岩波新書 20070823
型どおりでない「悪あがき」の実例を紹介する。
四国の教科書問題をやってるおじさんたちの取り組みを「悪あがき」と評価する視点は新鮮だった。
なんといっても彼女のけんかのしかたは痛快だ。たとえば右翼から「朝鮮人は朝鮮に帰れ!」と怒鳴られるときは、「わかりました。じゃ、天皇つれて帰ります」。なぜそんな切り返しができるのか……。
「内向きの善」にとらわれた人は、弱者に一時的には同情するかもしれないが、結局はその手をうまく振り払ってしまうだろう。「弁護士に相談したら」とか「がんばってね」と他人事にしたり、「ちょっと考えてみます」と言ったきり音沙汰なしだったり……手をさしのばせない理由を次から次へと見つけ出して、巧みに逃げていく……。
頭が痛い指摘だ。重い相談をつきつけられると、それだけで気分が重くなり、逃げてしまう。それではよくないと思いつつも、すべてを背負ってしまったら心身ともにもたないしなあ。
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▽日本政府は、難民申請時の供述に「ウソ」があるとの理由で難民として認めない。彼らのウソや、ともすれば他人を利用しようとするようないじましい根性などは、「内向きの善」にこだわる人の目にはとんでもない悪行に映るに違いない。そういう「内向きの善」が、人権教育に熱心な教育者にもかなり根強く浸透していることだ。彼らに欠けているのが「開かれた道理」への視線である。難民がどんないけ好かないやつでも、それを理由に「開かれた道理」の実現への努力を怠ってはならない。
▽法務省が出した「定住者告示」では、「連れ子」を呼び寄せようとした場合、未婚・未成年であること、養子なら6歳未満という条件がついている。それを中国置き去り日本人という、日本政府の責任で生み出された人たちに対しても機械的に適用した。そもそも「定住者告示」は、インドシナ難民受け入れの際に作られた。しかもインドシナ難民の場合は、年齢制限はなく、配偶者の婚姻前の子でも人道配慮条項で受けいれていた。中国置き去り日本人に対しては、そうした条項を適用しない。(裁判の結果、告示を一部改定)
▽「お友達がいじめられていたら、どうする?」とたずねると、「助けない。自分もやられるから」。口々に「助けない」とこたえた。この出来事について、教員団体の講演会で「あなたがそのとき壇上にいたとしたら、子供たちになんと言いますか」とたずねると、「もし自分がいじめられたらどうする?」「いじめについてみんなで考えてみよう」。私は「あーあ、これじゃ子供たちは救われないなあ」と思った。
あのとき私は、子供たちに「ごめんね」と謝った。助けてもらった経験も、大人がだれかを助けるところを見た経験もないからでは。「ごめんね。あなたたちを助けられない、みっともない大人ばかりで」と言いながら、胸がきりきりと痛んだ。
▽北朝鮮のような国家に幽閉されている人々にとっての「悪あがき」とは、いかに生き延びるか、いかにして逃げるか。権力は見せしめと恐怖によって、逃げる気力すら失わせようとする。そこで必要不可欠なのが、外との連携だ。どんな小さな点でもいいから、線としてつながることだ。そういう国家の外側にいる人々にとっては、彼らの命をどうやって支えられるか考えることが、あのような国家の暴力に抵抗する方法となるのだと思う。(グアテマラ先住民族)
▽(震災ボランティア)「忘れなければいいんですよ。だって、千年に一度か二度の災害ですよ。5年や10年ではどうにもならないんですよ。百年かけて支えることを考えないと」 その人たちはずっと途切れることなく、取り残された被災者と関わっている。「忘れなければいい」が悪あがきの基本。
▽富士山の「忍草母の会」のおばちゃんたち。★「北富士入会の闘い」 独創的な闘い。検問をしようとする機動隊の前で尻をめくってみんなで小便。
▽メッセージTシャツを着る悪あがき。「私たちはここにいるよ、あなたは1人ではないんだよ」と語りかける意味も。
▽愛媛の教科書おじさん 型どおりのデモとかシュプレヒコールでおわるだけでは、暴走は止められない。あがきつづけることで暴走をとめられる。裁判は「教育」
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