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団地の空間政治学 <原武史>

■団地の空間政治学 <原武史>NHK出版 20130307

 入居したときピカピカで子ども心に興奮した団地は、40年を経て、小枝のような木は大木に育ち、緑あふれる環境になった。「緑が豊かでホッとする」「日当たりがよくていい」。すっかり高齢化したが、独特のコミュニティが形成されている。
 40年前、若い父母たちは真新しい団地に自治会やサークルをつくり、子どもの心に「故郷」を刻もうと盆踊りを催し、少年野球チームを組織した。そこにはコミュニティづくりの意思があった。同じような建物がならぶ団地は、社会主義思想と親和し「みんな」意識が生まれやすかった。集落の家の配置が人々の思想を規定するというアマゾン先住民族に対するレヴィストロースの観察と同様の「型(構造)の力」が働いていた。
 ではその後に急増したマンションも、時がたてばコミュニティが形成されるのかというと、おそらく無理だろう。コミュニティを求める「意思」と「空間の力」(構造)がないからだ。

 団地で生まれ育った筆者は、団地のなりたちを紹介し、その空間が生みだしたものを首都圏と関西圏の団地の調査をもとに描き出していく。
 団地の浴室とシリンダー錠はプライバシー概念が急速に浸透させたが、一方で、同じ間取りの家が集まっているため、隣近所への心づかいが敏感で流行をうみだす土壌になった。
 地縁も血縁もない人が集まるなかで自治会がつくられ、「地域自治」も現れた。60年代から70年代にかけての革新的な政治意識を支える基盤となった。家賃値上げ反対や鉄道運賃値上げ反対、幼稚園設置などを訴えた共産党が支持を伸ばした。
 だが70年代に高島平のような高層団地が建設されると個人主義化が進み、密室にこもる「団地妻」が団地を象徴する時代となっていく。80年代になると共産党の伸びは止まる。中間層の持ち家取得を進めた自民党政府の政策が、公営住宅建設を主張する社共に勝利したことや、団地という地盤を公明党と食い合うようになったことが原因だった。自民党の持ち家政策の効果は、農村を強固な保守地盤にした農地改革の効果に似ている。
 筆者は、50年代から70年代にかけての「コンクリートの壁を打破するために住民が取り組んできた団地の取り組み」は今後に生かせる可能性があるとする。団地で育った私も、コミュニティを目指す40年前の取り組みの「遺産」は40年後の今も残っているような気がする。

 千葉の高根台団地で自治会長をつとめた竹中労の団地観察は秀逸だ。「あの窓この窓に灯が消えてまたともり、水洗便所の音が闇をさいてかすかに二度ひびいてくるのである」…(それから1、2年後)「窓の外には、ほとんど灯がともっていない。3つ、4つ、5つ、深夜になっても帰宅しない夫をまっているのであろう」。サラリーマン生活に疲れた夫に相手にされない妻の、性生活に対する不満を描き出している。

 同じく千葉の常盤平団地は、ほかの大団地ほど共産党が強くなかったことが、社会主義が凋落する90年代になっても公団と闘う自治会活動を維持するうえで有利に作用したという。孤独死問題に取り組んで成果をあげ、「老人が安心して暮らせる団地」として入居希望者が殺到しているという常盤平団地は一度訪ねてみたい。

