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EMBRACING DEFEAT JOHN W. DOWER

■EMBRACING DEFEAT  JOHN W. DOWER  20130222

「敗北を抱きしめて」

 日本人はどのように敗戦を受け止め、なぜ戦後の大転換が起きたのか。GHQは占領政治をどう展開し、それを日本人はどう受け止めたのか。
 そうした大転換をもたらした、戦前と戦後で変化しない日本人の本質はどこにあるのか。膨大な資料をもとに論証していく。英文で読んだため、理解しきれないところもあるが、とてもおもしろかった。
 アメリカの知日派は、敗戦によって天皇に殉じる人が相次ぐと見ていたが、自殺した軍人の数はナチと同程度だった。皇居前で天皇にわびる有名な写真も「本当はごくわずかしかいなかった。逆に喜んでいる人もいた」と木戸は日記に記した。軍の高官や官僚は、敗戦直後から軍事予算や物資を私物化した。南原ら最高エリートや戦争協力した文化人はみな「騙された」と言った。
 GHQは団体交渉権などの徹底的な民主化をはかる「上からの革命」を実施し、民衆は歓迎した。家システムを廃絶させた民法改正は日本人自らがGHQの原則にのっとってつくった。労基法の原案は、SCAPも知らない間に元思想警察だった日本人がつくった。
 「極端から極端にかわりうる変わり身の早さ」は日本人の特質だという。
 文化の分野でも、わずか数年で「天皇のため」が「かすとり」になった。花のように散ろうと考えていた兵士が闇市で働く状況を坂口安吾は「デカダンス=人間の復活」と位置づけた(国体から肉体へ)。

 戦前と戦後の連続性の指摘もおもしろい。
 戦争中、「建設」「文化」「新」という言葉は「大東亜共栄圏の建設」などと使われた。それが戦後「平和国家建設」「文化国家」になった。戦中は、さまざまな問題の原因を欧米帝国主義と共産主義に求めたが、戦後は「軍閥」に求めた。
 連合軍が官僚組織を活用したため戦時中よりも官僚は力をつけた。経済権力の集中によって大企業家と官僚と政治家とのチャンネルができた。占領政策は改革から逆コースへと変わったが、経済の上からのコントロールという形は戦前と変わらなかった。それは高度経済成長以降もつづいた。
 そうした「上からの革命」が権威に弱く順応主義という「日本人の特徴」を強めたという。

 天皇の人間宣言や憲法制定の舞台裏もくわしく紹介する。
 英米人が原案をつくった「人間宣言」は、日本人によって形式は大きく改変され、「明治に返る」というニュアンスにされた。原案では「神の子孫ではない」となっていたのを「現人神(あきつみかみ)ではない」というわかりにくい表現に改変された。戦後の全国巡行は、明治天皇の巡行とイメージを合わせようとした。巡行によって「天皇陛下に申し訳ない」という思いをよみがえらせた。
 憲法草案はGHQによってわずか1週間でつくられたが、国会での議論は114日間におよび、議事録は3500ページになった。国会で提起された修正の8-9割はSCAPに認められた。生存権と労働の権利は社会党が入れさせた。逆に、peopleを「国民」と訳したり、9条の「芦田修正」もあた。圧倒的な賛成で憲法は成立し、反対の大半は共産党だった。

 共産主義や労働組合が力をもつとともに、「逆コース」がはじまり、公務員のスト権も1948年に剝奪される。「新しい憲法の話」は1951年には使われなくなった。祝日だったメーデーは平日になり、天皇誕生日が祝日に返り咲く。天皇をからかう言説もいつしかタブーになる。
 同時に、戦争の忘却が進む。
 東京裁判の公式文書は発刊されず、憲兵隊のリーダーは罰せられなかった。冷戦で共産中国が米国の敵となることで、日本による虐殺や化学兵器使用などを調査する動きが弱まった。皇軍がアジアで犯した罪は短期間で忘れ去られた。海外で処刑された戦犯の思いを歌った歌謡曲が流行した。
 天皇は現人神から「人間」に、戦犯たちは悪魔の王国から人間の世界に降りてきた。だれも戦争と残虐行為の責任を負わないことになった。長崎の永井たかし博士や「きけわだつみの声」は平和の象徴だったが、「日本人は犠牲者」という意識を広める役割も果たした。

