■稲葉峯雄の遺したもの<稲葉峯雄>創風社出版 20110203
何度も顔を突き合わせ、似た話は何度も聞いていたはずなのに、改めて筆者の選び取る言葉の重みに圧倒される。なぜこれだけの言葉を紡ぎ出すことができるのか。
本を読んで重みのある言葉に出会い、人生の糧にするには、それを感じ取る「自分」がなければならない。そういう「自分」は、草の根の人々との無数の出会いと思索の間の往復運動のなかでしか育まれない。
老人ホームでは、寝たきりの老人に寄り添い、言葉を引き出し、老人の言葉による俳句をひねりだしてしまう。
「老人に学ぶ」と特別養護老人ホームの施設長だった稲葉は言う。珠玉のような老人の言葉を引き出し、その思いにこたえることで真の福祉をつくりだそうと努力してきた。「老人ではなく人間として扱われたい」という思いを引き出すことで、個人の自己決定を大事にする処遇が生まれた。「敬老とは老人をどうするかではない。老人がどう生きるかである。そのことにどうかかわるかである」という言葉は、幸福を追求する動的な主体としての老人を支える大切さを説いている。
現場の老人に学ぶためには、その気持をかんじとる感性をみがいていなければならない。人間らしい感性をみがくには「もう一人の自分とのたたかい」が不可欠である。
「過ぎ去っていく時間と空間の中で、私たちはどれほど個としての自分を見つめているか、あるいは個としての人間を生きているか」と自問する稲葉は、「個」としての自分を生きるため、「役人」としての自分とたたかいつづけた。人一倍孤独をかんじて「個」を貫く生き方をしてきたからこそ、他人が発する「個」としての言葉を大切にしてきた。
だから稲葉にとっての農協ヘルパー講座は、単なる介護技術習得の場ではない。「古い介護の足かせから、新しい人間介護をめざす」女性たちの「たたかい」なのである。
教師になった長男との往復書簡では、「なぜ教師をえらんだのか……。その精神的軌跡をあきらかにすることは、まちがいなく、どんな教師になるのか、ということのかかわりあいにおいて、重要なことなのではないだろうか」と問いかける。
なぜこの仕事をするのか、と絶えず原点を問うことが大事だと私も今になって感じている。その原点こそが、会社員としての自分と「個」としての自分の接点であるはずだからだ。
まだまだ学ぶべきことはあったのに……、と思わせられた。合掌。
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▽8 脊椎に銃弾の破片を残しながら、……酔うと笑顔で漂うような沖縄民謡の踊りが地域の人びとの手拍子に溶け合い、地区診断調査の打ち上げとなりました。(山根洋右・高知女子大学長)
▽18 農村や離島で住民とともに生活と健康を守るたたかいに明けくれていた。その運動の中で涙をぬぐいながら心にきざむようにして読んだ本である。「自分たちで生命を守った村」。深沢村政がその本質において住民の教育運動であったこと、地区組織の根がさらに深く生きつづけていること。
▽21 老人ホームの「ガリラヤ荘だより」という生活記録。老人たちの生活のなかの言葉を聞き書き。巻頭の「朝の言葉」。文集を老婆の本籍の岩手に送ったことで何十年かぶりの音信が生まれる。言葉の力。
▽23 弘法大使の言葉「境は心にしたがって変わる。心けがるるときは境にごる。心は境をおって移る。境しずかなるときは、即ち心ほがらかなり。心境冥会して道徳はるかに存す」
境とは自然、環境、社会のことだろう。
人間の作ったきまりや体制の中でつかれた果てたとき、背信や権力で大きな痛手をうけたときなど、目をつぶってじっとしているとこの言葉が浮かんでくる。
大師の言われる「境」の意味の中に私は自分の読書をおく。仕事のための読書ではまだ「境」にはならない。人間として、生活としての読書であってはじめて環境と言える。万巻の書を読む意味でもない。聖語の1句をくりかえし読むことの読書を私は愛する。
▽24 西田幾太郎の「善の研究」 この難解な哲学書が、吸い取り紙のインクのように心に吸収される。ふとこれは80人のホームの老人の知恵がこんな読書をさせてくれているのだと気づいた。(自分が変わる。出会いで変わる。カントの「色眼鏡」の思想。カントもまたわかるようになる)