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▽12 団地に住み始めたときの輝き。自治会ができ、政治や文化の関心に支えられた居住地組織やサークルができ……団地で生まれた子が成長して出てゆき、住民が高齢化するとともに、団地が輝いていた時代は忘却されつつある。
▽14 「団地再生まちづくり」
空間と政治、建築と政治の相関関係が注目されている。……ヒトラーらは全体主義の正当性を補うべく、大規模な都市改造をした。上からの政治思想にのっとって空間をつくりだした。
大正期には無用の長物とまで呼ばれた宮城前広場や単なる橋だった二重橋が昭和初期になると「君民一体」という下からの政治思想を生み出した。「空間」が政治を形成した。
団地も、「空間」が政治を形成した。60年代から70年代にかけての革新的な政治意識を支える有力な基盤となった。
□ひばりケ丘団地
▽22 当時の日本では、新興の団地こそ、アメリカ型ライフスタイルの先端をいくものと考えられた。
DKや洋風テーブル、自宅用浴室、シリンダー錠などは、占領軍家族用に建てられたデペンデントハウスでいち早く整備された。
▽24 浴室とシリンダー錠は、日本の住宅ではじめてプライバシーが確保された「マイホーム」の概念を確立させた。
▽28
▽32 団地に住むことで、プライバシー概念が急速に浸透していったという。だがこの視点は、同じような間取りの家が大量に集まって生活しているという、団地の集団生活としての側面を見ようとしていない。〓
……食卓の位置、洗濯機の置き場所……ほとんど寸分の相違もない。
セールスで階段のうち1軒が陥落すればあとは楽。生活の見栄に関する限り、裏長屋よりも隣近所への心づかいは敏感で、そのため生活革新の流行をうみだすモデル地域になってしまった(西山夘三)
▽38 団地でおこったさまざまな問題は、自治会をつくり、解決してゆくほかはなかった。……大政翼賛会の末端組織として町内会や部落会、隣組が<上>からつくられ、戦争協力に動員された。それから10年あまりたち、地縁も血縁もない新参者ばかりが住んでいる団地で、自治会が<下>からつくられた。
▽41 アメリカには団地はない。日本の団地に近い風景は、ロシアや東ドイツ、ポーランドなど、戦災に見舞われた旧社会主義国の大都市郊外に多く見られる。フルシチョフ時代の「標準設計」
▽47 Y字型の「スター型ポイントハウス」、四角い形状の中層住宅「ボックス型ポイントハウス」、庭付きメゾネット型の「テラスハウス」などがあった。が、63年に公団が全国統一型標準設計「63型」が作成し、63〜72年度まで、支所標準設計は禁止され、本所標準設計に統一される。建物の画一化がすすむ。
▽57「私生活主義」と、団地自治会に象徴される「地域自治」とが、同時並行的に現れた。50年代後半の多くの団地では、安保闘争に触発されて居住地組織がつくられてゆく
□香里団地
▽63 首都圏では当時、フラットな地形に建てられる団地がほとんどだった。丘陵地帯に公団の団地が次々にできるのは60年代後半になってからである。大阪圏は平野が小さいから、丘陵地帯に建てられる時期が早かった。千里ニュータウンは多摩ニュータウンより入居開始は10年近くも早い62年だった。
香里ケ丘は鉄道の駅から離れている。「交通の便利が非常によい場合、地域共同体意識はうすくなる。団地が駅に直結して形成されるか、駅から時間的・距離的間隔にあるかは、その団地の共同体的性格を決定する重要な要因になる」
▽67「関西では少し前までは電車の中での新聞の貸し借りというのは、わりあい多かった」(1981、多田道太郎)
……車内でも見知らぬ客どうしが声をかけあう関西と、ウチとソトの区別が厳格で、他人には冷たい関東。
▽75 「香里ケ丘文化会議」多田道太郎らがつくる。「日本の団地族の最高水準」といわれた住民の政治意識。
政党や宗教団体ではなく、個人を基盤とする民主主義であり、地域に根ざした下からの民主主義。多田や大淵は、社会主義とは意識的に距離を保ち、主に社会契約論的な見地から民主主義をとらえている。
▽85 文化会議のなかの生活問題研究会が、安くて新鮮な野菜を入手できる近郊の農業出荷組合と提携し、61年5月に「青空マーケット」(公団や婦人会は反対したが、超先進的な取り組み)
▽89 日本一の自治会に。62年に完全公選制の役員選挙。役員136人のうち女性が9割を占めた。総じて関西の団地は、関東に比べて役員に占める女性の割合が高い。
