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先生とわたし<四方田犬彦>

■先生とわたし<四方田犬彦> 新潮文庫 20110811
英文学者・由良君美の弟子である四方田が師との悲劇をつづる。
冒頭の由良が亡くなる場面、もう何年も顔を合わせていなかった、という導入がサスペンスの謎かけのようで引き込まれる。
パイプをくゆらせ、ダンディーにスーツを着こなす由良は、文学から哲学、大衆芸能、漫画まで論じ、印象記のような「批評」を「方法論がない」と批判し、小林秀雄や江藤淳をこきおろす。広範で深い知識をもつカリスマ教授だった。
東大に入った四方田は由良の知性に一瞬にして魅入られ、講義のあとは研究室に通う。由良は博覧強記であるだけではない。知のコーディネーターでもあり、翻訳を弟子に紹介し、出版社とともに新分野を次々に切り開いて行く。
そんな由良の知の背景には、やはり学者だった父や、福沢諭吉らと親交を結んだ祖母がいた。「天狗のむこうには大天狗がいた」と四方田は評する。由良は巨大な「父」との葛藤を乗り越えて今の自分を形成したのだった。
そんな圧倒的な知性も、1980年代に入るとかげりをみせる。アルコールにおぼれ、奇矯な行動が増える。弟子の業績におかしな非難を浴びせる……。あの先生がなぜ? と弟子たちは戸惑う。
実は由良にはいくつかの弱点があった。戦時中という時代もあって海外に出られなかったことが、海外に雄飛する弟子たちへの妬みとなる。東大出身ではないのに東大に職を持つことの重圧もあった……そうしたもろさがあったことに弟子たちが気づくのは、弟子が50歳に近づいてからのことだった。
師のもろさとは「父」のもろさでもある。
最後に四方田は「師弟」論を展開する。圧倒的な「師」をもつことの大切さは内田樹も説いていた。筆者・四方田自身もまた、幅広い知性で知られる学者だが、由良と同じ道を歩み、いずれは弟子に乗り越えられ、裏切られる「父」であることが暗黙のうちに示唆されていて、哀しい。
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▽17 1972年。権力への抵抗を歌うフォークソングが後退し、代わって荒井由美が登場した。豊かさと幸福感の幻想に包まれるように、少しずつ変化していくのだった。
▽24 漫画だろうが……文化的テクストとして分析の対象とできるような柔軟な思考の……「高位文化が誕生するためには、低位文化の絶えざる振幅が条件である」というテーゼが彼の方法論の根底にあった。
▽26 フロイトが人間の無意識は個人に帰属すると説いたのに対して、弟子のユングは師が顧みなかった「古代残滓」こそが重要であると反論し、個人の枠を超えて人類の無意識に共通に横たわる、非人称的で匿名の要素の意義を主張した。「集合的無意識」は、意識の表面に浮上するとき、かならず特定のパターンを媒介として洗われる。それを「原型」と予備、患者の夢を分析するさいの手だてとした。
▽30 由良 文学の研究は確固とした方法論に基づいてなされなければならない、という信念。日本の私小説的な風土が醸成してきた体系のなさと、それに発する印象批評を深く憎んでいた。
▽36 サイード でてきたばかりのときに「スゴイことをしでかすよ」と予言。
▽41 私は沼正三の「家畜人ヤプー」をとりあげた。すでに宗教学研究室で現代日本の新宗教運動の潜り込み調査に従事していた私は……
▽44
▽52 韓国留学「柳宗悦 朝鮮王朝の王宮を飾る光化門を守った。彼のこうした行為の根底には、若き日に学んだブレイクのロマン主義的政治思想があったことを知っておきたまえよ」
▽68 慶応大学の西脇順三郎の弟子に。江藤淳は、由良より3年遅れて西脇ゼミを受講。
▽77 担当学級の男子学生がしばしば女子学生を付け回し、深刻な問題を引き起こす…とりわけ地方の高校で秀才ともてはやされ、立身出世の志を抱きつつ都会に出てきたばかりの学生に、そのタイプが多かった。
▽83 討論集会をしたいという学生がしばしば教室を襲った。由良は、一歩も譲ろうとしなかった。5分か10分、アジ演説をするのを黙って聞いていると、「きみのいいたいことはよくわかった。しかしここは英語の授業なのだ。……」
▽101 「ハイスクール1968」
▽102 せりか書房 もはや政治と闘争の時代ではない。その背後に潜んでいる儀礼と無意識の構造こそを冷静に見定めるべきだ。……どれもがそう告げていたような気がしている。
