■生きて語り伝える新潮社<G.ガルシア=マルケス> 20110810
子ども時代から、実質上の亡命によって祖国での青春時代が終わるまでをつづっている。
作家をめざしながら、貧しい生活を送る20歳代前半の著者が、母とともに「家」を売るために故郷を訪ねる旅の場面からはじまる。かつてバナナ王国として栄 えた故郷は今は落ちぶれたゴーストタウンになっている。母は旅のあいだ大学を卒業しようとしない著者を難じ、「せめて卒業を」と説得する。落ちぶれた家、 希望のない一家。そんな著者が過去を振り返る旅なのだ。
コロンビアのカリブ海側の田舎に生まれる。母方の祖父は自由党の闘士として保守党との1000日戦争を戦った大佐だ。
名家育ちの母は、郵便局員の父と、家族の大反対を押し切って結婚する。ガブリエルは、親戚一同、とくに女たちが群れて暮らす母方の祖父母の家で育てられる。なかでも精霊の存在を信じる祖母が作家の基盤をつくった。
祖父と同様、父も浮気を繰り返し、十数人の子をつくり、薬局を経営して一家を養う。その血をひくガブリエルも、音楽を愛し、女を愛し、娼婦の家に入り浸っ て女の愛人から危うく撃ち殺されそうになる。大学に入って新聞に小説や論文を寄稿して注目されるが、原稿料はほぼゼロ。印税でくらせるようになったのは 40歳を超えてからだという。
しばらくつづいた自由党政権は、内紛もあって保守党に権力を奪われる。しだいに不穏な空気が流れる。自由党のトップで次期大統領に目されていたガイタンが暗殺され一気に暴動が起きる。その暴動を利用して保守党は反政府派を一気に鎮圧し、虐殺する。
ガブリエルは争乱のボゴタを離れて、まだ平和だったカリブ海岸に逃げる。大学に通うかたわら自由党系の新聞でコラムを書いていたが、しだいに検閲が強化さ れ、政権批判をする新聞には武装した警官が踏み込まれる。聖職者となった友人はELNのゲリラになって後に戦闘で死ぬ。その後勤務したボゴタの新聞「エ ル・エスペクタドール」のトップは、のちにコロンビアの麻薬組織追及に力を注ぎ、1986年にメデジン・カルテルに暗殺される。
民主主義体制のはずだった国が、あれよあれよという間に血なまぐさい独裁国家に転じてしまう様子が、自分の意志と関係なく巻き込まれていく若者の目を通して描かれる。永遠につづくと思われた平和はかくももろいものなのだ。日本の戦前を思い起こさせる。
著者の時代の文学の地位の高さがうらやましい。新聞では新進の作家をとりあうように発掘し、反動的政治家を批評するパブロ・ネルーダのソネットは、激しい論議と反発を生み、ネルーダはコロンビアへの入国を禁じられた。それだけ詩が影響力を持っていた。
ガブリエル自身の文学は、当初は技巧を駆使して創作していたが、冒頭の母との旅によって、自らの「根っこ」に目を向ける。祖母の妄想や幻想を、事実と妄想 を区別することなくつづる。「本物であれ夢であれ、想像力の不思議な力が作り出したととらえるのではなく、私の生の中で実際に起こった驚異の体験であると とらえるべき」と言う。西洋合理主義へのアンチとなっている。
「私がそれまで書こうとしていた本というのが、単なる修辞的なでっちあげであっ て……叙事詩的物語のモデルとなるのは、私自身の家族の物語以外ではありえなかった。私の役に立つのは、もはや人工的な手法による加工ではなく、自分でも 知らずに引きずっていた感情的な電荷であり、祖父母の家で無傷のままずっと私のことを待っていた情感の重みのほうだった」という言葉は、ラテンアメリカだ けでなく欧米や日本でも同時代的に起きていた「根っこ」を再評価する芸術の流れと軌を一にしている。
最後、ヨーロッパに旅立つとき、思いを寄せていたメルセデスに手紙をしたためる。
「もしこの手紙に1カ月以内に返事がなければ、僕はこのまま一生ヨーロッパで暮らします」。翌週、ジュネーブのホテルで彼女の手紙を見つける。
青春の終わりで幕を閉じる。これにつづくであろう第2部の完成が楽しみだ。
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▽38
▽60 決闘によって相手を殺した祖父は新しい町に居を移す。
