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悲しき熱帯Ⅰ <レヴィ=ストロース>

 中公クラシックス 200705

文化人類学のおもしろさ。常識が常識でないことがわかる。人間が人間であるべき「本性」はどこにあるのか、を知る。
戦前のブラジルへの豪華客船の旅かと思えば、ドイツ占領下の劣悪な航海へ、インドの労働者の生活風景かと思えば、哲学を学び哲学を捨てた青年時代へ。はたまたインディオの村を訪問する探検へ。時間があちこちに飛ぶ。ふつうならわかりにくいはずなのに(実際にわかりにくい部分もあるが)、描写のひとつひとつが凝っていてうならせられる。
ブラジルのインディオが絶滅状況に追いやられるのはたかだか数十年前のことだった。天然痘の患者の服を「おみやげ」とともに枝につるしておいて、それをもって帰ったインディオの集落は絶滅……と。
マルクス主義と精神分析学と地質学を参考にして彼の思想は形づくられ、哲学を捨て民族学に転向することになったという。その3つとも、個人の外にある客観的な構造・条件を大切にする考えかただ。
ヨーロッパ的な哲学を捨てさり、先住民族の社会を調べることで、ヨーロッパとインディオをまったく同じ目で観察する。そうして調べると、先住民族社会が進歩したらヨーロッパになる、という進歩史観はまちがっていているのではないか、という結論に導かれていく。
たとえばモヘンジョダロの遺跡を見れば、一直線の道路や直角にまじわる街路、公衆浴場、下水道……と、「新世界」である現代の合衆国の町と同じようなつくりになっている。最も古い旧世界がすでに新世界の下絵を描いていた。「進歩」ではなく、同じ構造をくりかえしている。一方、現代のインドの農村を見ると、アメリカのような方形模様ではない。これは方形模様の時代を通りすぎてしまった後の姿だと推測する。
欧米人は、昔は調和のとれた社会(原始共産制?)があり、その後、階級対立や緊張が生まれたとみる。が、南アジアを見ると、緊張していたかもしれない一切のものはとうの昔にこわれてしまったようにみえる。階級の断絶がまずはじめにあり、その後、混沌が生まれたというのが本当ではないか……。
インドは人口増加という問題を、人間集団を彼らが並びあって生きていけるように分化させるカースト制度を導入することで解決をはかろうとした。菜食の習慣も同じ配慮から生まれた。だが、「カーストが異なるが故に平等」という状態に到達できなかったため、この実験は失敗した。
南アジアの混沌は、「われわれの未来の姿」とみるすさまじい悲観主義。
階級が分化し、奴隷が生まれ、それが固定化し……まさに「家畜人ヤプー」の世界である。彼の論が説得力をもつだけに、読後感はよくない。

------要約・抜粋-------
▽人類の様々な文化が、接触する機会が少なければ・・・。。
昔の旅人として、目を見張る光景に向き合いながら、その大部分を把握できないだけでなくあざけりと嫌悪を感じるのか。現代の旅人として、すでに消滅してしまった現実の痕跡を追って走り回るか。いずれの場合も私は敗者だ。
★その「時」「場」の立場からみる。「今」から過去をみるのではなく。
▽天然痘で死んだ患者の病菌で汚れた着物を病院でもらい受け、それを他の贈り物と一緒に、インディオの諸部族がよく通りかかる道ばたにつるしておく。そうした結果、サンパウロ州では1918年の地図では、その3分の2が「インディオのみによって居住されている未開発の土地」だったのが1935年に私がそこについたときは、海岸に押し込められた数家族の一段をのぞけば、ただひとりのインディオもいなかった。
▽哲学から民族学へ
哲学:すべての問題は、いつも2つの見方を対置させるという方法を適用することでけりをつけられる。常識的な第1の見方を導入し、その正当かを第2の見方で崩し、最後に第1と第2がいずれも同じように部分的なものであることを示す第3の見方によって、どちらにも優位を与えずに退ける。
(弁証法)知能を錬磨すると同時に精神を枯渇させてしまうものだった。
毎年新しい講義1つを作り出す努力をしないとしたら、自分の授業をすることが不可能に思われた。
▽地質学。地層を見る。準備された目をもたなければ何の一貫した意味ももたない。……★山を歩くと、花や木の名を覚えたいと思う。でもそれより、意味の体系を知るほうがより深い理解につながる。
▽マルクス 「ルイ・ポナパルトのプリュメール18日」「経済学批判」
マルクス主義は、地質学や精神分析学と、異なった次元で、しかし同じやり方で働くように思われた。理解するということは、実在する一つの型を別の1つの型に還元すること。真の実在は決して最も明瞭なものではないということ(★潜在意識や経済)。真実の本性は、真実が身を隠そうとするその配慮のなかにすでにありありと窺われるということ。(★文脈・テクスト)
▽現象学 体験と実在のあいだに連続性を求める点に反発。実在に到達するためにはまず体験されたものをいったん拒否すべきだから。
実存主義 主観性の幻影に対する好意的態度のために、有効な思考と思えない。
マルクス主義(社会)と精神分析学(個人)と地質学(自然) その3者のあいだに、民族学は独自の世界を築いている。★ p92

