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人文学と批評の使命 <E・W サイード>

 岩波書店 200703

外部の状況・システムによって人間の思考は決められているとする構造主義は、デカルト以来の主体(コギト)に異議をつきつけ、従来の人文学(humanism)を圧倒した。隅においやられた人文学は、社会との接点をさぐることをやめ、すでに評価のさだまった古典だけをあつかう象牙の塔に化していった・・・・という。
サイードは構造主義的反人間主義に対しては、ヒューマニズムが今も虐げられた人に力をあたえ、歴史を動かしていると反論する。人文学者は政治に無縁であり、専門分野は政治とは関わりのない文化であるという20世紀後半に広まった人文学の主流をなす潮流にも容赦のない批判をくわえる。

黴が生えた学問分野と思われかねない文献学の重要さを、「人文学のテクストを理解するためには、自分がそのテクストの作者であるかのように作者の現実を生き、作者の生に内在する生きた経験を感じるように、博識と共感を結合させなければいけない」と説く。
作品を単に作品としてとらえるのではなく、作者をとりまく時代状況を知り、そういうなかで作者が何を考えながら書いたのか、作者の立場にたって考える--。
そういう系譜学的な思考をしなければ、作品の意味はたちあがってこない、という考えかただ。
なるほど、と思う。ホメロスはソクラテスのような賢人ではなく、野性味と強情さと非論理的空想の故に詩的であるとヴィーコが断言できたのは、その時代の原始的で野蛮で詩的な状況を知ったためだった。
ダンテの神的なものが衰えるとともに、新たな秩序が形成され、歴史主義、多元的視点ができあがっていく、というとらえかたも、それぞれの時代を知らなければ理解できないだろう。

-------抜粋・要約----------
▽コロンビア大学人文学 学部の1,2年の必修。ホメーロス、ヘロドトス、ダンテ、ドストエフスキー……。学生すべてが読書に関して同じ基盤をもつ。西洋文化の哲学と文学の正典に学生をふれさせる。
▽60,70年代、フランス理論が英米の大学の文学部に上陸して、それまでの伝統的人文学を打ち負かした。レヴィストロース、フーコーらは反人間主義的なシステムの優越性を主張。主体をあらゆる人間の知の中心におくデカルトのコギトは異議をつきつけられた。思考と認知のシステムは個々の主体の力を超えたところに存在しており、(フロイトの「無意識」、マルクスの「資本」)このシステムにいる個人は、システムを超えることはできず、それを用いるか用いられるか選ぶしかない。人文学思想の核と正面から衝突。 ……わたし自身が政治活動と社会活動を続けるうちに確信できたことだが、世界中の人々が、正義と平等の理想によって動かされることがある。自由と教養という理想に結びついた人文主義(ヒューマニズム)の思想は、虐げられた人にいまも力を与えている。
▽正典人文学をなのるハロルド・ブルームはも、文明の衝突のハンチントンも、あらゆる文化の特質、つまり根源的な反権威主義的傾向、異論を唱える力強い流れを、完全に見失っている。彼等は、現在正典に属している人々の多くがかつては叛乱者であったことを忘れている。

▽イスラムの原理主義は、非難されるのに、キリスト教やユダヤ教、ヒンドゥー教の原理主義にはこれっぽっちも言及されない。現代における知性と人文学の貧しさの証である。こういう宗教の原理主義は、イスラム教と少なくとも同じくらい血なまぐさく、破壊的であるのに。
▽神の言葉であるコーランは完全に理解するのは不可能。だが、真理がことばのなかに存在するのだから、読者は、先行する他人が同じやっかいな仕事をしてきたことを深く認識したうえで、まずコーランの文字通りの意味を理解しようとつとめる義務が課せられている。だから、以前の証言が現代の読者に対してもつ有効性は、それぞれの証言が、それ以前の証言者にある程度依存するという連鎖によって保たれている。この相互依存的な読みのシステムは「イスナード」と呼ばれている。
▽いまや、専門的な脱構築論者、言説分析者、新歴史主義者などになるか、書斎にひきこもって人文主義の過去の栄光をノスタルジックに賞揚するかの、どちらかの選択しかないようなのだ。欠如しているのは、現代に意義をもつ位置を人文研究に取りもどすような、たんなる専門性と対立する意味でのなんらかの知的要素である。お粗末な二分法から逃れること。
▽グローバリゼーションは、人々をすりへらし、平らに潰し、転置させるという特徴をもつが、過剰搾取された環境……小国、大都市中心部という奈落の内側と外側に追いやられた人々が、そこを切り抜けられるかどうかについて多くを語る証言を、報道には出てこない証言を、掘り起こさなければならないと思うのだ。〓〓やろうとしていることもそういう意味があるのかも〓

□アウエルバッハのミメーシスについて
▽明確な概念は非歴史的で文脈をもたないとするデカルト的な抽象思考に反発して、ヴィーコは、人間は歴史的な動物であり、歴史をつくりだす、と論じる。テクストというかたちでわれわれを訪れる過去の知は、過去に生きたその作り手の視点に立ってのみ、たとえばホメーロスなら、原始的で野蛮で詩的な視点に立ってのみ理解することができると、ヴィーコは言う。ホメーロスがソクラテスのような賢人であったという説を否定する。まったく逆に、野生味と強情さのゆえに詩的なのであり、非論理的なな空想でいっぱいで……と断言する。「原始的心性」の発見。
(識字の意味を知るには、文字を知らない人の視点にたつ必要がある〓〓)
プラトンの思想はホメーロスの「後」に来る。詩の時代は退き、抽象と合理的な論説が支配する時代がやってきた。

▽人文学のテクストを理解するためには、自分がそのテクストの作者であるかのように作者の現実を生き、作者の生に内在する生きた経験を感じるように、博識と共感を結合させなければいけない。この結合こそ、文献学的解釈学の特質である。
▽ダンテ 神的なものが衰えるとともに、新たな秩序がゆっくりと立ち現れ、「ミメーシス」の後半は、歴史主義、多元的視点、歴史と現実の全体論的な表象のありかたの発展をたどっていく。
▽1940年代まで、ゲーテ以降のドイツのおもな作家は、偏狭な地域主義と、人生とは天職への献身であるというまことに伝統的な考えに埋もれていた。リアリズムは現れず、トーマス・マンの「ブッデンブローグ家の人々」が1901年にでるまで、近代の現実を表象する力を備えたことばはほとんどなかった。アウエルバッハは、国家社会主義の表現した非理性の混沌にあらがい、それにかわる選択肢として、フランス散文小説のリアリズム(スタンダール、フローベール、プルースト・・・)

□作家と知識人の役割
▽アメリカでは、職業化と専門分化が、アラブやフランスやイギリスよりはるかに強く、知的作業の規範になってしまっている。……「アメリカはこれこれの問題についてどう対処すべきだと思いますか」とインタビューで聞かれなかったことがない。統治という観念が、大学外での知識人の活動のまさに中心に座している事態をあらわしている。この質問にはけっして答えないのが、わたしの原則の一つになっている。

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