■逝きし世の面影 <渡辺京二> 葦書房 20131129
江戸は現代の日本とはまったく異なる文明だった。そしてそれは永遠に失われてしまった。そのことを外国人の描いた記録から浮き彫りにしていく。
人々はニコニコとしていて、親切で、女性はとくにやさしい。子供が生き生きしていて、
小屋のような粗末な家に住んでいるのにみんなこぎれいで、物乞いもほとんどいない。家は開け放たれていて、生活が丸見え。玄関先には花を飾り、茅葺き屋根の上にも百合が咲く。生活そのものがかわいいアートになっている。
裸でいるのも平気で、老若男女がいっしょに入浴する。性に開放的で、子供も〓を知っている。エロ本は平気で子供も見ていた。
多くの欧米人がそんな日本をエデンの園や妖精の住む小さくてかわいらしい不思議な国などと、なぞらえた。「素朴で絵のように美しい国」「悲惨なものを見いだすことができない国」それほど特異な文明だった。
明治以降急速に失われていく。それは文明の扼殺と葬送だった。
日本近代は前代の文明の滅亡の上に打ち立てられた。
筆者はそれを嘆いているわけではない。それはある意味でしかたなかった。でもそういう文明があったということはとても大事な記憶であることがわかる。
分厚い本を少しずつ読んでいたから読了までに何ヶ月もかかった。
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▽8 江戸文明の余映は昭和前期にはまだかすかに認められたにせよ、明治末期にその滅亡がほぼ確認されていた。
▽14 私たちの祖先があまりにも当然のこととして記述しなかったこと、いや記述以前に自覚すらしなかった時刻の文明の特質が、文化人類学の定石通り、異邦人によって記録されている。
▽27 風呂桶が戸口の外におかれていることも。入浴中の男女が異人を見ようと裸で外へとびだしてくる。
▽31 「日本は貧しさや物乞いのまったくない唯一の国です」
▽35 好色本 ペリー艦隊来訪のときんあど、おもしろ半分に春本を水平に与えたり、ボートに投げこんだりするものがいて・・・
▽38
▽49 「・・・私は
これまでにないほど、わがヨーロッパの生活の騒々しさと粗野さとから救われた気がしているのです」
(東京の人間が能登の人間で感じる感情・・)
▽52 私の意図するのは古きよき日本の愛惜でもなければ・・・私の意図はただ、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。
▽「この国民はたしかに満足しており幸福であるという印象」
▽61 「この民族は笑い上戸で心の底から陽気である」「子供のように、笑い始めたとなると、理由もなく笑いつづける」
(クボチがアフリカ人に対して感じた明るさ)
▽64 イザベラ・バード 民衆の無償の親切に感動。善意に対する対価を受けとらぬのは、当時の庶民の倫理だったらしい。
▽69 バードの様子を見に来た見物人がのぼった隣家の屋根が起きた。部屋の障子をとりさって、バードの寝姿に黙って見入っていた。・・・日本人の好奇心は場合によって、はしたなさ、厚かましさ、無神経の域に。(ラテン)
▽70 大人でさえも、凧をあげたり、コマを回したりしている。彼らの眼には異様な光景にうつった。
▽82 中国やインドなどと比べても、「飢餓や窮乏の徴候は見うけられない」
▽88 収奪をゆるやかにして領民の幸福を実質的に保障しえた幕府が慢性の財政難に陥り、領民の収奪を強めて富強化した西南諸藩によって打倒された歴史の皮肉。
▽92 前工業化段階としては最高の経済的・物質的繁栄は「勤勉革命」の成果だったといえるだろう。平地から段丘に至るまで作物で覆われた景観、整備された潅漑施設、入念な施肥、土地の深耕と除草ーーこれは、観察者がすぐに気づいた徳川期農村の特徴だった。「耕地に一本の雑草すら見つけることはできなかった」(〓出雲の話?)