▽66 アラカタカの虐殺。バナナ労働者のストライキを内陸から来た兵隊たちが弾圧。
▽75 父母の大恋愛。
▽78 娘の恋人は誰であれ邪魔者だった。この偏見が隔世遺伝のように時折噴出し、その残り火がいつまでも燃え続けているいるせいで、われわれは、独り身の女たちと、下半身がだらしなくて落とし種をあちこちに残す男たちを大量に擁する一族となっているのである。
父は、17歳のとき以来5人の処女を愛人として、結婚する前にすでに2人の子どもがいた。それをけしからんと思った母方の祖父(大佐)も、3人の子のほかに、9人の子を全員異なった母親との間にもうけていた。その全員を彼の妻は、あたかも自分の子であるかのように受け入れていた。
▽82
▽94 自らの出生場面をも細かく描写する。
▽95 両親の結婚が、アラカタカの衰退が決定的になっていく過程でのできごとだった。「噂では、どうも会社は撤退するらしいじゃないか」……誰もそれを信じようとせず、誰もそれがもたらす荒廃のことは考えようともしなかった。
▽107 世界を支えて維持しているのは女たちであって、男たちはその歴史的な暴虐でもって世界を混乱させているだけだ、という私の確信は……
▽110 すでに亡くなったおばさんを部屋で見た経験 幽霊を見た経験。八雲との相似点。
▽114 歯を磨いてもらうのがきらいで、入歯の祖母がうらやましかった。歯医者に「祖母と同じものをつくってくれ」とせがみ続けた。
▽137 歴史をはぐくんだ家、今は荒れている。そこから振り返る。
▽139 モンテソーリ教育 子どもたちに世界の美しさに気づかせ、生の秘密に対する好奇心を目覚めさせるメソッド。一方、算数や抽象的な観念を扱うのが苦手。
▽148 小説の出だしというのが作者の思い通りになるものではなく、小説自体が自然に決めるしかないものであることに気づいていなかった。
▽168 「意識するべきは、出来事はすでに起こっていて、人物はそれを回想するためにそこにいるだけだ、ということだ。従って、書き手はふたつの時間を取り扱わなければいけないわけだ」
▽174 私が自分の小説で暮らしていけるようになった最初の印税は、私が40何歳のときに払われたのであり、それまでにすでに4冊の本を出していたが、そこからはほとんど何の収入も得られなかった。
▽182 母の嫉妬の爆発
▽190 「宝島」と「モンテ・クリスト伯」「千一夜物語」を通して、人はもう一度読みたいと攻め立てられるような本だけを読むべきだ、ということを学んだ。
▽230 売春宿での童貞喪失。「ここにあの子(弟)のパンツだってあるのよ。こないだはあたしが洗ってあげなくちゃならなかったんだから」。「初めてだったんでしょ」「何を言う。もう7回ぐらいやってるよ」「いずれにしても、弟に、ちょっと教えてくれって頼んだほうがいいわよ」
▽242 ぼけた祖母。……ずっと秘密にされてきたこと、口にするのが禁じられてきたことなど、たくさんの謎が彼女の独り言を通じて明らかになった……
▽248 実家と学校を往復する船の旅。……私は甲板に逃れて、すっかり忘れると決めた世界の光をこれを最後に、といつまでも見つめながら、夜明けまで思う存分涙を流した。私があえて、たったひとつ、もう一度子どものころにもどりたいと思うことがあるとすれば、それはあの船旅をもう一度楽しむためだ。(ドリーム号から見た渋谷のプラネタリウム、大垣行きの鈍行 昼間の東海道線でのシソにぎりめし〓)
▽265 カリブ海沿岸の出身者は、グループの結束が異様に固く、踊り騒ぐのが大好き。……声がでかくて育ちが悪い。はやりの音楽を映画スターのように踊る才能と、すぐにどこまでも恋に落ちていくという趣味のよさを大いに発揮した。
▽282 アラカタカ時代の私は、歌うことこそが物語を語るいちばん古くて幸福なかたちだと考えていた。いちばんむずかしいとされる楽器でも耳だけを頼りに弾けるようになることを証したてた。
