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疲れすぎて眠れぬ夜のために <内田樹>

角川文庫 20071222

男らしさ、女らしさ、商人らしさ、農民らしさ……。そういった「らしさ」は多様性をもたらすことになり、人類が存続するための生存戦略上有効だったという。
礼儀正しくしたり、冠婚葬祭で礼装をまとうのは、いらぬ摩擦を生まぬためのひとつの知恵である。
「そんなみてくれなんて!」という意見は当然でてくるが、それは、外からは見えない「本当の自分」があると信じているからだ。が、実はそんなものはない。あったとしても、そんなものをわかってくれる人はおらず、しょせん人間は外見によって判断する。むしろ外見によって内面が形成されていくことが多い。
家庭内暴力を「愛するが故の暴力」と説明することがある。そんなロジックがでてくるのも、「本当の自分」はピュアで愛情深い、と思うためであり、そういう暴力を受ける側も「本当は優しい人」などと信じるからだ。暴力をふるう愛情なんてありえない、と被害者側が確信していれば、暴力即事件であるから、陰湿な家庭内暴力が長々とつづくわけがない。
なるほどなあ、と思う。
結婚には愛という「中身」が不可欠だ、という考えも同様に破壊的である。永続性のある愛などほぼあり得ないからだ。「中身」ではなく「交換」という外見が大切なのだという考え方は、人類学的な「贈与」の考え方からみちびきだされるという。
制度や型といった構造は、生存戦略上の人類学的な知恵からできあがっていることが多い。だから、それらをあまり急進的に変えないほうがいいと説く。
ひとことで言うと、「保守的」なのだ。
その保守性が、護憲的な考えにもつながる。たしかに9条は現実と矛盾するが、矛盾をはらみながらも、いやねじれがある状態だからこそ、戦争をしないですんでいる。それなりにうまくいっているのだからそれを変えなくてもいいじゃないか、矛盾は矛盾のままでいいじゃないか……という。
「甘い幻想」と評される戦後民主主義は、悲惨と苦難をとおりぬけた世代がきわめて現実主義的につくりだした夢であると評価し、すくなくとも、苦労も知らない戦後世代の夢よりも実用的・現実的であるとみる。
彼の思想は人類学的な保守主義?を徹底しているがゆえに、小泉的な「改革」をきらい、同じ理由でフェミニズムをもきらう。

家庭内暴力の原因を「核家族」にもとめる論もなるほどと思う。人類学的には親族の最小単位は、男の子にとって父以外の男性がいる(父母子伯父という)4項目構造なのに、核家族は、本来親族を構成するうえで必要なものを欠いている。レヴィ=ストロースの理論がこんなところに活用できることにおどろかされる。
今の人は自宅に他人が入りこむのをいやがるから家の中がどろどろに癒着する。日本の家は本来もっと開放的であり、「縁側」はそういう機能をもっていた。DVをなくすには、頻繁に客が出入りする家をつくらなければならない、という。

「型」の重要性をといたあと、型をしっかり身につけたうえでの「型」破りの大切さを説く。武道の文脈でかたっているが、文学論もにている。漢文という型を身につけたから漱石の文章は一定のリズムがあり、型をくずすことで独自性も生まれた。型がないと、実は文章力の向上はむずかしく、安易な模倣による画一化をもたらしかねない。
実はこれは市場でも同じだという。「らしさ」があるときは、その型にしばられているがゆえに多様性が保障される。「らしさ」を否定することで、大量生産をもとめる市場に翻弄され、逆に画一化していってしまう。
「らしさ」の解体や「型文化の衰退」についての論は、資本主義と人類学的システムの相克という大きな文脈のなかに位置づけているという。