▽96 当時の農村はおしなべて幸福で安楽な表情をしていたことは、ほぼ確実だろう。
▽98 日本人の家には家具がほとんどない。
▽99 ハリス 日本人の生活は上は将軍から下は庶民まで質素でシンプルだった。
▽102 チェンバレン「(日本には)貧乏人は存在するが、貧乏なるものは存在しない」。日本では貧は惨めな非人間形態をとらない。
▽106 日本人の表情に浮かぶ幸福感は、当時の日本が自然環境との交わり、人びと相互の交わりという点で自由と自立を保証する社会だったことに由来する。浜辺は彼ら自身の浜辺であり、海の恵みは、寡夫も老人も含めて彼ら共同のものであった。社会的な「共有地」(コモンズ)は、貧しいものも含めて、地域のすべての人びとに開かれていた。
・・・欧米人たちは、初期工業化社会が生み出した都市のスラム街・・・と比べて、古き日本の生活の豊かさを賞賛していた。
▽120 公然たる売春にともなう性病の蔓延。厳格な主教からすれば、日本人の最大の悪徳は性的放縦と飲酒だった。
▽123 乞食は聖域に住みつく存在だった。
▽127 人びとの生活の開放性。外国人たちは日本の庶民の家屋がまったくあげっぴろげであるのに度肝を抜かれた。・・・生活が隠さず解放されているから、近隣には強い親和と連帯が生じた。(ソーシャルキャピタル〓)
相互扶助は、開放的な生活形態がもたらす近隣との強い親和にこそその基礎があったのではないだろうか。
戸締まりをしないというのは、地方の小都市では昭和の戦前期まで一般的だったらしい。
開放的な社会は、争いの少ない和やかな社会でもあった。
▽135 モースの記録では、日本の群衆は押し合いをしない。だが昭和初期の記録では「日本人は他人を押しのけて我先に電車に乗り込もうとします」。この間に日本人の徳性において重大な変化があったのか。(都会になるほどきちんと並ぶようになる。京都や東京〓)
▽144 列車に乗るときに下駄を脱いで駅に放置してしまうまちがい。
▽147 儀式やおじぎ、「お追従的な丁寧さで相手を打ち負かそうとつとめる」(やけに礼儀正しいチンは昔ながらのお愛想か)
日本人の礼儀正しさは、この世を住みやすいものにするための社会的合意だった。(出雲の話〓)
▽157 警察官の裸体取り締まり。
▽173 生活用具が芸術品のよう。・・・羽織の紐だけの店、硯箱だけを売る店・・・非常に微細かつ多様な棲み分けが成立している。細民のつつましく生きうる空間がここにあった。彼らの多くは熟達した職人。
▽187 よき趣味という点で生活を楽しきものとする装置を、ふんだんに備えた文明だった。「この国の魅力は下層階級の市井の生活にある。・・・日常生活の隅々までありふれた品物を美しく飾る技術」にあるとチェンバレンが言う。
▽194 厳密に計測化された時間とひきかえの賃労働は、徳川期の日本にあってはいまだ知られざる観念だった。ひとは働かねばならぬときは自主的に働き、油を売りたいときはこれまた自主的に油を売ったのである。19世紀初頭のヨーロッパにおいても、ひとは働きたいときに働き、休みたいときに休んだ。
▽197 集団労働において、唄がうたわれるのは、・・・労働に喜びを感じられるようにするため。
▽200 日本の民衆はやはり、このような労働の原質を奪いとられて、近代的労働の担い手として、業火のなかで鍛え直されねばならなかったのである。
▽208 欧米人の多くは、日本の男の容貌や肉体について「醜い」と記述している。日本女性に対する賛美とほとんど劇的な対照をなしている。
▽217 上層民たる武士階層は、格式と慣習の「奴隷」となっている。「これに反して、町人は個人的自由を享有している。しかもその自由たるや、ヨーロッパの国々でも余りその比を見ないほどの自由である」(カッテンディーケ)
▽220 近代以前の国家権力は、共同団体の自治にゆだねられた生活領域に立ち入って規制するような意志も実力ももたなかった。・・・民衆の共同団体に自治の領域が存在し、幕藩権力といえどもみだりに侵害することは許されぬ性質を保有していた。・・・町衆同士で争闘するのは彼らの慣習的な権利だった。
・・・江戸の南北奉行所がごく限られた与力・同心しか擁さず、しかっも人口一〇〇万人の大都市の治安が良好に保たれていた事実は、・・・警察・裁判の機能が大幅に民間に委譲されていたからである。都会・農村を通じて、地域社会は軽微な犯罪・紛争は自らの手によって処理・解決していた。
