ちくま学芸文庫 20070811
言葉づかいはけっこう難しいし、とくに前半の朱子学の部分は難解だったが、丸山が終生もとめつづけたものがなんとなく見えてきた。
単なる(状態としての)自由ではない。単なる(型式的な)民主主義でもない。自由と民主主義をもとめて実践しつづける動的な民衆像を描いていたのではないかと思った。
朱子学についての論考のなかで、丸山が荻生徂徠を評価するのは、それまで天地自然をすべて一体のものと考えてきた儒学を変革し、宇宙と人間を貫通していた「理」という糸を断ち切って人欲を解放したためだ。本居宣長を評価するのは、いっさいの規範を漢意・仏意として斥け、人間の情を「真心」として肯定することで、運命的秩序である政治社会のなかで、自己の欲望を追求し感覚の花を開かせる「非政治的存在」となることを説いたからだ。
どちらも公と私を分離する役目をはたし、近代につながる芽を形づくった。
封建主義を徹底して嫌っていた福沢諭吉が、封建時代の「忠誠」を一定評価していたのも同様の理由による。
「忠誠」のなかには、諫言も含まれる。君主の言うことを唯々諾々としたがうのではなく、より大きな価値基準にそむく場合はあえて反逆するという道も「忠誠」と位置づけていた。そこには、ただ君主に従属するだけではない「公」(という価値)がみえ、福沢はそれが近代的価値につながることを期待した。
江戸末期に、公と私の分離という萌芽があったにもかかわらず、明治以降は近代とは逆方向にむいてしまう。公が私に浸食し、私的な道徳や倫理の部分にまで公がはいりこむ。
公と私の分離ができなかったから、天皇には絶対服従となり、忠誠であるが故にあえて反逆するという道が閉ざされる。「絶対服従」か「完全反逆」(革命)かの二者択一になり、服従と反逆の中間にあるスペースがなくなってしまった。
革命家がみずから転向してしまうという現象も、中間的な選択肢がなかったがゆえに起きたことだという。革命がダメなら普通の生活にもどるしかない……と。
こうして、すべて天皇のため、という国家が形成されるが、天皇もまた「万世一系の皇統のため」となり、権力と権威の主体、責任をとる主体になっていない。下から上までだれも責任を負わない無責任体系ができあがっていた。
民衆だけでなく、知識人も政治を離れて「私」に隠遁した。こうした「非政治」「反政治」という形で政治を忌避する態度は、日本とドイツは似ていた。こうした風潮は、政治が日常生活に浸透してないから全か無かに陥りやすく、全体主義の温床になりやすい。孤独と不安を逃れようと焦って「バスに乗り遅れるな」式に権威主義的リーダーシップに全面的に帰依してしまう。
だから、どの党派にもケチをつけ、「政治家には騙されるな」という戦後のマスコミの態度は、日本人の政治へのあきらめに拍車をかけ、無関心・政治的忌避という最も伝統的な非民主的態度を助長する--という理由で丸山は批判してきた。
政治が非政治化すること、非政治が過政治に転化するのを防ぐためには、日常世界を政治化し、同時に政治を日常化しなければならない。だから丸山は、だれもが日常から政治にかかわる場をつくろうとしたきた。
民主主義とは、ある静止した状態を言うのではない。民主主義をもとめつづける行為そのもののなかにある。だから「永久的民主主義革命」を丸山は説いた。
「自立」とはある状態を指すのではなく、自立をもとめつづける努力と過程そのもののなかにある。というのと同じことだ。
理論と実践を弁証法的に止揚させるのではなく、理論と現実を弁証法的に止揚したものが実践である、という言葉にも説得力がある。
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▽吉本は丸山を「大衆主義」の立場から批判。丸山が大衆主義者にみたのは、大衆の生活や実感に思想を基礎づけるといいながら、そのじつ、大衆の風俗描写か、自己の思想(心情)の表出に終始する大衆主義だった。「思想の科学」の反アカデミズムは、あらゆる型、規律、しつけをいとう。ところがメディアの社会的作用はまさにこうした「型」をくずすことにあったので、アカデミズムに反情を示すほど、現代の疎外の集中形態としてのマスコミに対する抵抗力を失い、むしろタレントになるための踏み台と化してしまった」 ▽カント「概念なき直観は盲目であり、直観なき概念は空虚である」 日常生活に裏付けられない理論は空虚である。逆に、理論や世界観によって裏づけられない生活感覚は盲目である。
