朝日文庫 200706
--空中浮遊などの考えられないことがおきたとき、「何も見なかった」と経験そのものを否定する人も、尊師を信じてしまう人も、あるフレームワークが失効してから、次のフレームワークを自力で構築するまでの「酸欠期」を息継ぎなしで泳ぎ抜くだけの「知的肺活量」が足りない。あわてずさわがず、「うーむ、そういうことってあるかもしれない。で、何か問題でも?」と応接するのが最適戦略--。
うーん参った。学生時代、ある宗教を信じるヤツから、コーヒーのうえで棒をふったらコーヒーの味が変わるという現象を見せられたことがある。そのとき、彼の土俵にのったら論争に負けそうで、なんと答えてよいかわからず、「気のせいだろ」と片づけたことがある。たしかに「知的肺活量」が足りなかった。
--危機状況になると、人間は、身体感受性を最小化して、身体を石化し、嵐がすぎるのをやりすごす。「殺される前に死んでみせる」(動物の「死んだふり」と同じ)。しかし武道がめざすのは、危機において自動的に身体感受性と反応速度を最大化する回路にスイッチが入るよう訓練すること--という指摘も説得力がある。
労働組合などの交渉で発言する際あがってしまい、細い声しかでなくなる。喧嘩をするとき、体がかたまって、足がふるえて、手足にろくに力が入らない。情けないなあと思った。これを「居着」と呼ぶという。武道家は、危機に瀕してむしろ流動化するよう訓練するのだという。
--「自分さがし」をするのは、探している自分は変わらないということが前提にあり、それは「凡庸」志向につながるというのも、「自分さがし」への違和感を明確にあらわしてくれていてすっきりとする。
--人間の本性って、戦況不利な「後退戦」のときのふるまい方に露呈する
--(研究者)査定可能領域にひしめきあい、マイナーな学問領域にかかわった人間はいまの仕組みではまず浮かび上がれない。でも、ユニークでさえあればいいのではない。本当に個性的なのは、「まっとうな」と信じていることをぐいぐいていると「あれ?ぼく1人なの?」というふうになるのが、ほんとうの意味で個性的な人。……
内田樹の言うことはいちいちなるほど、と納得させられる。
平川の経済の見方もおもしろい。起業家候補の若者たちの言葉づかいが投資家の言葉づかいになっていく、という指摘はまさにそうだ。そういう視点から、成功モデルとしてのアマゾンを批判的にみている。
ケーススタディをもとにした米国流のMBAなども無意味、と切り捨て、むしろ、哲学や文学などの実学でない学知が重要だという。
-----要約・抜粋-----
▽戦前のサラリーマンは人もうらやむ身分。だから、戦後、先進国になりかかる時期に若者たちは競ってサラリーマンになった。この言葉が光彩を失ったのが60年代。
▽アマゾン 人件費や管理費を増やすことなく売り上げをのばしてゆけるモデルに見えた。だから、投資家は将来価値に投資し、赤字でも株式を公開する事例が相次いだ。
このころから日本にベンチャーブーム。起業家候補の若者たちの言葉づかいが投資家の言葉づかいになっていく。
▽ケーススタディをもとにした米国流のMBAやMOTは意味がない。
大学での教育は、行為遂行的な収益確保を担保するものではなく、ビジネス理念についての研究であってほしい。哲学や文学といった実学でない学知こそが重要。
大学はこれまで蓄積してきたもっとも得意なことのなかに差別化要因(価値)があるべきで、経営的にも競争力を確保できる。
▽自分の変化の仕方が「変化したか、変化してないか」をチェックするには、「変化する前の自分」と「変化したあとの自分」を比較考量するだけでなく、「変化する前の自分」のそれより1工程前の状態から「変化の仕方」の変化を見ていかなくてはならない。そういう知的訓練を自分に課している人間というのはほんとうに少ないですね。
▽三種の神器は家族単位の消費。より総需要を増やすために家族解体をはかる。それが70年代からバブル崩壊まで。だが、家族を解体したら、次世代を再生産する拠点がなくなる。子の数は激減する。「短期的需要増大の代償に、次世代の再生産の問題を先送りした」
▽お茶をだす。たばこをすいまわす。たばこをください、と言われたら断ってはいけない、という暗黙のルール。
不定形のものを分かち合うことで、共同体を立ち上げる、という原初の儀礼のなごり。宴会のビールの注ぎあいも。「自分のものであって、自分のものでない」ものを確認しあい、コモンウエルスを共同的にわかちあう。社会的儀礼のいちばん基幹的なもの。
嫌煙運動は米国から。「デオドラント」運動と軌を一にするのでは。他人の体臭への嫌悪。自分の体臭が感知されることへの恐怖。これこそ「私有主義」イデオロギーの典型的あらわれ。
空気という不定形で、それなしでは生きてゆけないものを分かち合うことの拒絶。米国の嫌煙権運動とデオドラントへの異常なこだわりは、人種差別が公的に禁止されたことと、トレードオフの関係にあるのでは。
「キス」もそう。口腔清浄や歯列矯正にかりたてる最大の動機は「キスするとき、相手の口のなかに異物が入らないように」という配慮。・・・大人というのは「酒をのんで、たばこを吸って、キスをするものである」 共同体の振るメンバーの基本的な資格条件。
▽レヴィストロース 反対給付 自分が何かを達成したとき、それを「獲得」であると感じず、「贈与」であると感じる能力。それを彼は「人間性」と名づけた。やくざ映画 近代的な「獲得」主義者と、太古的な「贈与」主義者の対立の図式は、配役をかえながら継続されてきたのかも。