▽224 ヨーロッパでは近代市民的自由は、近代以前の各種の共同団体の保持する自由を種として成長し確立したのに対して、日本の前近代的共同団体の伝統的自治権は明治の革命によって断絶し、その結果、我が国の近代市民的自由は異邦的観念として、生活の中でなく知識人の頭脳の中で培養された。その意味でも、江戸期の民衆の自由の基盤となった前近代的共同団体の自治権は、再検討と再評価を求められているといってよかろう。(コモンズ、宮本と対馬の例〓)
▽233 平伏を含む下級者の上級者への一見屈辱的な儀礼は身分制の潤滑油。その儀礼さえ守っておけば、下級者はあとは自己の人格的独立を確保することができた。・・・身分制は、専制と奴隷的屈従を意味するものではなかった。むしろ、それぞれの身分のできることとできないことの範囲を確定し、実質においてそれぞれの分限における人格的尊厳と自主性を保証したのである。身分とは職能であり、職能は誇りを本質としていた。尾藤正英は徳川期の社会構成原理を「役の体系」としてとらえる見地を提出している。「役」とは「個人もしくは家が負う社会的な義務の全体」「役」の観念にもとづいて社会が組織されることによって、各身分間に共感が成立し、各身分が対等の国家構成員であるという自覚がはぐくまれたと尾藤は論じ。
▽238 武装した支配者と非武装の被支配者とに区分されながら、その実、支配の形態はきわめて穏和で、被支配者の生活領域が彼らの自由にゆだねられているような社会。身分的差異は画然としていても、それが階級的な差別として不満の源泉となることのないような、親和感に貫かれた文明。
▽247 「老いも若きも男も女も、・・・いっしょに混じりあって入浴している・・・日本人は世界で最もみだらな人種のひとつだということだ」
(別子の銅山〓)
▽252 「生活に隠しごとがない」ように裸体を隠さない日本の風習。「地上の天国の天真爛漫さ」(海女、昔のお日本人〓)
木の桶で風呂を浴びている。桶は家の後ろや前、そして村の通りにさえあり・・・人前で行水する婦人。
▽256 日本の娘は「堕落する前にイブ」なのか。
▽258 西洋の衣装がからだは完全に覆っているものの、腰から上の体型のあらゆる細部をあらわにしており、きれいな体型を見せつけようとしていることに、多くの日本女性はが嫌悪を感じている。・・・
・・・モラエス「30年ほど前までは、都会の銭湯の広々とした浴槽は男女とも一つだった。・・・外国人の道学流の非難がやまないので、男女を分けてしまった」。彼がはじめて来日した明治22年ごろ、混浴はまだ完全になくなってはいなかった。
▽260「男女の入浴者が入り乱れて、・・・われわれが通りすぎるのを見物するために飛び出してきた。皆がみな何一つ隠さず・・・」
▽261 幕末の外国人観察者をおどろかせたのは、春画・春本のはばかりない横行。「10歳の子どもでもすでに、ヨーロッパでは老貴婦人がほとんど知らないような性愛のすbての秘密となじみになっている」
(北欧よりも〓フリーセックスとしての日本)
▽264
▽266 男女の営みはこの世の一番の楽しみとされていた。その営みは、おおらかな笑いを誘うものでもあった。(西洋的な形而上学的な愛とは異なる〓)
▽272 江戸では遊女の1割が梅毒・・・遊女は一般に25歳になると解放されるが、・・・遊女の3分の1は、奉公の期限が切れぬうちに、梅毒その他の病気で死亡する。都市では30歳の男の3分の1が梅毒。
・・・ヨーロッパの公娼 25歳まで生き延びるのは11人中1人にもみたず・・・という記録も。
・・・外国人が驚いたのは、売春が、社会の中で肯定的な位置を与えられていること。裸体の場合と同様、売春という記号は西欧におけるのとは大いに異なった意味作用を営んでいた。
▽276 イザベラ・バードは、伊勢山田で、外宮と内宮を結ぶ道が3マイルにわたって女郎屋を連ねていることに苦痛すら覚えた。「この国では、巡礼地の神社がほとんどつねに女郎屋に囲まれている」
性は生命のよみがえりと豊饒の儀式であった。まさしく売春はこの国では宗教と深い関連をもっていた。・・・外国人観察者が見たのは近代的売春の概念によって捉えることのない、性の古層の遺存だったというべきである。