久保覚は、自分が発見した若い学者が有名になり、他の出版社から著書を刊行するようになると、さっさとその人物を離れ、別の集団を組織した。著者をめぐる独占的な支配欲にも、フェティシズムにも、まったく無関心だった。
▽104 70年代中頃から80年にかけては、欧米の幻想文学から実験的文学作品までが、小さな出版社から次々と翻訳刊行された時代だった。……日本文化が真の意味で西欧を理解するには、せいおう近代が見落としてきた「追放諸学」をすくいあげるこうした出版社が大切なんだといつもゼミ生たちに語り、書物を買う金を惜しんではならないと繰り返した……
▽114 保守的な「たこ壷思考」(丸山真男)を報じる学者たちが、日本語というマイナーな言語の内側に保護されながら専門分野だけを律儀に守り、旧知の専門家以外はほとんど誰も目を通すことのない紀要論文の執筆にふけっている……こうした太平の世を生きる学者たちに対する苛立ちが念頭にあった。
▽129 (君美の祖父)は東京の人間が京都大阪のように、けんかの際に罵倒語を披露して周囲に見物人を寄せ付けるのではなく、言葉より先に手が出ることに、野蛮を見ていた。(上海と大阪の類似)
▽132 三木清は、京大を出るとドイツに留学し、ハイデッガーに師事した。ハンナ・アーレントとは残念ながら遭遇はなかった。
由良哲次は、大東亜共栄圏の旗印のもとに国家と民族の歴史的必然を叫んでいたとき、三木はひとり獄中にあった。
▽140 ハイデッガーは1933年にナチス入党。ユダヤ系だった師のフッサールはドイツ国内で活動禁止。
▽142 哲次の姿勢は、ナチスドイツに範を求め、日本でも固有の道徳思想に基づいた民族教育を徹底し、大東亜共栄圏の発展を祈願することにあることは瞭然としている。
「文化とは民族国家なくして成立するものではなく……」ナチスを賞賛。……人間はひとたびファシズムの熱狂にとらえられてしまうと、かくも異常な言説を平然と口にしてしまうのか、と思うと、知識が人間を人格的に向上させるという古典的な信念がいかにも無意味なものに感じられてきた。
▽166
▽168 君美の読書には、哲次(父)が生涯において無縁であったある中心点があった。ロマン主義者として諸学の礎にありと見なしていたもの、すなわちポエジーである。……由良君美は自分にまとわりついてくる父親の強固な影を払拭するためにも、スタイナーの力を必要としていた。
▽178 「糞にまみれ恥じ多い生存を、息長く歯を食いしばって、ひきうける何か」
▽187 1982年を過ぎるころから、由良とわたしの間には見えない溝が生まれようとしていた。わたしはロラン・バルトの映像記号学に夢中になって……
▽188 ……今度は逆に由良に向かってイギリスのポスト構造主義の新著を説明する立場になった。だが由良は、わたしが情熱的に説明したヒースやマッケイブに対して、いささかも興味を示そうとはしなかった。70年代に比べて明らかに元気がなかった。同世代の研究者が相当の時間をかけて執筆した大著に対して「くだらん」と否定する身振りが目立つようになり……「もう書けないんだよ。体力が限界に来ているし、ぼくにはいつも短いものしか書けないんだよ」と力なく答えた。生まれて初めて見る由良君美の弱気に……(〓師を超える寂しさ)
▽195 「脱構築」も由良が考案した言葉。新しい観念が登場すると、みごとに本質を把握して日本語に置き換える彼の才能。
▽200 アルコールにおぼれ壊れて行く師(父)
▽210 由良は、東大英文科出身でないことからくる孤立感に悩んでいた。……駒場の外部から到来した2人の教授だけが、そろいもそろって大酒家と化した……
▽215 著書「クリティック」を由良に送ると、由良からは「すべてデタラメ」とだけ記された絵はがきが届いた。
▽217 1985年、バーで由良と出会い、いきなりなぐられる。……もうこれで自分と由良との間は終わったのだとみずからにいいきかせることで、心の平静を保とうと決意した。
▽220 「由良さんは、四方田さんもまた自分を捨ててしまった、と、わたしには話していました」(井上摂)
▽233 「ブレイクの初版本をロンドンのオークションで300万円で競り落としたときほど、由良が嬉しい顔をしていたときはありませんでした」