▽91 穏健路線に転じた共産党が支持を伸ばした時代、枚方も革新王国に。……共産党は60年代後半から団地政策に取り組み、公営バスを走らせること、家賃値上げ反対、……など具体的な対策を打ち出した。
……新興の団地は、地元とは関係ない新住民によって構成されたため、自民党の地盤になっていなかった。「青空マーケット」で近隣の農村と団地の連帯を目指した文化会議の活動が長続きせず、団地が周辺から孤立したままだったことが、共産党にとっては都合がよかった。
62年、新日本婦人の会結成。共産党のイメージがさらにソフトに。
……市民幼稚園の設置など、60年代後半になると、新婦人がかつての文化会議の活動を肩代わりするようになっていた。
▽100 大阪では東京より早く「団地の時代」から「ニュータウンの時代」への移り変わりがあった。……香里団地から千里へ転居する住民が相次いだ。団地住民が入れ替わり、文化会議の会員数も頭打ちに。
□多摩平団地とひばりケ丘団地
▽103 60年安保闘争を機に生まれた最大の市民団体は「声なき声の会」。居住地組織をつくることを提唱しており……東京では「文化会議」のような居住地組織が、一カ所でなく、同時多発的にできている。
▽110 中央線沿線 国立町
杉並は、ビキニ環礁での水爆実験後、40万人弱なのに2カ月足らずで27万人の署名を集めた。……福島原発事故後の2011年4月にも、市民デモが杉並区の高円寺ではじまり……
中央線沿線 すべて無党派ないし超党派の運動。多摩平声なき声の会も、こうした運動と無縁ではなかった。
西武沿線は、学園都市づくりに失敗したため、国立のような大学町ができなかった。
池袋線の清瀬から新宿線の東村山にかけての一帯には、明治末期から結核やハンセン病の療養所がいくつも建てられ……敗戦直後から各病棟に共産党の細胞ができた。これらは東京でもっとも強力な居住細胞へと発展した。
レッドパージの50年代になっても、清瀬村だけは常に共産党の得票率が高かった。
▽120 多摩平団地の自治会。古い体質の日野町には脅威だった。
▽126 多摩平団地は長く住み続ける住民が多かったこと、持続的な自治会活動を可能にした。香里ケ丘文化会議とは対照的。
▽128 「いまの日本の政治について討論する集まりを、自分の住んでいるところ、つとめているところにつくることを、一人一人が呼びかけよう」 声なき声の会 「いまここネット」
▽132 64年に多摩平団地に「新日本婦人の会の多摩平班」ができた。共産党の女性支持者を増やす重要な基盤となってゆく。
▽137 多摩平団地は65年ごろを境に、無党派の政治風土から、革新政党の地盤へと徐々に変化した。
▽157 西武運賃値上げ反対運動。安保闘争以来の、反米=反堤=反西武的空気に加えて、労働者が搾取されて貧しくなるというマルクス経済学の窮乏化理論がリアルに実感されたことが、沿線住民の反対運動を盛り上げた要因だったように思われる。
▽159「ことぶき食品」が「ひばりケ丘店」を開店。のちに、すかいらーく に。
▽171 西武沿線は、中央線沿線のように、駅前に喫茶店や映画館、古本屋などはなかなかできなかった。街が成熟しないうちに団地のイメージが悪くなってしまった。
子どもが成長し、高齢化が進んだ団地。ひところはあちこちの窓から「エリーゼのために」が響いてきて閉口したしたものだが……。
□常盤平と高根台団地
▽173 常盤平には上田耕一郎が住みながら、自治会を主導できなかった。高根台は、竹中労ら共産党員が相次いで自治会長となり、住民運動をリードした。
〓5階建てのスターハウスが10棟。自治会が建て替えを拒否しているため、スターハウスがそっくり残る貴重な団地となっている。
▽180「乳児保育がない」という女性の声。人とつながろう、政治にかかわろうという意識。
▽199 常盤平団地自治会 家賃値上げ反対で提訴。92年度から全戸加入に。公団を提訴した中沢卓実のもと、全国の大規模団地で唯一、建て替え反対の姿勢を貫くことに。〓
▽209 高根台団地 64年度の自治会長に、共産党員だった竹中労。当時の共産党の人材の幅の広さ。竹中は、一見同質的な団地主婦の生活の根底に、サラリーマン生活に疲れた夫に相手にされない妻の、性生活に対する不満があることを嗅ぎ取っていた。「あの窓この窓に灯が消えてまたともり、水洗便所の音が闇をさいてかすかに二度ひびいてくるのである」…「申し合わせたように、同じくらいのおなかをかかえた奥さんが目立ちはじめた」…(それから1、2年)「窓の外には、ほとんど灯がともていない。3つ、4つ、5つ、深夜になっても帰宅しない夫をまっているのであろう、さびしい光がもれているのみである」
