平凡社ライブラリー 1070221
「知識人」に求められる資質としてサイードは、権力と対峙すること、専門外のことでも大事な問題は積極的に発言すること……などをあげる。
イタリアの哲学者ヴィーコは、権威に威圧されないためには、社会的現実の起源にさかのぼって理解すればよいと書いているという。どんな王侯貴族でもその起源にさかのぼればつつましいものにすぎないと見えてくるからだ。この視点は、亡命者知識人につうじる。亡命者は権威を権威と思わず、諧謔的で懐疑的になるからだ。
「専門」主義への違和感は、モラルの問題をわきにおいて「専門」だけにこだわるテクノクラートへの批判である。それを克服する難しさを承知したうえで、知識人が相対的な独立を維持するにはアマチュアの姿勢に徹することだと筆者は主張する。
知識人の思考習慣のなかでももっとも非難すべきは、見ざる聞かざる的な態度に逃げこむことだという。
パレスチナ問題を例にあげ、「本来なら真実を知り、また真実に奉仕する立場にある多くの人々が発言を自己規制したり、見てみぬふりや、沈黙にはしる」と批判する。この批判、日本の戦争責任の問題にもぴったりあてはまる。
マスコミの巨大化にともなう問題点の指摘は日本にもつうじる。
合衆国では、新聞社の規模が大きくなるほど、権威主義的になり、大きな共同体との一体化を強調しようとするという。湾岸戦争などではナショナルな「われわれ」の存在が自明視された。
英語では社説の主語は一人称の「われわれ」をつかうのが慣例だという。なるほど、と思った。いつからか(〓いつから? これもグローバルスタンダード?)日本の新聞の社説も「わたしたち」が主語になっている。薄気味悪いとは思ったが、これは英語の新聞の物真似だったのだ。
組織が大きくなるほど、多数派と同調し一体化しようとする。そこには販売戦略もあるのだろう。その結果、社説の「われわれ」は多数派の意見だけを代弁し、少数派が意見を表明する機会は大幅に減っていく。組織内部では当然、大勢に順応しない「個」はつぶされる。世論の大勢が戦争を支持するようになれば、新聞の社説の「わたしたち」も、ナショナルな国民と一体化してしまうのだろう。
「いつかきた道」は、もう目の前まできているのだ。
--------抜粋・メモ---------
▽マスコミや大企業などの社会機構にあえて所属しないでいると、多くの点で不利な立場においこまれ、……犯罪の目撃証人という役割すら時としてなしえぬことになる。
▽オーウェル「政治と英語」 「政治言語は、嘘をまことしゃかな真実にみせかけ、殺人をまっとうなものに変え、意味空疎な風聞にも、確固たる実在性のよそおいをあたえる」・・・合衆国では、新聞社の規模と力が大きくなればなるほど、論調は権威主義的になり、特定のプロのライターと限られた購読層からなる集団に支えられているという現実を表にださず、大きな共同体との一体化を強調しようとする。
(英語では、新聞などの社説で主語に一人称の「われわれ」を使うのが慣例)
湾岸戦争のとき、公的な議論の場では、このナショナルな「われわれ」の存在が当然のごとく前提とされていた。「われわれはいつ地上戦に突入するか」というぐあいに。
▽イスラムの原理主義に関する西側での議論が、警戒心をあおるだけの粗雑な議論であるのは、ユダヤの原理主義やキリスト教の原理主義と比較されていないからである。どちらの原理主義も、イスラム原理主義におとらず力があり、また危険である。
▽イタリアの哲学者ヴィーコによれば、社会的現実を理解する正しい方法は、それを起源の時点から発生したものとして理解すること。社会的現実の起源は、たいていきわめてつつましやかな状況にゆきつく。・・・荘厳きわまりない権力を、そのはじまりにおきかえてみる。そうすれば、きらびやかな権勢に彩られた人物なり制度なりに畏怖することもない。権力者が、しばしば沈黙と服従を強制できるのは、その国で生まれ育った者に対してだ。荘厳な権力を常日頃眼にするだけで、権力のよってきたる、つつましやかな人間的起源をみることがないからである。いっぽうの亡命的知識人は、必然的に諧謔的で懐疑的で遊技的ですらある。
▽知識人が、亡命者と同じように、周辺的存在でありつづけ飼い慣らされないでいるということは、知識人が君主よりも旅人の声に鋭敏に耳を傾けることであり・・・
▽知識人が人畜無害の愛想のよい専門家になりさがることはさけるべきだが、・・・現実の場において議論を、いや、できるなら論争を惹起すべきである。完全な沈黙か全面闘争だけが知識人のありかたではない。
▽知識人の独創性と意志を脅かす4つの圧力。
1) 専門分化:一般的な教養を犠牲にして、人を特定の権威なり規範的な考え方だけに迎合させることに。専門知識をたっぷりしこまれ、従順な存在となり、領袖と呼ばれる学者たちの顔色をうかがい・・・あなた自身の感動とか発見の感覚はおしころされてしまう。自発性の喪失がおこり、他人から命じられることしかしなくなる。
2)専門主義 プロフェッショナリズム
政府や大企業につかえる場合、モラルの感覚をひとまず脇におくようにという誘惑の声、もっぱら専門分野の枠だけで考えるようにし、意見統一を優先させ、懐疑を棚上げせよという誘惑の声。これにうちかつのは難しい。だれも独立独歩ではやっていけない 知識人が相対的な独立を維持するには、アマチュアの姿勢に徹すること。
▽トクヴィルは、アメリカの民主制を正しく評価しつつ、インディアンや黒人奴隷の差別待遇を批判したが、フランス領アルジェリアでは、残虐な植民地主義にお墨付きを与えた。・・・国際行動における普遍的規範という考えかたが、ヨーロッパ側が他民族を支配し自由に表象できる権利をもつという考え方にすりかえられた時代だった。そのため、非白人系民族はとるにたらぬ二次的存在とみられていた。
▽知識人の思考習慣のなかでももっとも非難すべきは、見ざる聞かざる的な態度に逃げこむことである。パレスチナ問題において、わたしはこうした思考習慣にはいやというほどお目にかかっている。本来なら真実を知り、また真実に奉仕する立場にある多くの人々が発言を自己規制したり、みてみぬふりや、沈黙にはしる。(日本の場合戦争責任問題〓)
▽知識人にとって、リスクをひきうけることが、真実を暴露することが、主義や原則に忠実であることが、論争において硬直化しないことが、世俗のさまざまな運動に加担することが、とにかく重要であるということだ。
▽石油産出国の政府が、大学教員や作家や芸術家、著名人などに、こっそりと狡猾にくわえている政治的圧力。湾岸危機までは、進歩的知識人は、反帝国主義と独立促進の精神と、非同盟運動をまもる意気込みで、アラブ主義を無批判に支持していた。ところが、イラクのクウェート占領直後から、知識人の姿勢が劇的に転換する。かつてのアラブ民族主義者たちが、突如として、サウジアラビアとクウェート賛歌をとなえはじめる。・・・ほんの1年か2年前には、アラブ諸国は、イラク賛美の大合唱だった。アラブ主義の宿敵「ペルシャ人」と戦っていたから。ところが、サウジがブッシュににじり寄ると、前言をひるがえしてしまう。アラブ民族主義の否定が公式見解となる。・・・機械的で無思考な反アメリカ主義は、号令一下、親アメリカ主義に。サウジの神格化も。