▽289 自由党から出た大統領たちが順次、世界の新しい趨勢へと国を開こうとしはじめたころから、保守党との差異ががでてきた。絶対的な権力のさびた部分のせいで敗れ去った保守党が、イタリアのムッソリーニとスペインのフランコ将軍を見習って、自宅内の清掃と秩序回復につとめる一方で、ロペス・プマレーホ将軍の最初の政権は、教養ある若手を登用して、モダンなリベラリズムの実現のための条件整備を始めたが、それが実は、二分されている世界の構図のままに我が国をまっぷたつに分断することになるという歴史的定めから逃れられなかった。〓
▽302 音楽によってもてる。そこで声をかけたのが、20歳の既婚者ニグロマンタ。……第一回戦から私たちはベッドのなかで完全に狂った……寝ているところを夫に踏み込まれる。「ベッドの決着は鉛でつける」。ロシアンルーレット。
▽315 夫がほかの女との間につくった子どもの世話をする母。「自分の子どもと同じ血が、そこらへんをごろごろしているのを放置するわけにはいかないじゃないか」
▽318 あの頃の母の荒れた精神状態と、家の緊迫した雰囲気が、コロンビアという国の致命的な矛盾とどれほど緊密に結びついていたか、ということ。
▽321 平和な村でも、中傷ビラが出回る。名家とされる家には恐怖感が行き渡った。……私の父は、平和的な男だったが、彼ですら、一度も撃ったことのないリボルバーに油を差し、ビリヤード場で大口をたたいた。「うちの娘たちに手を出すようなやつがいたら、鉛をお見舞いするからな」。反対派を怖じ気づかせる目的で内陸部の多くの町に警察による暴力行為が広がってきており、中傷ビラはその前兆なのではないかとの恐れから、脱出する家族も出た。
緊迫感もじきに日常の一部と化した。最初のころは密かな見回り自警団が組織されたが、それは、夜が明けて破り捨てられる前に何が書いてあるかを確認するためのものだった。
▽327 女のもとに沈没。
▽338 不偏不党の立場を維持しようとしていたリセオの一部の先生は、ここにきてそれを守れなくなり、自らの政治信条について議論を激しく述べ立てるようになった。自由党が分裂して、保守党が武闘派として団結することで、25年にわたる自由党政権は倒れた。19世紀のわが国は、一度も平和をもつことがなく、8回におよぶ全国的な内戦と……そのあげくにおこった千日戦争では、わずか400万の人口から、8万人の死者を出すにいたった。保守党が実行しようとしているのは、国を挙げてまる100年後退するためのプログラムだったのである。
▽347 はじめての新聞掲載。その新聞を買うカネがない。
▽356 パブロ・ネルーダ 詩は政治的な武器でなければならないと思い定め……反動的なラウレアーノ・ゴメス(保守党)に捧げる懲罰的なソネットを3篇書いた。激しい論議を呼んだ。そのことじたいが、詩がどれだけの力をもっていたかを明らかに示していた。ネルーダは、その後、コロンビアへの入国を禁じられた。(〓詩の力)
▽361 ボゴタの社会制度となっていたカフェ。カフェのそれぞれが、政界・文壇・財界といった専門分野をもっていた。好みの店がアイデンティティの徴のようになっていた。
▽366 インタビューのあり方 質問と返答からなる古典的な形式への疑問。それを超えた独創的な女優のインタビュー。
▽372 本を盗むのは犯罪であっても罪悪ではないという学生規範。
▽376 「牧神が路面電車に乗りこんできた」夢。私にとって重要だったのは、牧神が本物だったのかどうかではなく、まるでそれが本物であるかのように私がその体験を生きたということのほうだったのである。本物であれ夢であれ、想像力の不思議な力が作り出したととらえるのではなく、私の生の中で実際に起こった驚異の体験であるととらえるべきものだったのだ。(〓西洋合理主義へのアンチ)
▽379 短編の掲載によって1センタボでも支払われたことは一度もなかった。新聞業界ではそれが当たり前だった。
▽383 聖職者になった友人カミーロ。その後、国民解放軍(ELN)のゲリラに。1966年に37歳で戦闘で死んだ。
▽385 自由党のホルヘ・エリエセル・ガイタンは、保守党に敗北後に運動を急進化。本物の社会革命の前夜のような状態に。そのような状態にいたってはじめて、国が内戦の淵へと転落しようとしていることにきづいた。
▽388 ガイタンの当選はもうとめられないと、保守党側もわかっていた。全国への暴力の広がり、警察が無抵抗の自由党派に対してふるう暴虐、焦土作戦という政府方針のゆえだった。