私にとっての読書とは、そのときの自分をよみ、自分とともに生きているものを知り、その世界をつくり出してゆく力であった。
▽28 「老人とはなにか」。私たちは借り物ではなく、各自で答えをもたなければならない。……「仰臥漫録」のなかに、子規は病人にとってどんな世話よりも同情がほしいと言っている。この同情とは、行為よりさきにまず同じ心になるということであった。同情のない者に同情のわかるはずもないとも言っている。ホームのおばあちゃんの生は子規と同じ心を教えてくれる。
▽37 「ヨハネによる福音書」「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。こどもが最初にきく人間の言葉は母の言葉だと言われる。その意味と「はじめに言葉があった」という聖書の言葉を、私はもう長い間ただそのことだけ自分の心のささえにして生きて来たような気がする。
(構造主義や実存主義にもつながる。ホントの自分が先にあるのではなく、言葉を発することで自分が形成される。神もまたそう。だからこそ神は言葉と同時に生成される)
▽38 農健懇 年末、「1979年と私」をテーマに出席者が自分のあしあとを紹介する。
▽46 久万の和田保健婦。46歳で病死。……私はやっといま、和田さんが死んでいないことを知った。
▽48 寝たきりの老人とともに俳句をつくる。「体は動かんでも心の初旅をしましょうや。心にうかぶ花やたべものや、人や町のことを話しきかせて下さい。そのなかから短い言葉を一緒に拾い出しましょうや」「今月は初鏡とやきいもなんだけど、Nさんの鏡はどこにおいとるのかなぁ」……(心によりそって言葉をひきだす)
▽50 1980年 今年から1月1冊のノートをのこそうと思いついた。B5判60ページ。どれほど人の言葉を書きとめられるか、自分の考えを文字にしておくことが出来るか。
そのノートの筆跡はまさに1カ月の自己史であり、……記録のもつ意味をあらためて教えられた。
▽53 衰弱して目を開けるのもやっとの老人が「ツバキさん」の話をしたらコトバを発した。
▽54 過ぎ去っていく時間と空間の中で、私たちはどれほど「個」としての自分を見つめているか、あるいは「個」としての人間を生きているか。……個の思想とはもう一つの個と出会い、かかわり以外には生まれないことを教えられる。その個によってつくられてゆく地域と組織に、私たちは直接、行動をもって参加してゆきたいものである。
▽58 宇和島の「草の芽会」 会員のうちを会場にして集まった。唐紙ごしに子供、夫、姑のいるグループ会だった。小さな集まりは15年あまり続いた。茶の間に母親の本棚ができ、高校生になった子供たちがその本を手にするようになった。
▽70 91年にはヘルパーの質の問題、勤務や待遇の問題を指摘。
▽74 92年 「ホームヘルパー白書」をぜひつくってほしい。行政の責任である。ヘルパー30年の歴史とあゆみは、在宅福祉の実態と課題をあきらかにするはずである。ヘルパーの「質と量」福祉のマンパワーの実現は、白書をテコとしてはじめて住民の課題ともなるだろう。(行政にも「書かせる」)
▽78 老人保健福祉計画 計画とは実態調査でえある。どんな視点と方法で実態が把握されているかである。計画はその実態の中にあることを忘れてはならない。〓(実際はコンサル丸投げが多かった。計画そのものより実態調査=地区診断にこそ意味がある)
▽88 三好明夫さん「第2権現荘」
▽92 地域福祉とは権力や指導監督といった関係を根本から排除した、住民と行政の一体的な福祉であり、民主主義の原理の上に生まれるものである。(福祉とは民主主義という視点〓)
やさしさの町への第一歩をどこから踏み出すか。それぞれの立場から、ひとりの障害者や老人と人間同士の友達になることであろう。チャンスは問題意識のなかにある。
▽99 北欧の福祉に学ぶこともよいことだが、それ以上に学ばねばならないのは足元の実態である。老人の自立や生きがいは独居老人が最高の教師である。