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▽39 終戦後、数百人の軍人が自殺したが、愛国的自殺、という信仰がなかったナチの軍人と同じ程度の数でしかなかった。
▽45 日本人270万人、人口の3,4%が犠牲になった。……マッカーサーの司令部は、地方部の生活レベルは戦前の65%に、都市部は35%に落ちたと46年時点で計算した。
▽58 行方不明の人をさがすラジオ番組は1962年3月までつづいた。(私らが生まれたころは、まさに「戦後」だった)
▽59 上官による餓死 敵ではなく、上官を冥土の土産にしたいと望んだ兵士が多かった。
▽60 皇軍の残虐行為が知られるようになるにつれ、復員兵は「口に出せない罪」を抱える存在に。
▽61 傷痍軍人への冷たい仕打ち。
▽63 大佛次郎 路上の子をなぜ助けないのか。日本人はほかの国民より薄情なのではないのか。
▽73 当初の占領政策は3つの文書で。最後の1つは1948まで秘密だった。
▽75 「日本人の心を変える」には、「最低限の検閲」は必要とされた。
▽82 団体交渉権などの徹底的な民主化……前にも後ろにも例がない極端に流動的な上からの革命を民衆は歓迎した。
▽89 連合国側だったアジアの諸国などが復興に苦しむときに、敵だった日本を助けるなんて……と。アメリカは「上からの革命」を実施しようとしていたからだ。
▽91 真珠湾攻撃前、日本本土は、31%の米、92%の砂糖、58%の大豆、45%の塩を植民地に頼っていた。だから敗戦はそれらの供給の遮断を意味した。
▽96 食糧難のなか、1946年にはパン食い競争が小学校の運動会で流行(へぇ、こんな所に起源が〓)
▽101 闇米拒否で餓死した判事。
▽114 終戦直後、軍事予算や物資は、軍の高官や官僚が横流しや私物化した。エリートの惨状(差別の構造のなかのエリート、個のないエリートの惨状)。
▽122 売春婦、闇市、かすとり文化という3つのサブカルチャー。
▽124 占領軍がきたら女はみんな強姦される、という噂は、皇軍が外地でおこなったことと関係があることに内務省の情報分析関係者は気づいた。そうした噂を流した者のかなりの人が外地からの引き揚げ者だったと警察がリポートしている。(〓なるほど)
▽「貞操を守るため」と占領軍が来る前に売春婦を募った。→まもなく廃止
▽132 連合軍の命令に反応して、内務省は1946年、女性は売春をする権利がある、と表明。これが赤線を合理化した?
▽138 アメリカ人の見る日本は「男の国」から「女の国」へ。
▽149 「かすとり」 知っているようで知らない言葉。きちんと説明。
▽150 「天皇のため」がわずか数年で「かすとり」に。
▽153 裸の文化は東大などのインテリから。ストリップのはじまりは浅草。これも「民主化」。……「アプレ」西洋由来に見えながら実は国産の概念。
▽156 坂口安吾 サクラの花のように散ろうと考えていた神風パイロットが今や闇市で働いている。「これはまさにデカダンスだ」 デカダンス=人間の復活
国体から肉体へ。
▽160 太宰の占領軍への抵抗。「負けた負けたと言うけれど、私はそうは思わない。我々は破壊されたのだ……」アメリカによる急激な改革もマルキストも批判した。
▽163
▽172 1945年10月の映画「リンゴの歌」が最初の希望
▽175 戦争中も「攻撃のため」ではなく、「平和のため」「アジアの共存共栄のため」にたたかっていた。……桃太郎は戦時中は「鬼=米英人」を倒すという物語として教育に利用された。戦後の子は、「鬼」よりも「宝物」に興味をもつようになった。
「建設」「文化」という言葉は戦中にしばしば「大東亜共栄圏の建設」などと使われた。それが、戦後は「平和国家建設」「文化国家」などの表現に。「新」も戦時のスローガンにしばしば使われ、戦後も違う意味で使われた。
▽179 明治以来の1世紀の間に日本人は「変化」になれてしまった。
戦中は、さまざまな問題を西洋の帝国主義と共産主義のせいだ、としていたが、戦後は「軍閥のせいだ」となった。