▽船が静止すると、逆に眠っている船客の目を乱暴にさます。寝台列車の感覚。駅にとまって、シーンとすると目が覚めてしまう。
▽きわめて短時間の観察が注意力を有益に訓練し、時にはむしろ、長い間隠されたままになっていたかもしれない特質をとらえることが、時間の短さのために必要とされる密度の高い集中によって可能になることも学んだ::宮本常一の観察

▽スペイン人が「理性を具えた被造物からはほど遠い存在」である先住民の女を娶るのを防ぐため、1512年、西インドに白人の女奴隷を輸入した。強制労働を禁止しようとする王室に対して、植民者たちは信じられないといった態度を示した。「もうあの荷役獣どもを使うことさできないというのか」
サン・ヘロニモ修道僧団の査察団による学術調査では、インディオが「カスティーリア農民のように、彼ら自身で生きていく能力」があるかどうかについて、「今のところ、先住民はきわめて深く悪徳に毒されているので、自立する能力があるとは思えない。その証拠に、彼らはスペイン人を避け、報酬なしで働くことを拒み、そのくせ自分の持ち物をただでくれてしまったりするほど腐敗している・・・インディオは、野放しの獣のままでいるより、人間の奴隷になるほうが望ましい」・・・
同じ頃、隣の島の証言によれば、インディオは白人を水に投げ込んで殺し、それから白人の体が腐るかどうか見るために、溺死体のまわりに何週間も見張りに立った。
これらの調査を比べ、2つの結論を導ける。白人は社会科学に頼っているが、インディオはむしろ自然科学をあてにしている。第2に、白人がインディオは獣だと宣言しているのに対して、インディオは白人が神かどうか疑ってみることで満足している。どちらも無知に基づいているが、後者のほうが人間に値するものだった。 ★系譜学の視点。その時代の視点にたつ
▽金の収奪。掘り尽くす。鉱炉に燃料を補給するため森林が荒らされる。その次は砂糖。ここでは奴隷を消耗する。次はコーヒー。黄から白、白から黒へ。
▽耕すために森を切り払う。素畝御には、養分を吸い尽くされ水で流され、コーヒーの木を受け付けなくなる。さらに農園は奥地へ広がる。
▽ヨーロッパの都市にとっては、何世紀もへることは昇進を意味するが、アメリカの都市では年を経ることは転落。それゆえ、NYやシカゴ、サンパウロに着いたとき、私を驚かせたのは、都市の新しさではなく、荒廃の早さ。
▽サンパウロ社交界の構造
旧教徒がおり、自由思想の持ち主がおり、王朝主義者がおり、共産主義者がおり、大食漢がおり……人格を備えた人間ではなく、むしろ役割そのものだった。それらの役割は、そういう人が居合わせたからというより、役割それ自体のもつ重要性によって選ばれていた。……2人の人間が同じ領域、近すぎる領域を占めることになれば、相手をやっつけることしか考えなくなる。反対に、隣り合った勢力範囲のあいだでは慇懃に振る舞った。
▽教養あるブラジル人は、早わかりや入門書をむさぼり食っていた。