▽237 理論に基づいてときに危険を顧みず進んで実験を手がけたり、教説を個人的にも信奉しながら、それに見合った生活を提示することができて、はじめて教師は師として認められる。教師は知を運搬するが、師はみずから例証する〓。
▽239 ジョージ・スタイナーの「師の教え」と、山折哲雄「教えること、裏切られること」(講談社現代新書)
▽241 戦前の師弟関係は、敗戦によって断ち切られ、戦後はそれにかわって「人間関係」という言葉がしきりと用いられることになった。だが戦前の師を戦後の「人間」が殺したことで、日本人が喪失してしまったものは何であったのか。〓
▽244 臨済宗の教説には、師に出会うときはその師を殺し、祖とであう時はその祖を殺せという一節がある。仏弟子たるものは仏を殺し、その屍を乗り越えてゆくほどの気力と大胆さをもって修行を続けないと、悟りに到達することはできないという決意が説かれている。
▽252 既成の師弟関係をあっさり振り切って修行に邁進した道元は、永平寺を建立して弟子を育てることになったとき180度転換。何よりも戒律を重視し、日常茶飯における厳しい作法をもって修行の基礎をなすという立場を宣言する。弟子を調教し鍛錬することに、偏執狂的な情熱を注ぐにいたる。
▽254 師のフッサールをハイデッガーが裏切る。「わたしには彼の人格を語る言葉がない。まったく理解できなくなったのです。この十年、彼はわたしの親しい友人であったというのに」とフッサールは書く。
▽257 ナチスとの醜聞で呪われた哲学者と見なされかけていたハイデッガーが世界的に再評価されることになった功績は、ひとえにアーレントに帰せられるべきかもしれない。彼女がユダヤ系であり、しかも「全体主義の起源」の著者であったことが大きな意味をもった。……あらゆる師弟関係には潜在的にエロスが働いている。
▽258 山折は、戦後の日本社会が師弟関係を切り捨て、中性的な「人間関係」に代替してしまったとして、この範例を回復することはできないか問題提起。そこで藤井日達のような僧侶をあげる。インドで仏舎利建立の現場を訪問すると、彼を師としてあおいで集まった少数の若者たちがいて、師というものの存在を実感として受け止めていた。(笹森さんら)
▽261 セレブは、師弟関係と真正面から対立する。セレブがもてはやされる社会では、少数のエリートによる賢人への敬意は嘲笑されるべき時代錯誤と化し、大衆消費時代にふさわしい「民主化」が横行している。生意気で挑発的な年少者が落書きをしてまわる時代なのだ。……「師とは過ちを犯しやすいものである」
▽275 弟子が、自分の教えた領域から遠ざかって行くのを、師は指をくわえて眺めていなければならない。だが自尊心は嫉妬と羨望を口にすることを阻む。自分のヴァルネラビリティを公にすることができない。どこまでも師としてふるまわなければいけない。
▽292 世界に対して無上の知的好奇心を抱いているかぎり、若き日に一度は、師と呼ぶべき人物に出会うはずである。運悪く独学を強いられた環境にあったとしても、書物を通して知的な先導者に人格的な尊敬を抱くはずだし、そうあらねばならないという思いがわたしにはある。
……思いがけないモノの組み合わせが新しい観念を生み出す契機となる。こうした信念に基づいて、彼は世界のさまざまな対象をみずからの文脈のなかに咀嚼し、相反するものの一致の詩学を説いた。
▽296 (由良は)書物は、整理カードや検索機に還元できない、非能率的な何物かでなければならなかった。ある主題の論文を執筆せんがために、体系的に書物のリストを制作し、それを秩序づけて読み進めるという研究の仕方を認めようとしなかったし、論文執筆のための労働としての読書という考えを拒否していた。
▽由良という存在の再検討は、もう一度人文的教養の再統合を考えるためのモデルを創出しなければならない者にとって、少なからぬ意味をもっているのでは。ゼミの後で由良の研究室に成立していた、親密で真剣な解釈共同体を懐かしく思うが、かかる共同体の再構築のために腐心しなければならないと、今では真剣に考えるようになっている。人間に知的世界への欲求が恒常的に存在しているかぎり、師と弟子によって支えられる共同体は、地上から消滅することはないだろう。
▽312 思春期を、回顧の視線による合理化(事後検閲)を被らない姿で描出するのは至難の技。「教えること、裏切られること−師弟関係の本質」(山折哲雄、講談社現代新書)

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