▽181 雑誌の名前も戦後にコロリとかわる。
▽189 戦後、漱石がブームに。漱石は社会の要求より「個人」を重視し、その苦悩を描いた。
▽191 河上肇、三木清、尾崎(ゾルゲ事件)がブームに。その位置づけ。
「共産主義者」としてではなく「個人」「偉大なヒューマニスト」としての尾崎が人気となった。日本人の犠牲と希望のシンボル。
▽198 永井たかし博士 平和主義のシンボルだったが、「犠牲者」としての意識が強まり、「日本人は犠牲者」という意識を広めることに。
「きけわだつみの声」も。
▽213 連合軍は官僚組織を活用したため、戦時中よりもさらに官僚は力をつけた。
▽218 米英の日本専門家は、日本人には民主主義は無理だと見ていた。「日本人は極端から極端にかわりうる」
▽220 1945年の早期に終戦ならば「上からの革命」はなかった。
▽222 占領の際、従来の日本専門家・知日派はほとんど排除された。
▽239 共産党もGHQも、「上」の定めた原則やルールへの服従を説いた。
▽244 山林は農地改革がないから権威主義が持続した。(輸入自由化がその権威を破壊した?〓)
▽245 民法改正 父系の家システムの廃絶などは、GHQが命令したわけではなく、日本人自らがGHQの原則にのっとってつくった。
▽246 労基法の原案は、SCAPも知らない間に、元思想警察?だった日本人がつくった。
文部省が「自由と平和」の組織に。……墨塗りは占領軍が到着する前からはじまった。
▽250 compositions about everyday life 生活綴り方
▽257 組合のベースは戦時中の全面戦争に向けた組織だった。敗北で愛国的目的がなくなると、一気に左に。(右の官僚も、左の組合も戦時組織がベース〓)
……1945年末から労組による経営 読売新聞も。京成電鉄。1946年1月には13例、5月には56例報告。
▽261 天皇誕生日は祝日ではなく、メーデーが祝日になった。(いつ逆転?)
天皇をからかう言説も。タブーじゃなかった。(いつからタブーに)
▽lese majesty
▽271 共産主義や労働組合が力をもつとともに、SCAPは改革から遠ざかった。公務員のスト権も1948年に剝奪。
▽280 フェラーは、ラフカディオ・ハーンの著書が一番の参考に。
「天皇を生かせ」戦後に利用できるから。「天皇の処刑はキリストの磔のようなものになる」
▽289 天皇に導かれた政府を通しての間接統治をめざした。
▽299 アメリカの世論の7割は天皇の処刑を望んだ。……マッカーサーらは歴史を改ざんしてでも天皇を守ろうとした。……SCAP幹部を皇居に呼んでアヒル狩り。
▽302 manifest deity 現人神? (現れる 神格)
▽303 19世紀半ばに8世紀に及ぶ武士支配の社会構造を簡単に脱ぎ捨てた。現代天皇制は1世紀もたっていない。……日本人の変わり身の早さ。
▽308 人間宣言のアイデアはscapのトップではなく、英国人のaetheteとアメリカ人の中間オフィサーからだった。2人が人間宣言のゴーストライター。1月1日に発表されたものはその内容は受け継ぎながら、形式は日本人によって大きく変えられていた。……「明治に返る」というニュアンスに。Charter Oath(五箇条のご誓文?)が toch-stoneに。明治の悪い部分は無視。
▽316 木下みちおが直前になって、「神の子孫ではない」を「現人神(あきつみかみ)ではない」にかえさせた。
▽324 天皇がいなくなれば共産党が力をもってしまう、と脅すマッカーサー
▽329 木戸は、独立を果たしたときに退位するべきだと考えていた。
▽330 天皇の言葉から「敗北に対する責任」を謝罪する言葉が削除された。
▽332 戦後の巡行。「明治天皇もしたから」。明治天皇とイメージを合わせようとした。巡行が「天皇陛下に申し訳ない」という思いをよみがえらせた。
闇市も訪れる。……天皇の入った風呂の水をほしがる(338宇和島)……共産主義者さえも日の丸をふる。……地方政治家が利用する。……反巡行の最初の動きは京大で起きた。