一方、若干の疑問がないわけではない。筆者的な保守主義は、制度が適切に機能する中流社会だからなりたつ思想である。圧倒的な人が貧困や暴力で死んでいく社会では、こうした保守主義はなりたたないだろう。たとえばインドのカーストは「型」を細分化することで生存をはかる構造だが、どう見ても完全な抑圧機構になってしまった。
レヴィ=ストロースは「カーストが異なるが故に平等という状態に到達できなかったため、この実験は失敗した」と評している。
人類学的な知恵を適用するにはやはり、じゃっかんの階級的な視点が必要になるような気がする。よい人類学的知恵(慣習)と悪い知恵をどう区別していけばよいのだろうか。
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▽上司や部下の暴言にたえ、妻の仏頂面に耐え、ローンに耐え……全身これ「忍耐」からできているのが「中年のオヤジ」という存在。「不快に耐えている自分」を「器量の大きい人間」と勘違いしたら、不快な人間関係だけを選択しつづけることになる。
▽思春期の親子対立 「不愉快な人間関係」 気分が悪いのは当たり前。子供は親を起こらせるためにそうしているのだから。だから、子供が「親離れ」の時期を迎えたら親は我慢すべきではない。「金はやるから、出て行け!」と。それが最高の贈り物。
……不愉快な人間関係に耐えていると、生命エネルギーがどんどん枯渇していく。
▽人類学的にも、死者は正しく鎮魂されねばならない。死者が「それを聞くと心安らぐような弔いのための物語」を語り継ぐことが、死者が生者の世界に災禍をもたらすことを防ぐための人類学的コスト。(保阪と高橋論争?〓)
▽「女性管理職は買収に対して男性より無防備」 「会社のため」より「私のため」がフェミニストの社会進出の動機付けの一つだから、女性が出世した場合に一番困るのが「会社の利益より自己利益を優先させる傾向」。「男性が占有するリソースを奪還するため」仕事をするという考え方をする限り……
▽やることは決まっていて、決まった通りのことをしなかったら怒られる、というレイバー的なアルバイトからは時給以外に何も得るものがない。レイバーではあるがビジネスではない。努力が報われ、才能が評価されるのはビジネスの場だけ。
▽交話的メッセージ 「もしもし」のように、メッセージが届いているか確認するメッセージ。太宰も交話的文体の天才。
▽世代幻想 ビートルズ世代、実際は聴いてもいなかったのに、後になって「私はビートルズに夢中だった」と回想する。本人はそう信じている。「偽造された共同的記憶」
▽戦後民主主義は、「戦後民主主義的なもの」の対極にあるようなリアルな経験をした人たちが、悪夢を払うために紡ぎ出した「夢」。トラウマから癒えようとして必死に作り出したもの。
その世代に比べると、戦後生まれのぼくたちは、飢えた経験も極限的な貧困も知らない。戦争経験もない。
「戦後民主主義」は甘い幻想のように言われるが、真の暗部をみてきた人たちが造形したもの。
民主主義は「民主主義を信じるふりをする」人たちのクールなリアリズムによって支えられている。民主主義というのは、「信じるふりをする」という自分の責務をわすれたらかんたんに別の制度にシフトすることを知っている人たちの恐怖心に支えられた制度。ぼくたちの世代が失ったのは、この「恐怖心」
日本がダメになりはじめた70年代は、「怖いものをみた」リアリスト世代が社会の第一線から退いた時と符号する。本当の意味での「エリート」、「りすく・テイカー」が消えた。
▽日本語で思考するということは、語固有の思考パターンを受け入れるということ。
若者は「オリジナル」を好むが、個性だと思っているものの95%は実は「既製品」
▽どの世代も世代に固有の「正史」がある。流行した音楽や漫画。でも「俺もみてたよ」という言葉も相当部分はかなり誇張されている。
▽日本は「神なき国」で、個人の倫理性を保証するものとして、「人」「世間」の視線を想像する。「他者志向」が強い。「はしたない」「さもしい」という倫理的規制は、絶対的な基準はない。人や世間のまなざしを内面化した人間だけに妥当する種類のローカル・ルールとしての倫理性。すいう倫理性にはぐくまれた最良の人々は、人がみていないところでも、つねに居ずまいをただして一本芯が通った生き方をしたのだろう。
▽日本の倫理は「罪の文化」ではなく「恥の文化」(ベネディクト)
行いや姿かたちに外形化していなければ「正しさ」は承認されない。だから日本の「恥の文化」は同時に「型の文化」となる。
型を通して、社会的な自分のポジション、つまり「分を知る」。マッピングする。
▽身体を脳を中枢とする上位下達組織の末端ではなく、細かいセグメントがゆるやかに連合した「リゾーム」状の組織とみなすこと。身体の各部が自律的に活動すれば、心が恐怖や焦りを感じるときでも、身体能力はそれと関係なくふだん通り活動する。「居着き」を克服できうる。
▽快楽はある種の反復性のうちに存する。山下達郎が比較的同じタイプの楽曲を繰り返し制作するのは……「ファンに対する愛情」。本を作るときも、「だいたい同じで、ちょっとだけ違う」。トピックは違っても、切り口はいつもと同じ、というものを読者は求めている。村上春樹も村上龍も高橋源一郎も、律儀に「いつも同じ」ことを書いている。
▽江戸時代には、IDカードも写真もない。別の名前をかたって知らない土地で暮らせば、いかなる身分の者にもなれた。近藤勇は、流山では大久保大和と名前を変えて官軍と交渉するが、官軍側は近藤だと誰も確信できない。そういう時代だからこそ、各身分における型が決まってくる。「……らしく」ふるまっていれば、それがアイデンティティの担保になった。「型の文化」の背景には、IDシステムが存在しなかったという現実的理由がある。