▽100 明浜のヘルパー養成講座 呼びかけ人は無茶々園の母ちゃんたち。
▽108 敬老とは老人をどうするかではない。老人がどう生きるかである。そのことにどうかかわるかである。
▽111 松田道雄医師は88歳の感慨のなかに「介護保険も老人医療も、いまや憲法25条ではいけない。13条の「……幸福の追求ができる権利」という立場にたって取り組まねばならない」と言っている。
敬愛園の大泉勝園長は、15年間憲法13条の特養ホームを、努力した記録とともに……
▽113 永和先生の「世界」論文をめぐっての問題。中山町のなかやま幸梅園。松浦千枝子さんの歩み。昭和47年の農健懇懇談会で「中山町小池地区診断報告」。……
▽120 老人が個人として尊重される介護内容の実践。人間としての家族の新しい価値観とあり方の創造。その老人と家族をつつむ地域社会の住民福祉の実現。
▽129 介護保険-地縁家族の構築を ヘルパー養成講座の波は、古い介護の足かせから、新しい人間介護をめざす彼女たちのたたかいの姿なのである。〓
▽137 「思いやりも型にはめたらなくなることがよくわかった」「村の偉い人がきめればついて行くだけのこれまでの行政では私たちも無責任です。それでは立派なホームができても姥捨て山になることもよくわかった」
▽147 父と子の通信 長い年月がたっても、退職したのちも草の芽会に参加しつづける先生たちは、座布団にすわらなかった人たちであった。……学級通信は、子供にも母親にも編集や作品に参加してもらうことだ。一字でもよい。同じ方向にむかって、一緒にあるきながら語りあったこと、母親たちやこどもたちからたずねられたことにより多くのスペースをさくべきである。
「なぜ教師をえらんだのか」。その精神的軌跡をあきらかにすることは、まちがいなく「どんな教師になるのか」ということのかかわりあいにおいて、重要なことなのではないだろうか〓(なぜ記者になったの、という原点を問う)。
▽152 宇和島では、春先の菜の花が美しいと思ったり、おもいおもいの想像の羽根をのばして物語を創作したり……。ぼくたちの見た「子ども会」の親と子は、「行事」としての活動があるだけなのです。……子どもたちが、親に手を引かれ、行事があるから行くという意識なのにおどろかされました。子どもの夢をひろげ、とびはねさせ、創造するものではなく、「行事」としての活動があるだけなのです。(まさにその時代のコドモだった〓)
▽158 職を失ったり、住む家もないときもあった。その頃の数年に私たちが流れあるいた町は5つ。住んだ借家が12カ所であったのをみてもその流転の激しさがうかがい知れると思う。つぎつぎとかわる家主に追っかけられたり……昭和30年、おまえが5歳のとき。お前たちは仕事から帰る父親を2人で必死にうばいあってよくけんかしたものだった。……テレビのない食卓では、いつも食事のあと4人で宮澤賢治やキンダーブックや新美南吉をよんだ。……保健所衛生係。戦後10年の闇夜に手さぐりのような社会教育の経験だけがそのときの武器であった〓。……保健所から部落へ出張してゆくのではなく、部落から保健所になにかをもちかえって仕事をするといったあり方を……。伝染病の話を部落でするのではない。部落が伝染病に苦しんだ経験を保健所にもちかえって専門の技師や保健婦や医師たちに考えてもらう。(〓住民の側に立つ公務員のありかた)
……住民の健康破壊の最大の敵は権力と差別。「ねずみと闘う人びと」……といったスライドは、住民の側からいのちを守る訴えであり、これまでの医療や衛生行政が権力に奉仕して住民の健康を見失ったり放棄してきた記録でもあった。
▽162 100人の人に集まってもらうためには、その組織の中の10人に直接手紙をかいた。それで100人の人間が1つの目標のために集まる集会が生まれた。それは私なりの社会科学の法則であり人間学であった。
▽166 教師が権威を守るために自ら枠をつくって、子どもにもそれを要求するような関係のなかで、教師自身の解放も子どもたちの解放もありえないと思うのです。教師であるが故に無意識に持たされてしまう権威を一つ一つ切りはがしていかなければならないと考えています。
