亜紀書房 20070306
10年ぶりの再読。
「俺になにができるって? ただの百姓なのに」「しかたない」……うちのめされ搾取された読み書きもできない被抑圧者には宿命論的なあきらめが蔓延している。これを「沈黙の文化」と著者は呼ぶ。日本の農山村を歩いても「さだめじゃ」というあきらめが沈殿している。個人主義にはしる若者の「どうせ」という言葉も同じ沈黙の文化である。
こうした「非人間化」された状況を打ち破る方法としてフレイレは「課題提起型教育」を提示する。
この教育は従来の「銀行型教育」とは対極をなしている。
銀行型は、世界はすでに存在し動かないものととらえ、不動の世界に人間を適応させようとする。したがって創造力は抑制されることになる。教育の手法は教師から生徒への知識のつめこみみという形をとり、反対話的になる。
一方の「課題提起型」は、「限界状況」を前に「どうせだめだ」とあきらめるのではなく、そうした世界から自分自身を一度引き離し、「世界」を対象化させる。批判的に「世界」を観察することで、なにが悪いのかどこをかえるべきかに気づかせ、「人間化」にむけて世界の変革を促す。世界を静止した存在とみるのではなく、変化しつつある現実とみるのだ。そこでは、教師は生徒とともに考え、ともにまなぶ存在であり、対話的なスタイルとなる。
動物は世界に埋没し順応するしかない。人間は世界を対象化しそれを変革することができる。抑圧者は被抑圧者に対して、世界は固定したものであり、順応するしかないと説明する。いわば「動物化=非人間化」をうながすのである。
フレイレの道は、伝統的左翼のように「歴史の法則」にたよるのではなく、単なる主観主義に陥るのでもない。客観性と主観との弁証法的止揚をはかる存在こそが人間である、という。この説明はサルトルらの実存主義に似ていて説得力がある。
だとしたら、構造主義との関係はどうなるのだろう。サルトルを論破したとされるレヴィストロースをもう一度読んでみたいと思った。
---------抜粋・メモ------------
▽被抑圧者は、自分自身であると同時に抑圧者でもある。抑圧者の意識を自分のものにしてしまっているからだ。命令に従うか、自分で選択するか。傍観者でいるか、行動者になるか。発言するか、それとも、創造と再創造の力を奪われて、世界を変革する力を奪われて沈黙しているか。・・・かれらの悲劇的ジレンマである。
〓自分のあり方は 沈黙してないか 創造の力を奪われてないか
▽自らの抑圧者を、ついで、自らの内側の意識を具体的に発見するまでは、かれらはつねに状況に対して宿命論的態度をとる。「俺に何ができるって。ただの百姓にすぎないというのに」・・・従順さを装った宿命論は、民衆の本質的な特性などではなく、歴史的社会学的状況の産物である。
▽被抑圧者は、抑圧者の生き方におさえがたい魅力を感じている。上流階級の著名な人間と対等でありたいと願う中産階級の被抑圧者にとりわけ顕著である。
自己卑下。抑圧者がかれらにくだす評価の内面化から生まれる。・・・しまいには本当に自分が無能力であると信じ込んでしまう。
▽現実に苦しめられている抑圧によってすでに非人間化されているときに、かれらを解放する過程で非人間化の方法が用いられてはならない(★官僚制と押しつけの宣伝への批判)。解放のために闘わなければならないという非抑圧者の確信は、革命的指導によって授けられる贈り物ではなく、被抑圧者自身の意識化の成果である。
▽(指導者は)被抑圧者のために、ではなく、かれらとともに、でなければならない。
▽銀行型教育と課題提起教育
銀行型:人間は世界や他者とともに存在するのではなく、たんに世界のなかにあるにすぎない。再創造者ではなく、傍観者にすぎない。・・・
現実にかかわる思考、世界に立ち向かう行動によって生み出される思想。だとしたら、教師に対する生徒の従属は不可能。
銀行型は、人間を客体としてとらえるが故に、「生命への愛」の発展をうながすことができず、反対の「死せるものへの愛」(ネクロフィリー)を生み出す。ここでは、経験より記憶、生きることより所有することが重要なのである。
意識を機械的で静止した、自然主義的な、局限されたものとみることによって、生徒を受け入れた衣装に変えてしまう。人間を世界に適応させ、人間の創造力を抑制しようとこころみる。・・・解放のために努力していると自分では考えながらも、実際にはこの阻害の道具を利用してしまう革命家も。