▽283 異邦人の発見のひとつは、日本の未婚の娘たちの独特の魅力だった。ムスメという日本語はたちまち、英語となりフランス語となった。
・・・日本の男は醜く、女は美しい、という理解。(アジアの旅のときに感じた感覚〓)
▽286 彼女らが美しいのはせいぜい30までで、あとは顔は皺が寄って黄色くなり、容姿は急速にたるんでしまう。・・・娘は14歳ではまるで天使のようだけど、その倍の齢になるとくたびれて、ふけて醜くなる。
(今のロシア人やアメリカ人〓)
▽290 娘の塗りたくりや、妻たちのお歯黒や眉剃りは、ひとつの文明の中に生きている年齢階梯制の表現なのだった。・・・夜這いの慣行をもつ農村部で、娘たちが結婚まで性的な自由を享受していた事実はよく知られている。
▽298 ベーコン「農民や商人の妻は、天皇の妻がそうであるよりずっと夫の地位に近い」。妻の地位を高めているのは女性の労働の重要さであった。
▽301 離婚歴は当時の女性にとってなんら再婚の障害にはならなかった。その家がいやならいつでもおん出る。それが当時の女性の権利だった。
▽302 渡米した女性 アメリカの主婦が必要な金銭の支出をするのに、夫にいちいちねだったり、・・・せねばならぬのに深い疑問をもった。なぜなら日本では妻は夫の「銀行家」としていっさいの家計を任せられ、夫のほうが金がいるときは妻から受け取っていたから。
・・・家制度とは、女たちが、前半は辛苦をしのび後半は楽をするという生活サイクルを世代ごとに繰り返すシステムではなかったか。
▽304 家制度とは男性本位のように見えて、その実、女性を主軸とする一種の幸福の保障システムではなかったのか、という気がしてくる。
▽308 「女でもいばっている人」は、自分のことを「おれ」というのは珍しくなかった。(〓輪島の言葉)
江戸の庶民に、男言葉と女言葉の差がほとんどなかったことは、十返舎一九や式亭三馬を読めばあきらかだ。・・・化政期の庶民の女が、男か女かわからないべらんめえ調でものを言ったことは、あきらか。
▽311 徳川期の女性はたとえ武家であっても、飲酒喫煙は自由であったらしい。「多くの妻君や娘も家の中でのみ喫煙する」「日本女性は男たちと同様、大の喫煙家だ」
(〓戦後になって江戸時代にもどってきた?)
▽312 外国人観察者は少数の例外を除いて、こぞって古き日本女性を讃美した。彼らのある者は、日本の男は醜いが、女は別人種のように美しくて優れているとさえ書いた。その代表はモラエスであり、アーノルド。
・・・日露戦争中の婦人の振る舞い「日本の看護婦こそまさに慈愛にあふれた救いの女神だと、心底から感じた」
▽325 「日本が子どもの天国」・・・日本の子どもが泣かないというのは、欧米人のいわば定説だった。
▽330 日本の子どもは自分たちだけの独立した世界をもち、大人はそれに干渉しなかった。だからこそモースは、日本の子どもが「他のいずれの国の子どもたちより多くの自由を持」っていると感じた。
おとなと異なる文法をもつこどもの世界を、自立したものとして認める文明のありかた。
▽332 子どもは大人といっしょにどこへでも出かけた。淫猥な芝居も子連れでみる。性的な玩具類から隔離されていなかった。
▽335 日本の子どもは無邪気で愛らしい、子どもらしい子どもだった。しかし、いったん必要あれば、大人顔負けの威厳と落ち着きをしめすことを何ら妨げなかった。不断に大人にたちまじって、大人たちの振る舞いから、学んでいたから。
▽337 アリス・ベーコン「日本の子どもは3歳ないし4歳になるまで完全には乳離れしない」
▽340 子どもは大人の生活のあらゆる面に参加してなじんでおり、それを遊びとして模倣することで大人の生活のミニチュアを経験する。大人の干渉から自由な日本の子どもは、その反面大人と深く相互に浸透しあっていた。
▽342 モラエスによると、日本の子どもは「世界で一等可愛い子ども」だった。・・・礼節と慈悲心あるかわいい子どもたちは、いったいどこへ消えたのだろう。この子たちを心から可愛がり、この子たちをそのような子に育てた親たちがどこへ消えたのか。
▽345 (外国人の子を)いとしがり可愛がるというのはひとつの能力である。それは、いまは消え去ったひとつの文明が培った万人の能力であった。