▽「他者感覚の欠如」:精神が閉じている
自己を開かなければ、伝統主義は「ズルズルべったり」の共同体主義になり、啓蒙合理主義は理性や知性の専制主義に、ポストモダニズムは「処置なしのロマン主義」に変色してしまう。全共闘の「自己否定」も、「昨日までの自己の否定(=昨日までの自己の責任解除)と、今の瞬間の自分の絶対肯定(でなければ、他者へのパリサイ的な弾劾ができるのか!)にすぎない」
▽「日本人が新しがりなのは、現在手にしているものにふくまれる可能性を利用する能力にとぼしいからである。目に見える対象のなかから新たなものを読みとる想像力が足りない…変化は自発性と自然成長性にとぼしく、つねに上から、もしくは外部から課せられる。…保守主義が根付かないところには、進歩主義は自分の外の世界に「最新の動向」をキョロキョロとさがしまわる形でしか現れない」
▽ドイツ国民のファシズムへの熱狂(過政治)は内面の世界に隠遁する彼らの国民性(非政治性)と相関関係にあるのでは。
▽西欧派知識人が日本主義者に変貌し、戦争が終わるとデモクラシーの御輿を担いでまわる。過去においても現代においても遍くみられる日本人の変わり身の早さ。キリスト教の受容、自由民権運動、革命運動、戦後の民主化、60年安保、全共闘運動。民衆史観の歴史学者はこれらのなかに民衆のエネルギーの高揚をみるが、丸山はそれとともに、高揚後のエネルギーの急激な冷却化をみてとる。運動の過熱と冷却を繰り返すパターンは、転向が再転向を生むパターンと相同的だとみた。
▽徳川思想史の近代的側面が、なぜ束の間の青春しか謳歌できなかったか。近代化の挫折に焦点があった。昭和の超国家主義を健全な近代化コースからの偏向とみる司馬史観的な見解とは逆に、明治国家体制の帰結とみる見解だった。
▽p104
真理や道徳などの価値的内容は私的領域の自由に委ね、国家はもっぱら公的秩序の維持、価値中立的な仕事に専念する。私的領域と公的領域の分離がヨーロッパの政治思想史の中心論点を形作った。
日本 第一帝国議会の召集に先立って教育勅語が発布されていたことは、明治国家が公と私、政治と倫理の一体性のうえにたっていたことを示す。
ではドイツやイタリアの全体主義との違いは? 日本には決断主体としての独裁者がいなかった。東条は権限の独占者だったが、「一個の草奔の臣」でしかない。公と私が分岐していた独伊では、国家の私的領域への介入は物理的暴力的になるのに対し、日本では、本来は私事に属するはずの倫理が公と私をつつみ、公私が融合してしまう。独裁者は超自然的力の代理人にすぎない。
一方の独裁者は悪を悪として自覚しているのに対し、他方の独裁者はその自覚がない。独裁する当人にとっても、独裁される庶民にとっても、独裁が独裁として意識され難い。
超近代と前近代がみごとに融合。
天皇を中心とし、そこからのさまざまな距離において万民が天皇を翼賛するシステム。だが、天皇は決して「自由な決断の主体」ではなかった。権力と価値の実体は人格としての天皇にあるのではなく、皇祖皇宗より発する皇統こそがその実体。
超国家主義体制は、空間的・時間的な無責任体系なのである。
▽(日本で教会などの)中間勢力の抵抗があまりに弱かったために、明治以後の制度的「近代化」は、ほとんど無人の野を行くように進展した。ただし、絶対主義的集中が、権力トップレベルで「多頭一身の怪物」を現出したことと対応して、社会的平準化も村落共同体の前に立ち止まった。中間地帯におけるスピーディーな「近代化」は、頂点と底辺における「前近代性」の温存と利用によって可能となった。