▽349 マッカーサーは当初、近衛に憲法改正をまかせようとした。が、戦犯とされた。近衛は「マッカーサーにまかされた」と話していた。
▽352 旧憲法のもとで、農地改革も女性参政権も……すでに実現できていた。
松本私案は保守的すぎて相手にされなかった。……戦前に弾圧された美濃部でさえ「明治憲法じたいは悪くない」と言っていた。戦前のリベラル派は、すでに「保守」になっており、民衆のほうがアメリカ的な民主主義を求めるようになっていた。
▽357 「象徴」とすることを最初に提案したのは社会主義者。
▽360 SCAPは政府に憲法改正をまかせるのは無理と見限った。→日本側にまかせず憲法づくり
▽362 マッカーサーが憲法を急いだのは天皇を守るため。他の連合国と民衆の反天皇の動きをおそれた。……マッカーサーは「天皇は国のトップtop of the state」としたが、スタッフによって「シンボル」に変えられた。……「男女平等」は米国憲法にもない。
Kadesは9条に「自らの安全を守るための?」と記すことで、何十年にわたる論争の種を残した。
▽371 1週間で秘密のうちにつくった。
▽376 「米案を飲まなければ、つぎの選挙で民主派に負けて権を失う」と保守派は恐怖した。
▽382 (保守派のあがき……)保守派が、国民の至高としていたのを、衆院が「主権」に書き直した。
▽386 読売は「反動的な松本案は吹き飛ばされた」と書いた。(政府の保守性は支持されていなかった)
▽388 新憲法では主権は国民にあるとされるが、その主権は、天皇からの贈り物とされた。「上からの革命」「天皇民主主義」
議会の議論は114日間。金森トクジロウは、1300の公式質問に答えた。議事録は3500ページに。(すさまじい議論)
国会で提起された修正の8-9割はSCAPに認められた。
「国体」はつづいている。
▽391 SCAPは議会に対して、憲法改正の議論に積極的にかかわれ、と働きかけた。
▽392 生存権と、労働の権利と義務は社会党が入れさせた。
▽394 peopleを「国民」と訳すことで、後の差別的な国籍法などにつながった。
▽396 芦田による9条の修正。芦田は「将来の武装のため」と言っていた。当初政府は「武力行使は自衛でもだめ」という見解だったが。
「内閣はシビリアンに限る。軍人はだめ」という66条は、軍を持たないはずに矛盾していたから、貴族院では「不要」とされた。それでもやれ、とSCAPに言われ「文民」というあやふやな言葉を発明した。
▽400 圧倒的な賛成で憲法は成立。反対した大半は共産党だった。
天皇の弟の三笠宮は、式典に自分の名前だけで招待状が来て、妻の名がはいってなかったことに異議を唱えた。=男女差別に敏感
▽404 あれほど屈辱と感じた幣原も、後に「非戦」憲法を誇っていた。
▽407 占領軍による検閲の存在じたいがタブー。
▽413 comission omission
▽414 自己検閲も加わって原爆はタブーに
▽419 「太平洋戦争」というのは検閲で強いられた名称。本来は「中国とアジアの戦争」なのに「日米戦争」というイメージに変化していくことに。アジア侵略の罪を忘れるという効果を果たすことになった。
▽429 検閲対象は、軍国主義から左翼に。
▽436 朝鮮戦争開始後、民間のレッドパージもはじまる
▽440 「上からの革命」が権威に弱く、順応主義という「日本人の特徴」をつくりあげた。
▽444 東京裁判における、司法の理想主義と勝者の裁きの間の矛盾は、戦後の新国家主義をはぐくむ温床となった。
▽446 ドイツやイタリアの捕虜になった兵士の死亡率は4%だったが、日本の捕虜になった兵士の死亡率は27%だった。
▽453 東京裁判はあっという間に忘れられた。東京裁判の公式文書は発刊されず、起訴の議論の文書?でさえも公開されなかった。
▽458 日独のちがい。日本にはヒトラーのようなリーダーの存在も、ナチやゲシュタポ、SSのような組織もなかった。虐殺にしても、ドイツのような「計画」はなかった。
……広田の死刑は11人中6人という僅差で決まった。
▽464 憲兵隊のリーダーはいっさい罰せられなかった。中国における化学兵器の使用も追及しなかった。