▽214 「アカ攻撃」への竹中の反論の切れ味。 214
▽216 交通問題の署名運動 「一行ずつの署名が、かくもはばひろい、強力な市民運動となった事実。……そこに私は……小市民的な無関心と、あきらめムードを超克することができたのです」
団地での体験が、竹中をして日本共産党から離れさせる重要なきっかけとなったのは間違いない。
バス値上げに反対する「バスボイコット運動」。
□高島平 70年代の団地
▽230 60年代の団地は、コンクリートの壁を打破し、団地をコミュニティの場に変えていこうとする発想が共通していた。ところが70年代に巨大化・高層化した団地が建設されるとともに、密室における個人の欲望がひたすら肥大化してゆく。71年には日活ロマンポルノ団地妻シリーズの第一作「団地妻 昼下がりの情事」が封ぎられた。58年の週刊朝日からはじまった集合的な新中間階級を意味する「団地族」の時代の終焉と、孤立した密室にこもる「団地妻」こそが、団地を象徴する時代の幕開けを意味していた。
……団地の黄金時代はわずか10年あまりだった。
▽233 60年代に入り、炭坑の斜陽化や都市化がすすむにつれ、革新系の支持者が「炭鉱労働者」から「団地族」に移ってきて……
▽234 中間層の持ち家取得を推進してきた自民党政府の政策が、公営住宅の大量建設を主張する社会党や共産党に対して勝利をおさめた。その結果、自民党は第一党の地位を維持した。(〓「場」が思想をつくる)
▽238 滝山団地 5階建て中層フラットタイプのみ。最も同質的な団地だった。平等を重んじる社会主義の思想が浸透しやすく、「みんな」という意識が生まれやすかった。(「型」の力)
▽240 共産党に遅れて、団地住民の組織化に乗り出したのは創価学会。「私化」を防ぐ、という形。社共が公団の大団地を中心に勢力を伸ばしたのに対して、創価学会はそれよりも所得の低い公営住宅や木造賃貸アパートで信者を増やしてゆく。
……共産が80年代以降、国政選挙で議席を伸ばせなくなるのは、中小零細企業同様、団地という有力な地盤を公明党と食い合うようになったことも大きかった。
▽249 「共通の場」がない多摩ニュータウン。自家用車の普及も、団地がもっていた「共通の場」を崩壊させ、住民の私化を促進させる要因。……住宅ばかりか鉄道までもが、京王と小田急に分かれ……
▽252 上尾市は昭和45年には市の人口の33%が団地人口だった。
▽255 「質より量」を優先させた公団の戸数消化主義が、どこも同じ間取り、同じような家族構成ゆえに、「考える力にかけては人一倍」のはずなのに隣人の動向には敏感にならざるをえない世帯を大量に生み出した。73年の千里ニュータウンでトイレットペーパー騒動が起こったのは、60年代の団地で家電製品やネグリジェが一気に普及したのと、まさに表裏一体の現象であったと見ることができる。
▽256 民間マンション台頭。
▽259 団地のサイズは家族のサイズを決定した。子ども2人の核家族が標準だった。……やがて4人が2人に半減する。……自治会の加入率低下どころか、存続そのものが危うくなっている。
▽261 建て替えで、気密性が高まり……コミュニティの解体がいっそう進む可能性が高くなる。性の問題を除いて「高島平化」が進む。
東急田園都市線のプラーザ団地と田園青葉台団地は、60年代後半の団地。3LK、3LDKの全戸分譲にしたことが幸いして、高齢化が進まず、若い夫婦に根強い人気を保っている。
〓常盤平団地は、建て替え反対の姿勢を貫いている。ほかの大団地ほど共産党の影響が強くなかったことが、社会主義が凋落する90年代になっても公団と闘う自治会活動を維持するうえで遊離に作用した。
孤独死問題に取り組み、次々と成果をあげ、世界からも注目を浴びるようになる。(「孤独死ゼロ作戦」中沢卓実)……07年には自治会が商店街の一角に「いきいきサロン」を開設し、利用料100円でコーヒーや昆布茶を無料提供。「老人が安心して暮らせる団地」として入居希望者が殺到している。
▽267 「空間」が「政治」を生み出したのが日本の団地。
各団地での自治会や居住地組織の多様な活動は、「私生活主義」におさまらない「地域自治」と社会主義の親和性をあぶりだした。それが「私生活主義」へと傾くのは、エレベーター付きの高層棟が主流となり、他方で、ニュータウンの時代が訪れる70年代になってからだ。
50年代から70年代にかけて、コンクリートの壁を打破するために住民が取り組んできた団地の政治思想史から学べるものは多いはずである。

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