▽169 子ども同士の差別を目にしたときの対応……感情をむきだしにすること。
▽173 私はどんな仕事でおそくなっても枕元や机の上の1枚の日記を読んでから食事にしたものだ。その1枚がないときは翌朝の私はきわめて不機嫌であった。学校の通信簿には目もくれなかった私が日記のことになると目の色をかえたとよく母ちゃんがいっていた。
▽178 子どもを評価することへの悩み、ジレンマ。子どもたちからの評価。相互評価。相互批判も教育の重要な内容であるはずです。
▽187 1人1人がバラバラであっては、人間の真の意味なり健康は生まれないと思います。人が人間として生まれるときの原点を、私は組集会やグループ活動に求めて、そこから歩きはじめる、目的や課題と取り組んできたように思います。……道草をして小さな集まりに立ち寄るのです。あるいは、私の立ち止まったところに小さな集まりが出来たのです。
……草の根の地区組織というのは、このような人間の出会いと記録を育んでゆく小さな集まりのことであり……
▽189 助言者の役割 言葉を生みだすために助けの言葉をさしのべる人。話しあいの輪のメンバーのひとりになりながら、雑談の中からきらきら光る意見を見つけだしたり黙っている人の気持ちを代弁したり、発言の糸口を見つけ出してあげたり、ひとりだけ長談義する人の話を適当に区切ってくれる人。
1人1人の心、人間としての主権が、大切にされてこそ、その組織が生きているという証になる。
助言者の言葉や知識が「ためになった」「感心した」と思われたら、その会は不成功。「ためになった」ことは大方、家に帰りつくまでに忘れ去られる。反対に、助言者の言葉は何も残らないが、仲間の言葉や話しあいの中身が、しみじみと思い出されるようなときは成功。そこには内なる実践のエネルギーが燃えはじめているから。
▽193 コミュニティアプローチ、フィールドワーク。その可能性に答えようとしたのが地区診断。……テーマや対策よりもその前に地区なり住民の現実の生活がある。それを知ることだ。補助金やセクトではなく、組集会から出発するということ〓。……運動の記録が地区の歴史をつくりつづけてゆく。
▽196 直接の診断は1週間だが、報告書づくりは平均6カ月かけている。記録は紙の上のことではなくその活動なり事業を参加者に返す仕事。記録が個人と全体の共有になってゆくプロセスが地区組織活動〓。「記録なくして地区組織なし」
▽198 記録は、テーマと主体をあきらかにする。5w1hは大事だが、いずれも、まずどこに立ってそれらの答えが出されてゆくかということが大事なのです。事実の上に「私はこう思う」というすなおな見方と考え方の表白。メモを糸口にして、その主体となってりうものへの限りなき愛情と、テーマに対する耕しです。それが結果として、組織や運動の原動力となる記録を生みだしてゆくのです。保健婦さんのノートや記録に、住民にかえすメモや報告書がなければ、それは真の意味の健康を守る運動とは言えない。
「報告するひまがない」「文章が苦手だからまとめが書けない」というのは結局愛することのたりなさ、人間関係がないためにそこに言葉が生まれない証拠。
▽205 和田保健婦 病魔とたたかい、死の直前まで保健婦活動をつづけた。保健婦になったとき3千人に1人だった。10年後には1万2千人に1人になった。昭和34年から44年にかけて。
▽209 保健婦の訪問は単なる事後指導ではいけない。ケース記録によるオルガナイザーの役割。ケースをとらえ、ケース自身が仲間をつくり、健康破壊因子と闘っていける力をもつようにすること。ケースを通して地区を知る。その知り得た地区のニードのなかでケースを知り直してゆくという方法。
▽218 老人ホームの全国会議でリハビリの言葉が初めて登場するのは昭和38年。……