▽475 東京裁判の判事に日本人がいたとしたら、戦争責任を日本国民が自らのものとして引き受けるきっかけになったのではないか。戦後直後には、日本人の手で南京の虐殺などの戦争責任を明らかにしていこう、という動きがあったのだから。
▽490 南原ら最高エリートでさえも「騙された」という。戦争協力した文化人はみな「騙された」という。ではだれが「だました」のか〓
▽499 田辺は親鸞を取り上げ、西洋哲学は劣っている、と言った。その当時、ほかのインテリは「科学」や「理性」の優位性を語っていた。田辺は、社会主義でも資本主義でもない社会への展望を親鸞のなかに見出していた。
▽507 「南京のレイプ」に対して謝ろうという民衆レベルの風潮があった戦後直後。……冷戦で共産中国が米国の敵となることで、日本による虐殺などを調査する動きが弱まる。戦争加害者としての意識もそのために広まらなかった。
▽511 東京裁判の継続中、GHQは、戦争責任は中国に対するものが(対米より)本質的だ、という議論をタブーとした。中国の戦争被害を低く見積もることになった。
▽513 辻正信は石川県出身。……「大東亜」の夢もあっという間に忘れられたが、同時に皇軍の犯した罪も短期間のうちに忘れ去られた。
▽514 巣鴨プリズンではエンターテイメントが催され、収容者たちが楽しむようになる。海外で処刑された戦犯の思いを歌った歌謡曲が流行し、戦犯はかわいそう、というイメージになってくる。
▽518 一般人が戦犯を許すようになる様子は、アメリカが天皇を許したありかたと似ていた。
天皇は現人神から「人間」に降りてきた。戦犯たちは、悪魔の王国から人間の世界に降りてきた。……帝国のトップから底辺まで、だれも戦争と残虐行為の責任を負わないことになってしまった。……処刑された戦犯の最後の証言。戦争責任を弱める働きをしたが、同時に、戦争の悲惨さを印象づける効果を生んだ。
▽526 1948年の世論調査では、日本はよいほうに向かっていると過半数の日本人は答えたが、1949年に逆転した。「再び戦争に巻き込まれるのでは」と多くの人が心配した。
▽528 「風とともに去りぬ」の1949年のブームは、「敗戦」と新しいアイデンティティの模索への共感だった。
▽ 「新しい憲法の話」は1951年には使われなくなった。
▽529 戦時体制で富が財閥に集中したが、財閥のリーダーは戦争の終わりを歓迎した。財閥にとって、民間をコントロールしようとする、軍国主義者、国家社会主義の経済官僚を敵と位置づけていた。まさか自らが解体されるとは考えてもいなかった。
▽533 財閥解体のリストには325の企業があがったが、その頃には「逆コース」がはじまり、ほとんどはその範囲からはずれた。最終的には11だけだった。
▽540 ドッヂライン 補助金削減、財政均衡。……1950−53の朝鮮戦争の日本への特需は230億ドル。
▽戦争ブームが、アメリカ人がつくったQCを導入させることに。
▽544 戦時中以上の経済権力の集中をおこした。国際通産省?に。……ドッヂは、保守的な大企業家と官僚と政治家とのチャンネルをつくることになった。
▽546 占領政策は改革から再建(改革から逆コース)へと変わったが、経済の、上からのコントロールという形は変わらなかった。占領が官僚主義を助長したという側面も。
▽548 吉田は再軍備の要求に抵抗した。警察予備隊の規模を米国の要求より小さくした。朝鮮の戦争に参加させられることを危惧した。ダレスが訪日している時に、吉田は社会党幹部に首相官邸周辺でデモすることを求めた。
▽550 「日本は12歳の少年」マッカーサーの発言。この言葉で一気に日本人の心はマッカーサーから離れた。
▽557 子どもとしての日本のイメージは60年代後半に、電化製品や車が欧米に輸出されるようになるまでつづき、その後、「奇跡の日本」のイメージに。
▽558 1989年、裕仁が死に、冷戦が終わり、欧米に追いつけ、ということも終わった。真の「戦後の終わり」となった。
▽560 とくに経済の分野では、占領期に官僚の力をそぐことができなかった。

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