▽p171 ・・・ポストモダンの危ないのはデカルト批判。主観と客観を分離したのはケシカランというのが流行り。構造主義がそうで、二元論が間違っていると。ヨーロッパの近代というのは、分離したから自然科学は発達した。主体が独立して初めて客体を客観的にみるという態度が生まれた。マルクス主義の場合は、分離したが、しだいに比重を客体のほうにかけてきて、実は主体というのは幻想であって、ものの反映にすぎない、と。
レヴィ=ストロースは「おまえの言っている公私の分離というのが近代の病である」という手紙をよこした。ヨーロッパの自己批判を輸入して、日本にもってきてかつぐのはおかしい。
▽転向という現象は、政治=非日常、民衆=日常世界という二分法的思考様式が風土化しているところに発生する。警察署の壁をへだて、内はすさまじい拷問と悲鳴、外は陽気な日常。政治=非日常世界は日常化されなければならない。同時に、日常世界は政治化=非日常化される必要がある。ところが日本では、2つの世界に別々の部屋があてがわれる。だから革命運動の盛り上がりの後には必ず日常性・土俗の思想がやってくる。だから転向は、思想的必然という性格をもつ。
日本にくり返し現れる転向のパターンは非日常世界から日常世界(天皇・民族・庶民の生活)への。「理論信仰」から「実感信仰」へ
▽日本の知識人の転向が外国産の「イズム」から足を洗う形でおこなわれたが、日本のの固有のイズムへの回心というよりは、「うち」なる国民大衆という「実在」との同一化といった方がよい
▽日本思想史は、いろいろ変わるけれども、一環したものがある、というのではなく、逆に、ある種の思考・発想パターンがあるがゆえにめまぐるしく変わる。よその世界の変化に対応する変わり身の早さ自体が「伝統」化している。
▽情宜的・非合理的な人格的忠誠の相対的減衰を補完したのが儒教(朱子学)の天道・天命概念。この概念こそ、「人間または集団への忠誠と関連しながら、しかもそれと区別された原理への忠誠を教えた」最初のもの。これが維新期に、国際法などの普遍観念を比較的スムースに受容することを可能にした。
▽福沢諭吉 封建的な「葉隠」の非合理的な忠誠。「本来忠節も存せざる者は終に逆意これなく候」が「葉隠」のダイナミズムだとすれば、逆に、謀反もできないような「無気無力」なる人民に本当のネーションへの忠誠を期待できるか、というのが、福沢の心底に渦巻く「問題」だった。
この視点からみると、即今の自由主義史観研究のメンバーなどは、不忠誠がただちに反逆を意味する者になっている、という点において、「ネーションへの忠誠」を欠く反日史観の持ち主となる。
だが、天皇制国家の確立で「ネーション」が忠誠市場を独占するようになると、ネーションへの不忠誠はただちに反逆(非国民)を意味するようになる。反逆は革命運動に独占されることになる。「自我の内部における「反逆」を十分濾過しない集団的な」革命運動は、「運動の潮が退きはじめると集団的に転向する脆弱さを免れない」
組織への忠誠と原理への忠誠が癒着する傾向を強める。
▽「いま」中心主義の時間・歴史意識は、人間性から社会から、時間を疎外した。「つぎつぎになりゆくいきほひ」。時間と対決する姿勢は希薄になり、大勢順応主義が支配的になる。「歴史哲学」の欠如
▽中間団体こそが、西欧市民社会を形成する核になった。それの生育が日本では微弱だった。身分や団体の抵抗の伝統を底の浅いものにし、明治の一君万民的な平均化が容易におこなわれる基盤になった。自由民権運動が、集中主義的偏向に陥ったのも、自主的団体の伝統の弱さと無関係ではない。日清戦争以後は、近代的個人主義と異なった、非政治的な個人主義が、政治的な自由主義でなく、頽廃を蔵した個人主義が蔓延してきた。
もともと微弱だった中間団体が上下にひきさかれ、公私が二極に分解したことが、ファシズムへの伏線に。
▽「自由の私化」 公と私の分離のよる個人の自己への自閉は、反対に超特大の政治を生みだす可能性がある。
▽公共空間たらしめるのは、公共施設の存在ではなく人々の自由な活動である。活動は人間の内部世界と外部世界を統一するだけだが、自由な活動が創出する「出来事」は公と私を統一する。(アレント)(強制された軍隊の行進用の道路は公共空間たりえない)
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