そんななかでガイタンが殺される。
▽394 人々を扇動していた高級スーツの男。新しい高級車に拾われ去っていった。……あの争乱のさなかに、キューバの学生運動指導者だったフィデル・カストロもいた。ガイタンに面会を申しこんでいた。
……動乱状態に……そして鎮圧と虐殺。ボゴタの街頭での死者、これにつづく数年間の政府の抑圧による死者の数は100万人以上にのぼったはず。無数の貧困と亡命を招いた。
▽424 ボゴタは遺体の山が放置されていたが、カルタヘナに来てみると、世界がまったく違っていた。戦争の痕跡はどこにもない。
▽436 カルタヘナで大学転入。窓から顔を出して眺めて、いちばん気に入ったフィエスタを選んでいけばよく、50センタボで夜明けまで、踊り続けることができた。
▽439 新聞社のサバーラに会いに行くが、何度も前を通って躊躇して入れない……
▽448 もしサバーラ師匠の赤鉛筆がなく、検閲の圧力がなかったら、私の人生はどうなっていただろうか。検閲はその存在じたいが、想像力を発揮させることになった。
警察は軍隊化されてきており、政府の厳しい姿勢を見せる手段のひとつとして武装強化されていた。
▽449 ある日突然、陸軍の警備隊が通りを封鎖し、警察の司令官が新聞社の建物に入ってくる。社長プと2時間会談する。キャンペーンの調子を抑えるように助言し……脅す。
▽455 ギリシャを……ソフォクレスの全集 娼婦のもとを通う日々。
▽469 「モビー・ディック」
▽473
▽474 治安の悪化で、戒厳令が再度施行されていることさえわかっていなかった。……暴力行為のせいで、自由党支持者は土地や家を捨てて逃げなければならなくなった。自由党の大統領候補と目されていた……は、選挙ボイコットを支持し、これにより(保守党)のゴメス当選への障害はなくなった。
▽478 次々に生まれる弟妹。食卓での食事はむちゃくちゃ。全員を一堂に集めるのは不可能だった。
▽480 自分の周囲に忍び寄る暴力。
▽490 このころまでにはカルタヘーナにも、政治的緊迫が伝染してきており、……バイオレンスは農村地帯でひどくなり、人々が都市に逃げてきた……迫害された自由党支持者が国のあちこちでゲリラ組織を作っていた。……保守党政府に対するクーデターが近いことがごく自然な口調で話されていた。
▽492 ……自分たちの陰謀の規模の大きさに恐れをなした自由党指導部は、議論もないまま中止命令を出した。その指令を受け取れなかったたくさんの関係者が拘束されたり殺されたりした。……保守党が権力の座にとどまったことによって、20年間で30万人を下らない死者が出た。
▽496 平穏だったバランキーヤ 地方から5千人の避難民が極度の貧困状態で町に入ってきており、問題があからさまにならないように彼らをどこに隠せばよいのか、誰にもわからずにいた。
▽502 それまでの短編小説は、どこの国に住んでいるかわかっていない人間が書いたようなものだったのに対し、「キリン」の記事では、私は民衆文化にひじょうに配慮がある態度をとっていた。……母と一緒にアラカタカの家を売りに行ったあの旅が、私を深淵から救いだし、新しい小説ができるという確信が、それまでと異なる未来の地平を指し示した。私がそれまで書こうとしていた本というのが、単なる修辞的なでっちあげであって、なんら詩的真実に立脚していないものであるということを示した。
叙事詩的物語のモデルとなるのは、私自身の家族の物語以外ではありえなかった。私の役に立つのは、もはや人工的な手法による加工ではなく、自分でも知らずに引きずっていた感情的な電荷であり、祖父母の家で無傷のままずっと私のことを待っていた情感の重みのほうだった。(〓根っこの発見)
▽507 米国のディープサウスの文化とカリブ海文化との間に見ることができる類縁性。私は絶対的に、根本的にカリブ海文化と一体化している。このようなことを意識するようになって……
▽524