(★銀行型にもどる難民の村)
▽「課題提起教育」 主体的に課題を選び取り設定して、現実世界の変革と人間化に向かっていく教育。世界のなかに、世界とともにあり、そこで自分自身を発見する方法を、批判的に知覚する能力を発展させる。世界を静止した現実ではなく、変化しつつある現実とみるようになる。
(不変を強調すると反動的に。:社会学と構造主義の違い)
▽限界状況 克服しがたい障害として現れても、批判的認識が行動のなかに体現されるとき、希望と自信の雰囲気が広がり、限界状況を克服するこころみに向かわせる。
動物の世界では、限界行為はおこなえない。世界を変革するための、世界からの分離とその対象化ができないからだ。自分自身と世界とを区別することがない。歴史的限界状況によってではなく、環境によって全面的に限界づけられている。動物の役割は、環境に順応することである。
・・・自分自身から分離したものとしての生産物を創造できない動物。世界にたいする行動をとおして文化と歴史の領域を創造する人間。人間だけが実践的存在だ。
▽探求者は、地域をひとつの総体としてとらえ、部分的局面の分析によって地域の分割を試みる。一見重要でないと思われる項目を含め、民衆の話し方、生活様式、仕事におけるふるまいかたを書きとめる。畑仕事、地方団体の集まり、余暇、家庭・・・いかなる活動も見逃してはならない。(★)・・・探求サークルは20名を上限とするべき。地域の人口の1割が参加しうるのに必要な数のサークルがなければならない。
酔っぱらいの写った場面を見て、「かれは誠実な労働者でもあり、酒浸りでもある」研究者がアルコール中毒についてのアンケートを配布したら、このような答えは出てこなかったろう。酒を飲むことを否定したかもしれない。
▽動物は世界のなかに埋没している。人間は、世界から脱却し、それを対象化し、労働をとおして世界を理解し、変革することができる。人間の活動とは理論と実践であり、省察と行動にほかならない。
▽抑圧者は、世界を課題として提示すること排除し、固定した実在、そこに順応しなければならないものとして世界を説明する。現状維持のために不可欠な神話をつくりだす。・・・抑圧的秩序を自由な社会とする神話。・・・勤勉であればだれでも企業家になれるという神話。大学進学は一握りにすぎないのに、普遍的な教育権という神話。・・・
▽近代化は、衛星社会の一部の層には影響をあたえるかもしれないが、押しつけられたものであるから、本当の利益を得るのは中心社会にほかならない。ただ近代化されるだけで発展のない社会は、わずかな決定権を行使するとしても、外部の国に依存し続けるだろう。(★補助金づけ)ある社会が発展しているかどうかを判断するには、国民総所得などの指標などに頼ってはならない。基本的な基準は、社会が自律的存在であるかどうかということである。そもなければ、その他の基準は、発展ではなく近代化を表示する。
▽自分が信じられず、踏みにじられ、希望を失った民衆が、自分自身の解放を求めることはまずない。だからこそ、抑圧者が民衆につめこんだ神話を、課題として提起する必要があるのだ。
▽社会構造は、存続するためには変化しなければならない。変化するとは「持続」を表現する。★レヴィストロースとの相違?
▽成人識字教育 民衆との対話のなかえ、抑圧され搾取され、文字を奪われた人々を特徴づける文化が「沈黙の文化」であることを発見し、それを克服する道を探し始めた。
ーー沈黙の文化それじたいの胎内から生み出される教育理論、いまだ口ごもっている声の表現手段のひとつとなりうるような理論を構築しはじめた。
▽文化サークル運動の学習方法 10枚の絵によるコード表示を媒介に。参加者たちは、自分たちがなぜ今まで文字を知らずにいたのか、知ろうとしなかったのかを批判的に考察しながら学習への意欲を高めていく。民衆がおかれた状況そのものを表現する、民衆の言語を、識字学習の対象とする。・・・既成の識字テキストでは排除されてきた「現実世界の意識化」が、文字の獲得と同時におこなわれる。
真の識字学習は、疎遠な言葉を暗記することからではなく、学習者が自らをとりまく具体的な現実を、つまり世界を「命名」することから始まらなければならない。文字の獲得と同時に、学習者が、言葉を話すことの意味を理解し、世界を変革するために行動を開始しなければならない。
▽釜ケ崎地域問題研究会 日本でも実践があった。