▽サンパウロ付近には日本人も大勢いたが、近づくのは難しかった。移民会社が募集し、内陸の農場に配分するが、農場は、村落とも兵営とも言えるようなものだった。学校も診療所も娯楽施設もあり……彼らが日本を離れたという感じを抱かずに大冒険がおこなわれるよう仕組まれていた。警戒の極度の厳重さ。 177
▽海岸の大都市は成長。しかし内陸部では、都市は生まれたり消えたりしていた。数においては常に増加することなしに、住民はひとつの地点から次の地点へと移って……化石化した町と胎生期の都市とを観察すれば、何百万年にもわたる有機体の進化の諸相を、古生物学者のような研究が、人間の次元で、時間的にきわめて短い範囲で可能になるはずだった。
海岸部を少しでも離れたところでは、ブラジルは1世紀このかた、発展したというより変形したのだという見方を失わないようにする必要があった。
〓行程を短縮した蒸気船の航行が、かつて名高かった寄港地を世界中から消し去ってしまった。航空機が、昔の中継地の上を飛び越えるようわれわれを誘うことによって同じ役割を果たしていないか。(旧惣川村の土佐街道〓)
▽現在は人が消えた鉱山町(〓夕張) 地下の開発は、田舎の、溶鉱の燃料となった木を提供した森林の荒廃を代償として支払われた。鉱山町は、養分を吸い尽くした後、そのままの位置で火事のように消えてしまった。
▽(野蛮人と比較して)もしわれわれが、人間的体験の枠組みやリズムから、われわれは自分の意志で完全に自由にはなれないのだということを甘んじて認めれば、われわれは、どれだけ疲弊や無用ないらだちなしに済ませられるだろうか。
▽首都としてつくられた人造都市ゴイアス、 1925年ごろに生まれた同様の都市マリリアでは600戸のうち100戸が娼家だった時代もあった。
▽p214 インドとパキスタン  モヘンジョダロとハラッパ 一直線に走り、直角に交わる街路。同じような住居のならぶ労働者街。公衆浴場、下水……快適さが保証されてはいいるが趣のない住宅街。遺跡全体は、今日の合衆国がヨーロッパに向かってさえ見本を示している、西洋文明がさらに推し進めた形式を予示している。最も古い旧世界は、その若いとき、すでに新世界の顔の下絵を描いていたのである。
▽インドは、アメリカ中西部やカナダのような厳密な方形模様ではない。微細な区画にわけられ、隅々まで耕された土地の眺めは、ヨーロッパ人にはなじみ深さの感じを与える。しかし、この混沌とした色調、田畑の不規則な輪郭。ヨーロッパの田園の、より明快な形と色に比べてみたとき、同じ綴れ織りを裏から眺めているや印象を受ける。
一方は、規則的な人口増加が農業と工業の進歩を可能にした。他方に対しては、18世紀以来、停滞したままだった富の総体からの個人の取り分を、確実に低下させる結果になった。
★ヨーロッパとインド、北アメリカとミナミアメリカだけでは、地理的環境と人口とのあらゆる組み合わせを尽くせないだろうか。
貧しい熱帯地方だが人口も少ないアマゾン地帯のアメリカ
貧しい熱帯だが人口過剰の南アジア
温帯の国では莫大な資源をもち比較的人口の限られた北アメリカ
比較的資源は限られているが人口は多いヨーロッパ