▽(学生時代)「革命的空想」に殉じるのでも「プチブル的日常」に無批判に埋没するのでもなく、そのあいだで「じたばたする」ことはとてもたいせつな仕事だと思っていた。シビアな「後退戦」。人間の本性って、戦況不利な「後退戦」のときのふるまい方に露呈する★
▽(研究者)査定可能領域にひしめきあい、マイナーな学問領域にかかわった人間はいまの仕組みではまず浮かび上がれない。でも、ユニークでさえあればいいのではない。そういう個性主義も、マジョリティとの隔絶をいつも勘定にいれている限り、迎合主義の陰画にすぎない。本当に個性的なのは、「まっとうな」と信じていることをぐいぐいていると「あれ?ぼく1人なの?」というふうになるのが、ほんとうの意味で個性的な人。
▽「アメリカの反知性主義」★
▽レヴィストロースのマルクス観 マルクスって「勉強」するものじゃなくて「思考に活気を与える」ものなんだ。そういわれてみると「ルイ・ポナパルトの・・・」はたしかに「名探偵による階級闘争の真犯人探し」として読むと、どきどきするほどスリリング。
▽40代に入ったころ2度ほど大病をした。・・・二十歳くらいのときと比べて四十路のわが身の情けなさよ・・・というふうにネガティブな発想をしたことがあります。でも、二十歳の体調を「達成すべき理想」と設定すること自体に無理がある。老いてはじめて経験できるものがあり、病んではじめてわかる愉悦があり、死が近づくことではじめて発見される美しさがある。
★死ぬことって、子どものときはすごく恐いじゃないですか。(リンカーンの絵を見るだけでふるえる。布団のなかで泣く。)自分もいつか死ぬということを想像できるようになったとき、ものすごい恐怖を味わう。底なしの存在論的恐怖。
「空の上には何があるんだろう? 宇宙の果てには何があるんだろう? 宇宙のさらに外側はどうなってるんだろう?」。考えてしまってふるえる。心臓の鼓動のどくどくといいう音の「どく」と次の「どく」のあいだのインターバルが恐くなる。
・・・自分が時間と空間のどこにいるのかを実定的に言うことができないという不能そのものが人間の人間性を基礎づけている、ということがわかったのは、ずっとずっと後。人間が人間であるのは、人間の世界の「外側」を「知らない」からであり「知らない」ということを「知っている」限りにおいてだ、ということがわかるようになったのは四十路になってから。★(いまひとつわからん)
▽血液型の話 類型化がいまの日本でこれだけ好まれるのは「なんだかよくわからないこと」をまとめて排除するということについて、全社会的な合意ができつつある、ということでは。
人間の知性が動物の知性と一番大きくちがうところは、人間だけは「なんだかよくわからないもの」というカテゴリーをもっていることだそうです。そういう「よくわからないもの」というカテゴリーを廃棄しようとしている。要するに「私はサルになりたい」と言っている。 血液型性格診断を信じる女の子と、日米同盟の堅持の国際関係論的必要性を信じる政治評論家は、「なんだかわからないもの」をできるかぎり視野から排除したいという欲望の痛々しいありかたにおいて、酷似しています。★
日米同盟は不可避、ということがいつから常識になったのか。「いつ、どこから、だれから」という問いかけは大切。フーコーがその系譜学的考究のなかでおこなってきたのは、「そんなの常識じゃん」という無反省な言明にぶかって、「ほう、それはいつから、どこから、誰から常識になったのか」と執拗に問いかけることでした。★
「国際社会の笑いもの」という言葉。「湾岸戦争のとき人的貢献をしなかったのえ笑いものになった」「ダッカ事件のときせかいの笑いものになった」。そういうことはいつから「常識」になったのか。
要するに「国際社会」は「アメリカ政府」のこと。
テロリストに屈して撤兵すれば「国際しゃかいの笑いもの」になると言う人たちは、スペインやイタリアについてはどう考えるのか。アメリカ市民でさえ過半数がイラク政策「まちがっていた」と答える。アメリカ市民たちも「国際社会の笑いもの」になる選択をしようとしている、ということになるのか。
国際社会の笑いもの、になると、どうなるのか、かつて笑いものにされることで日本は何をされたのか。・・・こういう問いかけは大切じゃないか。
▽ぼくは男女共同参画社会とか、男女同権というイデオロギーにはつねに懐疑的。「女性も兵士になる権利がある」というフェミニストの要求。ボーヴォワールが「男性の占有している社会的リソースを女性にも配分せよ」という立場から、高級官僚養成学校であるENAが女性学生の受け入れを決め女性エリートの出現を歓迎したこと。
男性中心主義的にこの社会が編成されているのなら、そのなかで高い地位や権力や情報を手に入れるため、出世を望む女性たちは、男性中心主義的な原理を内面化して「男性化」するほかない。女性が男性化し、パワーエリートとして社会的リソース独占を勧奨することのどこがすばらしいのか。
女性には女性固有の「対抗文化」があり、ばかばかしい男性中心主義社会のなかで人間たちが傷つくのをなんとか防止する人類学的に重要な役割をはたしている。
・・・ぼく自身は子育てのあいだ、とくに「主夫」をしていた12年間・・・「お母さん」になろうと決意したときに、学界的な立身出世をあきらめた。・・・「お母さん」演技をしていると、ついこのあいだまで身を焼くように切実だった「学界的サクセスの欲望」があとかたもなくかき消えてしまった。「なんで、あんなことに夢中だったんだろう? バカみたい。さ、それより今日の晩御飯」。
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