20071202 ちくま新書
時間は絶対的ではない。時間というのは宇宙のはじまりと同時に生まれたのであって、「宇宙のはじまる前」には時間というものがなく、宇宙が消え去れば時間というものはなくなる。
という科学的知見は、長らくヨーロッパ理性の中心をなしてきたニュートン力学をくつがえす動きである、相対性理論などのなかからでてきた。
絶対的だと思われてきた、だれにとってもなににとっても同じ長さだと思われてきた時間という軸さえもが相対的なものでしかない、という考え方はまさにコペルニクス的な転換となった。
「時間のはじまる前」という言葉さえもおかしいが、仮にそういう世界があるとすればそこはいわば永遠なのだ。
こうなると、宗教と科学の境目さえも曖昧になる。
キリスト教は世界は神がつくり、この世界が終わるとまた永遠の世界が訪れると説く。「時間」のある世界は永遠と永遠の間にはさまれたつかの間の存在である。
キリスト教は時間の経過のいくつはてに「永遠」を設定するのに対し、仏教は、時間とともに生きる今、というあり方じたいが虚構であり、奥深い部分には時間に影響されない真理・永遠があると説く。キリスト教の永遠は外在的であり、仏教の永遠は内在的である。プラトンのイデアという思想をはじめとするギリシャ哲学もまた、仏教と同様の内在的な「永遠」を設定している。
外在か内在か、正反対ではあるけれど、どちらも永遠の世界を時間のある現実の世界と対置する。実はキリスト教のなかにも仏教的な内在的な考えをする一派もあり、仏教のなかにも、キリスト教のような時間の果てを設定する浄土宗系の考え方もある。どちらも似たようなものをもっている。
……という話を論じている。科学と哲学と宗教を統合する思想の展開はダイナミックでおもしろい。
さて、ではなぜこれが「死生観」なのか。
「生きかわり死にかわりして打つ田かな」という句にしめされるように、日本では、田が次々に子孫によって打ちつづけられるということへの肯定感がみられる。宗教が生活から切り離されることでこうした死生観が失われ、生きている実感がもちにくい、生きていく意味が見出しにくいという人が増えてきた。死の意味がわからないことによって、生の意味づけもよく見えなくなってしまった……。
たしかに「死」のむこうに永遠があると信じられれば死の怖さは減じる。ホスピスケアでも有効だろう。そう信じればいいな、とは思う。でも、もう少し具体的にどうすれば死生観を確立できるのか、知りたいところだ。
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1) 私が死んだ後も時間は流れ続ける
2) 人類全体が死に絶えた後も時間は流れ続ける
3) 宇宙がすべて消滅した後も時間は流れ続ける
と問うことによって、時間というものは自明な存在ではないということを示す。
▽ニュートン力学では、世界の容器としての「絶対空間」「絶対時間」を無条件に想定される。「現象」の側から出発し、逆に時間・空間概念の変更をする、という大転換によって、相対性理論が生まれる。「存在するとは知覚されること」という理解。知覚されるとは、その物質から放たれた光が観察者の網膜にとどくことだから、世界の事物は光によって成り立つことになる。
▽アウグスティヌス「時間そのものも神によって作られたがゆえに、いかなる時刻においても、神は何も作られはしなかった」……それと同様、相対性理論では、時間は宇宙のなかのできごとにラベルをはる座標にすぎない。時間は時空の外部ではいかなる意味ももたない。宇宙がはじまる前に何が起きたかを問うことは、地球上で北緯91度の点はどこかと問うようなものである。
▽「人間の3世代モデル」 子供は「遊プラス学」、老人は「遊プラス教」。産業化以前は老人が「教」という役割のかなりを担っていたのではないか。産業社会になると、老人が背景に退くとともに、「教育」はひとつの制度になり、「大人」がおこなう「仕事」となっていった。(老人が生産にたずさわっていたことが存在感の意味だったとはいえないか?〓だから今、じいさんより、家事という生産活動をになうばあさんのほうが元気なのではないか)
▽俗なる時間(仕事の時間) 遊びの時間(子供) 聖なる時間(老人)という考え方をすれば、子ー大人ー老人 という直線ではなく、円を描くように理解できるのでは。
「俗なる時間」というカレンダー的な時間は、いわば「遊びの時間」という大きな海に部分的に浮かぶ島のような存在にすぎなかった。それが次第にそちらのほうが全体をおおうようになり、ついにはカレンダー的な直線的な時間がまずあって、その「枠組み」のなかに余暇としての遊びの時間が位置するようになった、といえるのではないか。(〓無限だった子供の時間=創造の時間=エンデの世界 でも、子供も労働を強いられた時代が長かったのでは?)
▽宗教の論理構造
1) 「永遠」の位置づけ
2) 存在の負価性
(生きていることじたいがマイナスの価値をおびている、という理解)=世の中に不条理が多いから宗教が必要になる
苦難を何らかの形で意味づけ、それを通して救済を与える。
一定の成功をおさめていても、それが何の意味があるのか、というはかなさの感覚も。
▽「生きかわり死にかわりして打つ田かな」田が次々に子孫によって打ちつづけられるということへの肯定感。輪廻は忌避すべき存在ではなく、肯定すべき生のプロセス。(変化を生き甲斐と感じるようになったのは近代以後? 変化しない繰り返しが幸福でありあたりまえだった時代、と、遍路道の信仰と〓)
▽「超時間性」は、永遠につながる。存在の負価性と永遠への志向という2つのことは直接連騰している。キリスト教も仏教も現世にたいする負の意識とそこからの脱却という点では共通しているが、そのベクトルが対照的。
時間軸上に永遠を位置づけるか、時間に対して永遠を優位におくか。
▽仏教は時間は虚妄として退けるが、キリスト教は、「歴史性」は積極的に凶兆される。宇宙の歴史は神の意志の実現という「目的」に向けた巨大な物語となる。
▽イエスも仏陀も、永遠と「いま」を結びつける存在・同伴者である。遍路の同行二人も同じ。
▽死とは、人がそこから生まれでてきて、「そこ」に帰っていくような場所。永遠とは、「時間のある世界」の前後をはさみこみ、あるいは「時間のある世界」という島にとって海のようなものとして存在するような、それ自体は時間を超えでた世界のこと。
p157
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