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500年後のコロンブス <エドウィー・プレネル、飛幡祐規訳>

■500年後のコロンブス <エドウィー・プレネル、飛幡祐規訳> 晶文社 2011/01/19

 コロンブスの米大陸「発見」500年にあたる1992年に、ルモンド記者がコロンブスの4回にわたる航海の軌跡をたどったルポ。
 イタリアに生まれ、ユダヤ人だったとも改宗したユダヤ教徒だったともいわれるコロンブスの育ちをたどり、スペイン女王から金をださせた希代の詐欺師としての姿から、先住民族の人や性質をほめちぎりながらも、後の虐殺の種子をまくことになる二面性までも描く。侵略の先兵ではあるが、傑出した冒険家でもある。
 コロンブスがたどった国の「今」も丁寧にルポする。まっさきに奴隷を解放し独立国となったハイチの悲惨な状況、後に亡命を余儀なくされるアリスティドの希望。ハイチ人を敵視し差別するドミニカでは500周年を祝う。
 パナマは、すべての悪を許す町であり、簡単に偽名で会社設立登記をすることができることを実践して示す。ニカラグアやキューバを支持したと言われていたトリホスやノリエガは、一方でCIAと手を結んでいた。善悪や左右ではなく、なんでもあり、の国だった。
 米国企業が支配するコスタリカのバナナプランテーションでは、人びとは個々バラバラに分断されている。そういうところでは、カトリックは信者のコミュニティをつくることは難しいという。先住民族コミュニティのほうがカトリックは布教しやすい、という。個々バラバラの人間に向いているのは、米国系のプロテスタントだった。
 サンディニスタが敗れたニカラグアの現状は、サンディニスタを批判する元サンディニスタの視点から描く。
 ホンジュラスは、軍が実権をにぎり、反体制派を殺していく「民主国家」であった。そんな姿もしっかり描く。学生だった僕とは観察力が段違いなのはあたりまえのことだろう。
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▽40 
▽59
▽69 ジェノバからポルトガル、さらにスペインへ。ユダヤ系か。立場を使い分けた狡猾な男。
▽98 奴隷売買を可能にしたのは、アフリカ自身の奴隷制の伝統と奴隷商人だった。商業的交換がなければ三角貿易はなりたたなかった。奴隷のかわりに大量に鉄砲が導入され、地元の権力が強固になった。海岸沿いの国家は、奴隷狩りの専門家になることによって、主導権を確立した。……ヨーロッパの列強は、一方で、近い将来植民地の奴隷制度を廃止するとうたい、現地の伝統的指導者たちと同盟するために容認しつづけた。
(ヨーロッパだけが加害者なのではない。加害を容易にした権力構造があった。)
▽107 
▽124 キューバ カストロと一緒にゲリラ闘争をたたかったアントニオは銃殺された。人望の厚かったアルナルド・オチョアも銃殺。収賄で見せしめの死刑。……密売は、国家のために外国通貨の入手手段としておこなわれていたのに……
▽128 密売に目をつぶっていた権力の清潔なイメージを守るためにいけにえにされたのでは。
▽131 反政府的な映画を党員がつくり、しかし4日間しか上映されない。
▽132 戦友カストロを批判するようになったレジス・ドブレ
▽141 コロンブスはハイチのある島をイスパニョーラと名づけた。以後20年間、スペインの植民地の中心に。1494年に300万人以上だった人口が1508年には7万人に。
▽143 ……ハイチはアメリカで第二の独立国。しかも奴隷達が島をインディアン名にもどした。先住民に敬意を表した。
▽145 独立したとき、住民の半分はアフリカで生まれた者だった。……1825年、ふたたびフランスの植民地にされることを恐れたハイチ指導者たちは、天文学的賠償金を払うことを承諾する。
▽161 1542年の人口は200人という説。1971年にアメリカ人が計算しなおし、1492年には7-800万人、96年は370万人、1510年は6万5800人、18年には1万5600人、40年は200人。
 メキシコでも同様。1518年に2520万人、1548年に740万人、1608年には100万人あまり。
 はしか、天然痘、インフルエンザ、しょうこう熱など、アメリカに存在しなかった伝染病が大きな原因。
▽168 ラス・カサス
▽172 サントドミンゴの大司教。ロペス・ロドリゲス。
▽176 コロンブスとその仲間は追放されたユダヤ教徒だったのでは。
▽180 サント・ドミンゴ。巨大な十字架。コロンブスの灯台は、500周年を祝うためにつくられた。
▽183 184 ハイチ人をきらうドミニカ人。「隣国から来る移民が、森林を荒らし、彼らの国のように岩しかない砂漠にしてしまう」と非難。
▽186 19世紀、島を支配していたのはハイチだった。今世紀のはじねにドミニカをアメリカが8年間占領したのちに、力関係が逆転。ドミニカ共和国は砂糖のプランテーションと工事現場でハイチ人を雇う。
▽214 
▽216 カリブ族最後のコミュニティー(ドミニカ・ロゾーちかく)3000人 1903年、東海岸のバタカ、サリビア、シネクに自治区がみとめられた。
▽220 カリブ族のカリバリズム
▽224 オリノコ川からのカリブ族。人食儀礼を保っていた。……
▽250 ヤノマミインディアン。……彼らの現実とは、はびこる伝染病とブラジルから黄金をさがしにくるガリンペイロと、合衆国からの布教師たちだ……。ファンダメンタリスト教会のニュー・トライブ・ミッション。「きみたちの神はみな悪魔だから不幸ばかり起こるのだと説教する」
 オリノコ川の源には楽園があるはず、とコロンブスは考えた。エデンの園。
▽258 パナマ フィクションとしての法律。簡単に会社を登記できる。登記所では無料で会社の証書を調べられるが、名義貸しばかり。
▽269 コスタリカのバナナ農園。すべてが個人を孤立させるようにオーガナイズされている場所では、キリスト教の共同体はつくりえない。インディアンのコミュニティでは成功したが……と神父。
 キリスト教の共同体もなければ、組織された組合もない。ドール社は組合をこわし、会社に忠実な組織「連帯協会」をつくることに成功した。
▽282 1979年のニカラグア。5%の人口に国の収入の28%が集中し、半数を占める貧しい層の収入は15%。土地は1・8%の大地主が47%を所有。
 元サンディニスタで、チャモロ政府の労働大臣になったフランシスコ・ロサレス「サンディニスタは国家の財産を盗んだ……」(ピニャータ)
 オスカル・ルネ・バルガス サンディニスタの顧問をつとめていたが、徹底的に批判。……1980年、ニカラグアには貧しい人が60%いたが、89年には82%になっていた。……
 「悪魔の詩」をかく直前の1986年にニカラグアに滞在したサルマン・ラシュディは「ジャガーの微笑」を書いた。
 バリカーダのロサリオ・ムリーヨは、オルテガのかつての伴侶だった詩人だが、「戦線はこえだめのようだ」と批判する。女性ゲリラだったドラ・マリア・テイェスも……
 「エンビオ」編集長。マリア・ロペス・ビヒル。解放の神学の影響を分析。
▽307 メキシコには征服博物館はなく、文化博物館がある……ラサール・カルデナスは、息子に、アステカ王国最後の君主の名クアウテモックという名をつけた。……

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