■Myanmar(Burma) Peoples in the Winds of Change 1993-2012 <Yuzo Uda> 20130620
半世紀に及ぶ内戦がつづいたビルマに20年間にわたって通いつづけた筆者が、ビルマの出版社からだした写真集。
「軍事政権の支配する過酷な国」を撮しているはずなのに、軍政を告発するというよりも、多様な民族の日々の暮らしを描いているところが興味深い。
絶滅に瀕するタロンという民族の男性や入れ墨だらけの顔などの写真はもちろん珍しいのだが、牛が荷車をひき、ボンネットバスが町を走る「日常」を切り取る目線が貴重に思える。
ちょっと前まで日本に残っていたさまざまな民俗や風習と、ついつい頭の中で比較し想像してしまう。たとえば…
・女性はタナカで化粧をしているが、日本の未婚女性のおしろいや既婚女性のお歯黒に近い感覚なのだろうか。だとしたら、美意識の欧米化とともになくなる可能性が高いのでは。
・市場で商品をならべている竹製のかごも、いずれは人工物に置き換わるだろう。竹を編む人たちは平地の農民なのだろうか、それとも山岳民などが担っているのか。
・樹木の下に縁台がしつらえれ、のんびりしている風景は、日本の縁側に近い。日本の家は外に向かって開かれ、入浴の様子も丸見えだった。縁側は「開かれた家」の象徴だった。そんな開放的な暮らしのあり方も昔の日本と似ているのかもしれない。ということは、縁側と同様にいずれ消えてしまうのかもしれない。
・田植えの苗は、日本の苗の5倍は大きい。なぜ成長してから田植えをするのか。一方で、ずらりと10人以上が横一列にならんで田植えをする風景は、「結」で農作業を担った昭和30年代までの日本とそっくりだ。水田農村の信仰や祭りも似ているのだろうか?
・川魚の漁の網が、能登半島に古くから伝わるイサザをとる網やボラ待ち櫓の網に似ている。偶然なのか。
・用水路か田んぼで淡水魚をとる様子は、年に一度ため池をさらってコイなどをとってきた能登の山間のムラに似ている。すしの原型とされる「なれずし」は東南アジアのモンスーン地帯で一度に大量にとれる淡水魚を漬けたのがはじまりとされる。もしかしたらビルマの水田地帯にも、能登に伝わるなれずしやイシル(魚醤)のような発酵食があるのかもしれない。
・仏僧はなぜ尊敬されているのか。日本では寺社はコミュニティの中心としては機能したものの、江戸時代に権力と融合することで信仰対象としての権威を失ったと聞いたことがある。ビルマの寺は軍事独裁政権とどんな距離感をもち、どうやって生き残り、権力に対峙する権威をどうやって維持したのだろうか。……
ビルマ人にとってはあたりまえな風景だから、おそらく現地に住むカメラマンは撮影しようとも思わないだろう。江戸時代の生活実態を日本人は描くことができず、イザベラ・バードらの来日外国人が詳細に記したのと同様だ。そこに住む人はその文化を客観的・体系的に記述することはできない。筆者はビルマで、イザベラ・バードの役割を演じている。
ビルマ全土の日常の暮らしを紹介したあとで、国境地帯のカレン民族などのゲリラの様子を紹介する。そこでも、単に戦争があるのではない。軍事や政治が「生活」といりまじっている。「戦場」の刺激的なシーンだけを求める一発屋のカメラマンには写せない世界だ。
日常生活の写真のなかに、山奥のゲリラの生活や、制服姿の軍隊の写真を少しずつまじえることで、日常にじわりと浸透する軍政の不気味さを少しずつにおわせる。
だからこそ、アウンサンスーチーさんの家の前に堂々と集まり、無言の抗議をしつづける人々の写真から緊張感と勇気が伝わってくるのだろう。
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