▽347 日本の大人は、自分たちに許される程度の冗談や嘘や喫煙や飲酒等のたのしみのおこぼれを、子どもに振る舞うことをけっして罪悪とは考えていなかった。すなわち当時の日本人には、大人の不純な世界から隔離すべき「純真な子ども」という観念はまだ知られていなかった。そういう観念は西洋近代の産物である。
▽362 青い百合を茅葺き屋根に植える。
▽365 「当局の許可がなければ、木の伐採は認められていない。また伐採されたあとには、若木が必ず再び植林される。森はそれ自体で、国土の景観を美しくしている」「鳥獣を撃つことは厳重に禁じられている」(はげ山が多かったのではないか?〓たとえば東山)
…狩猟は江戸十里四方でも禁じられていた。江戸はまさに鳥類の天国だった。
…江戸は、彼らの基準からすればあまりに自然に浸透されていて、都市であると同時に田園であるような不思議な存在だった。巨大な村だった。
…「寺院の多くは丘の上にあり、常緑の木々に覆われ、広い墓地に取り囲まれている。また大名の所有地も壮大な公園・庭園施設をもっている」
▽372 王子は異邦人は必ず訪ねる名所だった。…「見事な村が森に包まれて横たわっていた」
▽374 江戸はユニークな田園都市だった。田園化された都市であると同時に、都市化された田園だった。少なくともヨーロッパにも中国にもイスラム圏にも存在しない独特な都市のコンセプトだった。このような特異な都市のありかたこそ、当時の日本が、世界に対して個性あるメッセージを発信する能力をもつ、一個の文明を築きあげていたことの証明なのだった。
▽376 このような特異な魅力は、明治に入ってからの改造によっておおかた失われたようだ。将軍と大名たちが江戸を見棄てたあと、広大な屋敷地は荒廃にゆだねられた。
▽377 「田舎ではちょっと眺めの美しいところがあればどこでも…、茶屋が一軒ある」
▽383 中尾佐助によれば、世界の花卉園芸文化の第一次センターは西アジアと中国で、日本のそれは中国に由来する第二次センターだとのことだが、江戸時代にはすでに、中国を凌駕し、おなじく第二次センターである西欧よりはるかに先に進んでいたという。「江戸期の日本の花卉園芸文化は全世界の花卉園芸文化のなかでもっとも特色ある輝かしい一時期であ」った。
▽386 花卉栽培文化が世界をリードした淵源は、大名や旗本の屋敷あるいは寺社に庭園がもうけられたことにあるらし。江戸には、大名屋敷に付随する庭園だけでも千を数え、後楽園・六義園クラスのものが300あったという。…江戸の花卉文化は、武士階級のリードするところだった。
…花卉に対する好尚はやがて中流階級に、そして庶民にひろがった。「花暦」に従って名所や寺社の四季の花々にむらがり寄るのが、徳川期の日本人の習性になった。
▽388 「花好きと詩は日本において分離できぬ車の両輪である。…小さい紙に書きつけ、その紙を彼が詩に詠じた木々の枝に結びつける」ジーボルト
▽395 「私の幼いころのすみだ川は実にきれいでした…」。昭和10年ごろ「このごろの両国」の写真を見せられて、「心にだけは、大事にしておきたかった」風景が根こそぎ失われたことを知った。
…日本の自然の美は、ひとつの文明の所産だった。文明が構築したコスモスだった。徳川後期の日本人は、そのコスモスのなかで生の充溢を味わい、宇宙的な時の循環を個人の生のうちに内部化した。
▽404 江戸の犬の大部分は特定の飼い主がいなくて、町内で養われている犬なのだった。町共同体の一員だった。…石を投げられたこともなく…共同体の下級メンバーとして遇せられ…
▽415 幕末の日本においては、乗馬は軍事技術ではなくて、ひとつのモードでありファッションだった。徳川後期はまさに社会全体の心性がいちじるしく女性化した時代だった。(平和であること)
▽418 日本人には牛馬を殺す習慣もなかった。…ふつうの日本人の意識では、家畜を殺すのを忌むのは仏教の殺生戒というよりも、それが家族の一員であるからだった。
…本来は子牛のものたるべき乳まで収奪しようというのは、いささか没義道にすぎるというものだった。
▽424 火事で「焼け出された人々も必ず幸福そうにニコニコしている」「日本人の性格中、異彩を放つのが、不幸や廃墟を前にして発揮される勇気と沈着である」
…焼け跡の立ち直りの早さは、火事馴れした江戸っ子の伝統だった。
▽432 モースやバードらからすると奇異に思えるような日本人の生類に対する関係の基礎には、ひとと生類がほとんど同じレベルで自在に交流する心的世界があった(〓石牟礼)。
