよいのだろうか。
「思い」という言葉が最近やけに使われている。「俺の思いを込めた楽曲を聴いてください」なんて言葉を聴くと背筋がゾクっとしていたが、「思っている側が言っている言葉で、受け止める側のことを考えていない言葉」と小田嶋は断じる。独りよがりな美意識が薄気味悪さのもとだったのか、と気づいた。「絆」という言葉や、NHKで流れる「花は咲く」という歌の気持ち悪さも同様のものなのだろう。そういうものが「ポエム」ではとても尊重されているという。
ポエムの元祖は相田みつをあたりにあり、わかりやすいのは水着グラビアの惹句だ。「何かを直視したくないとき、まっすぐに伝えたくないとき、ごまかしたいとき」に使われるという。たしかに。水着グラビアをまじまじと見つめる自分の姿はあまり直視したくないもんな。マンションの名前が「杜」になったりするのもポエムを使った印象操作だ。
有名人では、サッカーの中田の引退メッセージを聞いて、「うわあ…気持ち悪かった。鳥肌が立った。30歳間近の男が、ここまで臆面もなく自分語りをしてしまって、後の人生は大丈夫なのかと心配になった」と記す。潮田玲子や吉高由里子、中山美穂の言葉もあげている。
ニュースをポエム化させたのは古舘伊知郎という。プロレスアナ出身で、あらゆる場面が形容過剰になる。それを一般ニュースにまで持ち込んだ。
政治の分野では、たとえば野田首相の演説は変な具合に力が入ってリズムがあるのだけど、空疎な言葉を並べるだけで中身がない。震災復興や五輪招致の文書などにも「ポエム化」が見られるという。
世の中に氾濫する言葉の薄気味悪さの原因をきれいに暴いてくれる。
「ポエマー」という和製英語が「2チャンネル」で生まれた当初は、自己意識過剰なポエムは恥ずかしさをこめて紹介されていたが、今では恥ずかしげもなく大書きされ、朗読までされるようになっている。
自己愛があたりまえになっているのだろうか。
===================
▽歌謡曲の衰退 国民歌謡という意味での最後の歌は、おそらく石川さゆりの「津軽海峡冬景色」であるはずだ。この歌がはやった1977年あたりを分水嶺として、それ以降、日本のお茶の間からは「団欒」がきえたのである。。おばあちゃんから子どもまでの一族郎党が、一つのテレビ画面の前に座って流行歌に耳を傾けるという家族の風景そのものが、日本から姿を消したということだ。
▽五輪はきらい。どうしてもというなら、二輪ピックぐらいが妥当なセンだと思う。自転車競技の世界大会…
▽橋下はなぜ政治家失格か 「自分の側に有利な条件だけを並べ立」て「論敵の非をどこまでも執拗に追求」し「藁人形論法や誇張といった詭弁に近い手段を弄することも辞さ」ずに、「ただひたすらにオノレの正しさを述べ立て」るタイプの答弁法。ディベートの手法としては非常に強力だが、政治家としてみるなら、「妥協ができない」意味で半人前であり「相手の言い分を聞けない」という面で失格になる。結局、弁論はできても、議論はできない典型的な弁護士の語り口。
▽桜宮高校の体罰。暴行の再発を防ぐ取り組みや、生徒のケアといった論点は、話題の中心から弾き出され、事態は、体育系学科の入試自粛、教員入れ替えという、より大がかりな改革に向けて動いている。この先…教育委員会制度の見直しといった、さらに大きな枠組みの転換に向かうのであろう。で、その頃には、ほとんどの人間が、桜宮高校という名前を忘れているはずだ。
▽197 「世田谷ナンバ−」をいやがった世田谷住民。…ネット内では、自慢をする人は徹底的にたたかれる。このマナーは、リアルな世間の人付き合いに逆輸入される。…テレビのなかで「芸能人のお宅訪問」みたいな企画が、激減していることにお気づきだろうか。…艶福自慢も、昭和の芸人はそれはもう露骨にひけらかしていた。「オレたちひょうきん族」を見ると、80年代の若手芸人は、さんまや紳助をはじめとして、悪びれることなく自らの女性遍歴を開陳している。いまでは、その種の「武勇伝」はテレビ画面からほぼ根絶された。…やんちゃ自慢は、ネット掲示板やツイッターの中で炎上して、へたをすると、謝罪会見に直結するからだ。
コメント