▽526 彼女が13歳のころプロポーズしたことがある、スクレの薬剤師の娘メルセデス・バルチャと再会。生粋の自由党派だった彼女の父は、迫害が強化され、脅迫が届くようになり、家族の声に負けてバランキーヤに移ってきた。……メルセデスは流行の音楽をとても上手に踊り、私が浴びせた甘い誘いをことごとく、いつもの手管を駆使して魔法の詭弁ですり抜けた。
▽531 父が悄然と出現。楽な生き方とかわいい女の子たちの楽園だったスクレは、政治的暴力の渦中に落ちていた。
大学卒業の可能性がないことを家族には隠していた。
一家がまたもや、全員の協力があってかろうじて生きのびられる貧困の底に落ちた。
▽538 カルタヘナへ。1階の4つの寝室と2つのトイレが両親と11人の子どものために……
▽540 叔父はカルタヘナ県警察事務総長に任命され、父や私にも……行政府の仕事がわりあてられた。
▽553 カルタヘナで貧困にさいなまれ、一人でバランキーヤにもどる。古巣の職場へ。
▽564
▽568 ラ・パス村 20日ほど前、警察の襲撃に遭い、無差別に殺しまくり15軒の家に火をつけた。……堅固検閲のせいで、私たちは真実を知らずにいたのである。集落の全員が、死者を悼んで二度と歌を歌っていないことを知った。
▽573 1953年、軍が権力を掌握。クーデターによる政権を適法化した憲法制定議会の決定を、国民は支持した。……自由党系のゲリラも武器を放棄する……司令官グアダルーペ・サルセードは、投降の4年後になって、ボゴタのどこかで警察に蜂の巣にされた。▽ ボゴタ「エル・エスペクタドール」へ 594 ギジェルモ・カーノは、のちにコロンビアの麻薬組織追及に力を注ぎ、1986年にメデジン・カルテルに暗殺された。
▽605 映画批評 当時は提灯持ち記事ばかりだったが、批判を含めた批評を展開した。映画関係者からは非難されたが、その後、映画批評は国内で定着することになった。
▽606 608 土砂災害などのルポ
▽613 インタビューという取材手法に疑念をもっている。インタビューで価値があると思うのは、私がこの世でいちばんいい職業の、その中の花形ジャンルとして高く評価しているルポルタージュの基盤をなす材料としてだ。〓
▽614 「戦争って、どの戦争のことだよ」「しらばっくれるなよ、ガボ」「あんた自身がしょっちゅう言ってるじゃないか、この国は独立以来ずっと戦争状態だって」
▽618 報道によって運動ができ、政治家の判断を左右する……ルポの影響力が強かった時代〓
▽622
▽628 「エル・エスペクタドール」の方針、この仕事の不変の材料は事実であり、事実以外の何ものでもない、という方針が、常時私たちに緊迫を強いた。
▽636
▽639 潜伏中の共産党幹部と接触
▽643 土地を追われた農民たちが朝鮮戦争へ。だが帰還すると軍から放り出され、ポケットに残ったものと言えば、戦場から休養のために連れて行かれた日本の基地の町で、今も彼らを待っているという日本人の恋人の写真だけだった。
彼らは帰国すると、犯罪記事ページに登場するようになった。「朝鮮で100人クロしてきたのだから、ボゴタで10人殺して何が悪いのか」と裁判官に尋ねた。……朝鮮戦争の帰還兵をひとり殺した、というのが自慢になったりした。
▽650 海軍の船の沈没事故を経験した兵士に3週間延々とインタビューをつづけた。
▽656 しだいに周囲に迫る命の危険。同僚が襲撃される。海軍から抗議と脅し。
▽662 遭難兵の物語以来、「コロンビアの外に出た方がよい」と忠告され、死の予告が新聞社に届くようになっていた。
▽663 それまで無市民状態だった。市民権証明書がないから、投票したこもない。身分証明書がわりにしていた「エル・エラルド」の記者証は、兵役を逃れるためうその生年月日が書かれていた。海外に出るためにはじめて手続きする。
▽666 飛行機で飛び立つところで終わる。2週間のつもりだったが3年間を海外で暮らすことになる。
メルセデスに手紙を書く。「もしこの手紙に1カ月以内に返事がなければ、僕はこのまま一生ヨーロッパで暮らします」。翌週、「ジュネーブのホテルにもどったとき、私は返信の手紙を見つけた」
(〓青春の日の終わり、旅立ち)
ノスタルジー
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