かつては西洋にも存在した心的世界である。しかし、西洋ではつとに滅び去った世界であったゆえに、19世紀の欧米人に古き日本の特性として印象づけられた。
▽432 明治の日本人知識人が己の過去を羞じ、全否定する人びとだった…
▽440 「寺詣でをする者は、日本のどこでもきわめて貧しい住民や農民ばかりである」。サムライ階級を無神論者と断定。
ふつう、知識階級が伝統的宗教から離れ、旧い信仰を保っている民衆から切り離されたのは、明治以来の近代化・世俗化の結果だと信じている。あにはからんや、それは徳川期以来の伝統であったのだ。…その底には儒学的合理主義と徹底した現世主義が存在した(プロ倫=森嶋〓)
▽444 全国の膨大な数の寺社と住民の関係、とくにその祭礼のありかたを一見したとき、彼らの喉をついて出たのは「日本では宗教は娯楽だ」という叫びだった。…「私の知る限り、日本人は最も非宗教的な国民だ。巡礼はピクニックだし、宗教的祭礼は市である」
▽448 神社の境内は子どもの遊び場。大人同様、子どもにとっても寺や神社は楽しいところだった。
▽453 僧侶の社会的地域は高かったが、人びとからは軽蔑されていた。「精気のない目つき、白痴のような顔つきをした彼ら僧侶や神官には、ただ驚かされるばかりであった。とくに仏僧が神官よりもひどかった」
▽455 ロシア正教日本大主教のニコライは、日本庶民の地蔵や稲荷に寄せる信仰に、キリスト教の神髄に近い真の宗教心を見出していた。…宗教改革もルネサンスも知らず、世俗化の波にさらされることのなかったロシア正教は、前近代的なキリスト教信仰の本質を保持していた。
▽456 武士の思考が合理主義一点ばりで、神仏も含めた神秘な世界への感受力を欠いていたとは信じられない。彼らは単に、形骸化した既成宗教を軽蔑していただけだろう。
▽468 …私は、幕末、日本の地に存在した文明が、たとえその一側面にすぎぬとしても、このような幸福と安息の相貌を示すものであったことを忘れたくない。なぜなら、それはもはや滅び去った文明なのだから。
▽471 …自国を世界の中に置けば粟粒のように小さいということは、劣等感を誘うことでも、逆にそれがどうしたと肩をそびやかすことでもなかった。それはひたすらおかしみを誘う事実だった。自己客観視にもとづくユーモアが香っている。 (高度成長は大国感覚を継続させてしまった〓ナショナリズムの継続)
▽474 「日本人が好きなのは現実のことや具体的なこと」で、形而上的、観念的な問題に関心を示さないと慨嘆する。
…宿屋に泊まった観察者たちが、まず呆れたのは、日本人が隣室の客のことなどいささかも考えず、夜明けまでドンチャン騒ぎをやること。…徳川期からの伝統だった。
▽480 弥次喜多 人が死んでもどんちゃんさわぎ… 今日のわれわれは、この物語のユーモアに不気味なもの、なにか胸を悪くするものを感じる。…西欧近代のヒューマニズムの洗礼を受けたから。おのれという存在にたしかな個を感じるというのは、心の垣根が高くなるということだった。同宿の宿が騒ぎはじめたとき、まあ俺だって仲間連れならあんなふうに騒ぎたくもなるだろうと観念すれば、悶々と過ごすことはない。
…心の垣根が高いということは、個であることによって、感情と思考と表現を、人間の能力に許される限度まで深め拡大して飛躍させうるということだった。そういう個の世界が可能ならしめる精神的展開がこの国には欠けていると…は感じていた。
…アメリカ在住中に夫に死なれて二人の娘と日本へ帰った杉本鉞子。娘の花野の変化によってやがてアメリカへ戻る。「眼はもの柔らかになりましたが、昔のように輝いてはおりませず…晴れやかな快活な話しぶりは消え、もの静かに和らいできました…生活の一切に興味をそそられて、元気一杯だった、あのアメリカ生まれの娘の姿はどこへ行ったのでございましょう」
鉞子自身、若き日、外国人教師の「表情の豊かさに驚くばかり」だった。「幼時の思い出の中にある人々は表情が欠けて」いた。モースは言う。「日本人の顔面には強烈な表情というものがない」
…古きよき文明はかくしてその命数を終えねばならなかった。(〓個ではない文明)
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