▽220 老人ホームの悪戦苦闘 離床運動がリハビリの目玉だった。1日1回、本人の意思にかかわらず、ベッドから室外に出す。重労働と苦痛とあきらめ。……寝たきりを脱出に対する努力だった。まず老人から学ぶことから。老人の求めている行動、心理を……体当たりで老人の心に接近してゆく以外になかった。処遇日誌、ケース記録……を苦心して書き残し、それに基づく研究会、先進ホームの視察……
▽222 老人ホームを学校にしたこの教育実践の中から、苦痛の離床運動は消えていた。ほこりをかぶっていた訓練機材が使われ、車いすは40台に倍増した。4年目以降はリハビリの道を歩みはじまる。合同リハビリがホームと地域を結ぶかすがいに。
▽223 「ここにおいてもらうためには、寝たきりにならなければならない」と思い込むTさんはみるみる生気をなくす。「寝たきりにして世話をする」多くのケースをつくっていることに気づいた。そこで、竹箒をつくる仕事をしてもらい、在宅の人との合同リハビリに参加してもらい……。亡くなる2日前「百歳のおじいの箒を園長さんがつこうて下さるか、そしたら、もう1本つくらにゃいけんのお」
▽228 自分ともう1人の自分がある。1人の自分は、親からもらった裸のままの自分であり、人間として生きようとする自分。もう1人は肩書きとか資格とか、地位や権利を含めた、他から与えられた自分。
「もう1人の自分とのたたかい」と口癖のように言ってきた。役人という自分とのたたかい、いつのまにか先生と言われる自分とのたたかいがその中身である。勝っても負けてもそのたたかいを続けてきたおかげで、今の私らしく人間として生きている存在があると思う。(会社員としての自分〓)
▽231 「園長さんよ、わしら老人である前に人間でありたい」と言い、自らの名をしっかり示す児島さんの行為は、やがて集団介護の在り方のなかに、個人の自己決定や自由を守っていく処遇の努力、環境づくりへ変わっていった。
▽235 ミニデイのレクリエーション。ゲームをするにも、老人の歴史と未来が生きていることを忘れてはいけない。……ゲームの終わりには、必ずそのことがどんなレクリエーションになったのか、参加者ひとりひとりの声と、表情や雰囲気の変化でたしかめることです。そのひとことやほほえみの記録なしにミニデイのゲームは福祉にはならない。
□解説
青年団運動。終生仲間との友情は変わらなかった。昭和49年に白血病で倒れた三好則保のために献血者を求めて走りまわった。酒を酌み交わし、政治を語り、人間を愛したのである。
▽242 「宇和島の空襲を記録する会」の水野政子も草の芽の読書会に参加。地区診断については広見町誌にも掲載。
▽244 佐久病院の若月医師とは、家族計画で知りあった。
▽245 峯雄のかかわる会は、まず各参加者の近況報告からはじまる。一人一人の生活や存在、言葉を大切にすることへの集団の意思表明なのである。何事かをしゃべることで参加の喜びが生まれ、つながりが発見される。
県庁勤務になったあとも、土のにおいを忘れないために、農協婦人部や生活指導員たちと草の根の地区診断に取り組み「健康への道」「あしおと」などの機関誌を生んだ。(自分との闘い)
▽247 ホームの入所者の言葉から、またその表情を汲み取るところからその実践は始まった。……1人のもの言わぬ認知症の高齢者を理解したいという職員の願いから始まった実践が、島に住む家族、地域の訪問調査に発展。やがて施設職員が知らない老人の生活歴が姿を現す。その人を知るには、その人が暮らした場所にいかなければ何もわからない。
▽248 職員が老人の話を聞き、書き取る作業は、綴り方教室のように生活を文章化してそこから学ぶという方法論をもっている。……岩手の敬愛園の機関紙にも、その老人の言葉の聞き書きが巻頭を飾る。峯雄はその機関紙をみるたび、老人主体の実践はここに継承されていると、高く評価したものである。
▽249 四国老人福祉学会。と、ソーシャルワークが結びつき、1990年の10回大会が開催された久万町で、地元との人びととの連携を通して、その地での老人ホーム建設運動に結びついた〓。
面河で「うちは施設があるから大丈夫」と言った村長。そんなものかと思ったオレ。
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