▽自分に反対する人間であっても、「同じ日本人である限り」、その権利を守りその人の利害を代表する、と言い切れる人間だけが日本の「国益」の代表者。自分の政治的見解に反対する人間の利益なんか知らんというような狭量な人間に「国益」を語る資格はない。
オルテガ・イ・ガセーは「弱い敵とも共存できること」を「市民」の条件としている。絶滅させることもできるが、あえて共存し、その立場をも代表して、市民社会の利益を考えられる人間を「市民」と呼ぶ。
▽「ほんとうの自分」というフィクション 「らしさ」「節度」は、自己防衛のための知恵。「らしくふるまう」という節度の対極が「ありのままの自分を出す」
そのときどきで適当にキャラを変えるほうがいいよ。「ほんとうの自分」も作り話の一変種なんだから、どんどんバリエーションを増やす努力をしたらいかがですか。
▽権力を持つ人間の前では絶対に素顔をだしてはいけない。これが礼儀の基本。軍隊が典型的。絶対的な権力者の前で素顔をさらす危険を熟知しているからこそ、生き延びるために仮面をかぶる。「礼儀正しくしなさい」というのは、「君は無力なんだから、まずきっちりディフェンスを固めなさいよ」という教え。
「礼儀正しい応接をされる」と、なんとなく、かわされる、という感じがする。それ以上攻撃的につっこめなくなる。ディセンシーの防衛的効果。
▽家庭内暴力などの問題は、核家族に根があるのでは。レヴィ=ストロースによれば、本来親族は4項関係。お父さん、お母さん、お母さんの兄弟(おじさん)、男の子。親の代の水準に、自分と同性の大人が2人必要。親権の行使に対して、親たちの兄弟が介入するのが親族の基本構造。親族の最小単位。すべての人間集団は、有史以来この4項の構成員によって親族を構成してきた。
▽デュルケムの「自殺論」 寒い地域のほうが自殺が多い。プロテスタントは多いがカトリックは少ない。大家族には自殺が少ない。
▽今の人は他人が入り込むのをいやがる。だから家の中がどろどろに癒着する。日本の家は本来もっと開放的。「縁側」はそういう機能をもっていた。頻繁に客が出入りしていた。
家を開放的なシステムにしないとまずいよ。身内だけで固まった場所が暴力と狂気の温床になる。今の子にとっての急務は、いかにして家庭という危険な場所を無傷で逃れ去るかということ。
▽「こんなに愛しているのに」と暴力ををふるう側は、「俺の気持ちは純粋だから正しい」と思いこみ、被害者側もしばしば「純粋な愛ゆえの暴力」は容認されるべきという判断に与する。加害者も被害者もこの点については同じイデオロギーの信奉者。もし被害者が「愛情は決して暴力的表現をとらない」ということを確信していれば、この暴力行為は刑事事件となって、加害者は司法の裁きを受ける。DVはそうならないということは、被害者も「愛情はときとして暴力的表現をとる」という考え方を共有しているから。
人を傷つけるのは相手に対して悪意があるから。愛しているが故に人を傷つけるということはありえない。
▽幼児期に親から虐待された子供は、それを意味あるものと思いこもうとして、愛しているから殴ったと信じる。そう信じているから、暴力をふるう男を選んでしまう。「反復強迫」。
加害者の側は、「ほんとうの自分」がピュアでありさえすれば「外側で何をしてもかまわない」というイデオロギーで武装している。
▽家庭内では「ほわん」としたメッセージの往還にとどめておくほうがよい。政治的意見の一致を探るなんていうのはナンセンス。ほんとうに親しい人たちの間では、ときには「なにもしない」ということが貴重な贈り物になる。ほっといてあげる、というのは、敬意の応酬でもある。「コミュニケーションとは贈与である」という、ものごとの基本がわかっていないと理解が及ばないが。
▽人間に残る動物としての本能では、システムの安定のためには、成員の欲求はばらけているほうがいい。型や身分や性差や親族組織やトーテミズムは、そのための人類学的発明。
しかし、人間は、システムの安定を犠牲にしても、財貨やサービスや権力や情報が「どんどん運動する」のをみたいという、非合理的な欲望をもつ。安定か欲望か、の拮抗関係は、「欲望」優勢のうちに推移してきた。〓欲望の充足を生態系の安定より優先的に配慮する生物が人間である、ということになる。
資本主義の本質は「大量生産・大量流通・大量消費」を優先させるシステム。そのためには「みなが同じものを欲望し、かつ欲望の対象が一定しない」ほうがよい。
資本主義にとって障害は、「らしさ」に統御された集団に欲望が分散してしまうこと。集団ごとの欲望がずれているというのが、有限な資源配分のための知恵だが、資本主義が求めているのは正反対の「全員が同じものをほしがる」状況。
社会成員の欲望をできるだけ均質化しようとする資本主義と、成員の欲望をできるだけ分散しようとする人類学的制度の間に熾烈なバトルが展開する。

▽資本主義にとってベストの戦略は、「一つのできるだけ狭いニッチにできるだけ多くの個体を押し込む」こと。ユニクロばかり売れる日本。
「らしさ」が批判されたとき、それは「生き方のオプションの多様化」をめざすものだったのに、逆に、「生き方の単線化」に陥った。「自分の好きな生き方をしてごらん」といったら、みんなお互いの顔色をうかがいだして、お互いのまねをしはじめた。
それまでは集団ごとの「モデル」をまねしていたが、好きにしてもいいよ、といわれたら、「ほんとうに私が欲望しているもの」なんて存在しないからこまってしまった。人間の欲望は本質的に他人の欲望を模倣するものだから。
人間は自由に生きる方がいい。でも同時に、あまり自由にさせない方がいい。うっかり自由にしてしまうと、人間のあり方が全部同じになってしまうから……。

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