こうした証拠をどんな風に並べてみようと、南アジアは常に犠牲にされてきた大陸なのである。
▽南アジア 不幸な人々を平等な人間として扱いたいと願ったとしても、彼は抗議するだろう。彼らはあなたの威勢によって、彼らを踏みにじることを懇願している。あなたと彼らを分けている隔たりを拡大することによって、ひとかけらの食物を期待しているのであり……生き残るということは、彼らにとっては、強者への賞賛によって辛うじて許される。
ヨーロッパ人は、階級間の対立を闘争や緊張という形でとらえる。あたかも原初の、あるいは理想とされる状態が、こうした敵対関係の解消に対応するかのように。しかし南アジアでは、緊張していたかもしれない一切のものは、とうの昔に壊れてしまった。断絶は初めにあったのであり……。
▽最下位カースト 彼らは確かに人間だった。清掃人兼便器取り替え人たちは、1日中柄のない箒を使ってごみをとり、便所に入っている者に、はやく用を済ませてしまうよう促す。主人から大事な「もの」を奪い取ることによって彼らなりの特権を確保し、一つの地位を得る手段を見出しているかのようだ。(★ヤプーの世界)
▽p238
ブラジル中央部から南アジアへ。最も遅く発見された土地から最初に文明が姿を現した土地へ。最も人間ば疎らな土地から最も充満した土地へ。
アメリカとインドの比較 アメリカでの私の考察の対象は、自然や都市の景観だった。形や色や独自の構造によって輪郭の定まった客体が、それを占めている人間から独立した存在を、それらの景観に与えている。インドでは、こうした大きな対象は、歴史に滅ぼされて消え失せ、物や人間の埃に還元され、それが唯一の実在になっている。前者では、「事物」をまずみたのに、ここでは「人間」しか認められない。数千年という歳月の働きによって蝕まれてきた1つの社会学が崩壊し、人と人とのあいだの夥しい関係に席を譲る。
5000年1万年前から農業や手工業の営まれてきたインドでは、森林は消滅した。食物を煮炊きするのに、肥やしは畑にやらずに燃料に使わなければならない。耕作可能な土は雨に洗われて海へ逃げている。(〓)
がら空きの熱帯と満員の熱帯の極端な対照。
……人間がその生存条件とは独立に信条を選び取ると考えるためには、よほどの単純さか作為が必要だ。政治組織が社会の生存形態を決定するどころか、生存形態が、その表現であるイデオロギーに意味を与えるのである。(〓実存主義批判、マルクス主義に近い決定論、文化人類学的観察の上の絶望……)
▽アジアと熱帯アメリカという2つの世界の中間的位置をヨーロッパが占めている。人口という問題に、インドは3000年前に直面し、カースト制度によって量を質に変換する方法を求めた。人間集団を、彼らが並び合って生きてゆくことができるように分化させるのである。インドは人間を超えたさらに広い分野に拡大。菜食の規則は、カーストと同じ配慮、すなわち、社会集団や動物の種が互いに侵害しあうのを防ごうとしている。
この大実験が失敗したことは悲劇だった。
カーストが異なっているが故に平等でありつづける、共通に測りうるものを持たないという意味で平等でありつづけるという状態に、歴史の流れのなかでカーストが到達できなかった。
……あまりに多くの人口を抱えすぎたことによって、一つの社会が隷従というものを分泌しながらでなければ存続できなくなった。人間が、地理的・社会的・知的空間のなかで窮屈に感じ始めたとき、ひとつの解決策を誘惑するおそれがある。人間という種の一部に人間性を認めない、ということだ。何十年かのあいだは、それ以外の者たちは好き勝手に振る舞えるだろう。そらからまた、新しい追放に取りかかる。(〓OG論文のイジメ問題に通じる)
アジアで私を怖れさせたものは、アジアが先行して示している、われわれの未来の姿であった。
インディオのアメリカでは、人間という種がその世界に対してまだ節度を保っており、自由を行使することと自由を表す標とのあいだに適切な関係が存在していた一時代の残照を慈しむのである。(階級の永続化)

▽マテ茶 コーヒーや茶やチョコレートに含まれるアルカロイドが含まれ、鎮静作用も強壮作用もある。マテはボリビアのコカより遙かにまし。マテと比較できる値打ちあるものとしては、香辛料をいっぱい詰めた蒟醤(きんま)の噛み心地しか知らない。

▽インディオの村へ。過去の観察記録と比較して、本質的なものを抽出。
▽誇り高いインディオ貴族の記述。……白人女性はムバヤ族に捕まっても怖れる必要はなかった。ムバヤ族の戦士のだれひとり、白人女と交わって自分の知を汚そうなどと夢想さえしなかったから。何人かのムバヤの貴婦人が副王夫人に会うことを拒んだのは、ポルトガル王妃だけが彼女たちと交際するに値したからである。
……堕胎や嬰児殺しは当たり前。出産に対する激しい嫌悪がある。集団の永続は、次の世代を産むことによってよりは、むしろ、よその子を養育することによって保たれていた。ある計算によれば、グアイクル族の一集団の成員のやっと10%がその集団の血を引いているに過ぎなかった。(〓親子愛というのは遺伝ではない。社会的なものでしかない)

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