平凡社 200706
「オリエンタリズム」の流れをたどる。
欧州にとってのオリエントは、神秘であり、セックスであり、異教徒であり、カオスであり……。かつては世界最先進地だったが、今や遅れた場である、という位置づけ。そこに住む住民側からの視点はない。
イスラムは、キリスト教の亜流の鬼っ子と位置づけられ、ダンテの神曲にもマホメッドが罪人として登場する。
19世紀から20世紀になると、オリエントは支配の対象となる。支配の技術、学問がオリエンタリズムになる。ここにもそこに住む人の視点はない。
占領を正当化するクローマーらの言説は、大東亜共栄圏を主張した日本と酷似している。
欧州からオリエントへの一方的な視点が、オリエンタリズムである。
オリエンタリズムは、身内(われわれ)と他人(オリエント)との間を差異を拡張する構造をもっていた。今もその影響はつづいている。
東洋人や西洋人といった範疇を、研究・政策の前提や目標として用いるならば、通常、東洋人はいっそう東洋的に、西洋人はいっそう西洋的になるというように、区別を極端に分極化する……
おもしろい。アメリカのイラク政策にまでつながる西欧中心主義としてのオリエンタリズムの流れがよくわかる。だけど、聞いたこともない人名が大量にでてきて、原文を読むのは難解すぎるし、訳文でも難しい。
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▽エジプト民族主義ナショナリズムのもとめる独立をクローマーは一貫して拒絶する。「エジプトの真の将来は、……土着のエジプト人をしか受け容れぬ狭量なナショナリズムの方向にではなく、……度量の広い世界市民主義(コスモポリタニズム)の方向にこそある」と。
▽8世紀から9世紀には、スペイン、シチリア、フランスの一部が制服された。13世紀から14世紀は、インド、インドネシア、中国まで支配力を及ぼした。欧州はただ恐怖感と一種の畏怖の念をもって反応するばかりだった。ヨーロッパにとってイスラムは癒されることのないトラウマだった。
▽ナポレオンのエジプト支配 オリエンタリストの特殊な専門知識が直接、機能的に植民地支配の道具として利用された最初の例となった。ナポレオンはまず古典的文献により、ついでオリエンタリズムの専門家によってコード化された対象としてのみオリエントを眺めていた。
▽現代のオリエンタリスト--地域研究の専門家--たち。第二次大戦以来、西洋が直面したのは、騙されやすいオリエント諸国の間から同盟者を募っている利口な敵だった。この敵をだしぬくには、オリエンタリストだけが考えつくやり方で、東洋人の非論理的心性をうならせるような演技をするより以上にうまい方法があっただろうか。こうして編み出されたのが「進歩のための同盟」「東南アジア条約機構」等々、飴と鞭の方策に見られるきわめて巧妙な計略だった。伝統的「知識」にもとづきながら、その知識を巧妙な操作に役立つ新しい道具に変えるもの。
▽1810年時点ですでに、東洋人は制服されることを必要としていると主張し、西洋人によるオリエント征服が征服ではなく解放なのだとする論理に矛盾を感じないヨーロッパ陣に出会う。シャトーブリアン
▽英国人のレインは科学を記述し、フランス人のシャトーブリアンは私的な言辞を書き連ねる。
オリエンタリズムは、オリエントがいかに記述され、特徴づけられるかに関して、絶大な影響力を行使してきた。ありえぬほど一般的でなく、あつかましいほど私的なものでもないオリエントを実感することを阻んできた。人間的現実・社会的現実を感じ取る力をオリエンタリズムに求めても徒労に終わるだけ。
知識は、一連のテクストの断章を概観し、編集し、配列する科学者の姿勢による。その結果、オリエンタリストたちは、お互いの作品を仲間うちで似たようなやり方で引用しあうことになった。新しい素材に出会っても、先人たちのイデオロギーを借用することで、それを判断した。
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