MENU

M/世界の、憂鬱な先端 <吉岡忍>

 文春文庫 20070110

ベルリンの壁が崩れる。歴史は人間が動かせるのだ、と実感できる場面に立ち会う。そのときふと「では日本は?」と思う。
まさにその年、昭和天皇が吐血し、報道は翼賛体制となり、戦争という歴史を徹底的に忘れるメルクマールとなった。
「歴史をあえて忘却する日本」を追究しつつけた結果が、因習も伝統も生産活動もない、学校とスーパーと教育施設といった「生活」しかない「生活圏の町」の形成だった。
豊かさをつきつめた果てのこぎれいな街で、ある意味で「理想郷」で、だけど薄っぺらな町で、陰惨な犯罪が頻発する。
実はこの日本こそが世界の最先端ではないのか。憂鬱の先端ではないのか--そんな問題意識から、宮崎勤の事件を説きおこしていく。
宮崎勤事件は、世間で記憶されているような「性犯罪」ではない。むしろ肉体的なものを極度に嫌い、セックスを極度に忌避してきた人間である。なぜそんな人間が、あの異常な犯罪を犯すにいたったのか。その背景に「生活圏の町」があり、人間の表面しか評価せず、協調性だけをもとめる学校の存在があるという。
宮崎の場合は、学校でも家でも社会でも遊離するなかで、唯一の「甘い世界」だった祖父が死んだことによって、人格が瓦解する。
神戸の酒鬼薔薇事件も同様の「生活圏の町」でおこっている。

ではどこに救いがあるのか。
神戸の容疑少年の父親は、沖永良部島の出身だ。生活圏の町とは正反対の、神話と因習の支配するムラだ。
父親は会社はやめなければならないだろう。生きていくのもつらかろう。でも、「(少年が帰ってくるときのためにも)生きろ」と父親の友人は言う。
「おれたちがいるじゃないですか。友だちがいる。温かい血の流れている島の人間がいっぱいいるっていうことを、あいつには忘れてほしくない」
そのあたたかみがぐぐっと迫ってくる。
でも、それだけでいいのか。失いつつある神話に頼るだけでいいのか。新しい神話をつくる可能性を模索しなくていいのか……
作品に圧倒されながら、疑問はぬぐえなかった。

-----抜粋など-----
▽気まぐれな無党派層の増大こそが民主主義の純化への過程と言うべきだろう。……民主主義社会にあっては政治は人々に忘却を強い、文化は記憶をうながしている。忘却と記憶の綱引きの上に、1人ひとりが載っている。

▽宮崎の鑑定、3つともバラバラ。正常・分裂病・多重人格という3種類の判断。
▽(五日市……)地域意識の再生産をくり返してきた。共同体のまとまりを維持してきた。1960年代のはじめまでは。……宮崎は、日本中いたるところに露呈した先端にいたことになる。彼は祖父と父親が地元を築く手がかりをつかんできた地域活動のいっさいに背を向けていた。町内意識を生み、支える実体がからっぽになってしまった異常、そんなものに参加する理由もない。
▽70から80年代にかけて、歴史への関心が高まった。司馬遼太郎が牽引した。……司馬の講演「明治政府というものは江戸期を否定し、そして明治以後の知識人は、軍人をふくめて、江戸的な合理主義を持たなかった。それはやはり、何か昭和の大陥没とつながるのではないでしょうか」 この時期、司馬はみずからの歴史観を変えようとしていたのではなかったか。
▽コミケ 同人誌即売会……75年にはじまり、90年代後半以降は30万から40万人が集まるようになった。ここに集まる若者たちが相手を「おたく」と呼び合ったところから、サブカルにのめりこむ彼等を「オタク」と呼ぶようになった。
▽祖父の死とともに、遺骨を食べたり、親戚や妹への暴言と暴力など、急に壊れていく。「おっかなくなって、ぐわーっとやり返した」 自分が自分に所属していないような、まだるっこしい感じ。離人症、解離症状の典型的な症状がおおいつくす。(〓ある時、ふとそんな感覚になることがないか)
▽オイディプス王子 盗賊とまちがえて父を殺し、実の母と結婚し…… エディプスコンプレクス
▽宮崎の家 売り出されて4,5年になるが、買い手はつきそうにない。逮捕の2年後に祖母が亡くなり、その3年後に父親も自殺。母と妹は名前をかえどこかへ移り住んだ。
▽生活圏の町 そこに生活がある。しかし、生活しかない。そんな生活圏の町でこそ事件はおきている。ああまたか、と思う
▽酒鬼薔薇事件 労働者のための団地 企業内での昇進につれて中流階層のためのそれへとゆっくりと変容していく。戦後日本の労働運動が政治性や理念を見失い、雇用確保や賃金闘争へ、その後の労使協調路線へと集約されていく過程とかさなる。……こぎれいで清潔、豊かで便利な町並み。生活圏の町とは、教育とせいかつだけで成り立っている町、それ以外の人間の現実が見えない町のことである。
▽……たまたま友が丘中学の保護者の何人かが、私が報道番組などで発言していることを知って、信頼できる関係者を集めてくれた。
▽宮崎事件のとき、五日市町に投入した記者の数は、各社数人からどんなに多いときでも10人くらいだった。テレビ局も、一軒一軒しらみつぶしに訪ね歩くことはしなかった。週刊誌もせいぜい3,4人ずつだったのではないか。
ところが酒鬼薔薇事件になると、2キロ四方の町に、各新聞社などがそれぞれ50人前後の記者を送りこんでいた。テレビも、番組ごとのクルーが動き回る。私は文藝春秋の5人の記者と編集者のチームにサポートしてもらっていた。
大量に動員された取材記者が全体像のことは頭の外に置き、データーを洗いざらいかき集め、別にあるヘッドクオーターがそれらデータをより分け分析し、事件の輪郭を描いていく、という形にかわっていた。
この大量動員方式は、昭和天皇死去と幼女連続誘拐殺害事件のときに萌芽的にはじまり、震災報道の混乱のなかで一般化したという。オウム事件でより明確になっていく。
▽沖永良部島取材からもどり須磨へ 明るい町。肉体を酷使しなければんらない労働の現場は消え失せ……貧しさから逃げ出し、ゆたかさに向かって走ってきた長い道のりの、ここが到達点だった。
▽かつて日常的な体験を教科の中心に据えた教育があった。大正の「新教育」、戦中をのぞく戦前戦後の一時期に各地で行われた「つづり方教育」、戦後の1960年ごろまでつづいた「生活単元学習」もそれに近かった。さかのぼれば、一方では、明治近代化の一律な国語制定、文化一元化に対抗する自由民権運動の教育思想にたどりつき、もう一方では、アメリカのプラグマティズム哲学を確立したデューイの教育思想に行き着くはずである。デューイは、学校をひとつの小社会と考え、そこに生産活動を採り入れ、各教科を展開する方法を編みだした。……体験にふくまれている意味を明示し、その体験によって変化したものがなんであるかを見抜き、そこに思索や思慮を加えること、つまりは言葉をあたえることによって体験それ自体の質を変えていくこと。(〓生産現場のなくなった今の子どもはなにを「体験」すればいいのか〓)
▽この国の戦後は歴史と記憶を持たないことから出発したのではなかったか。規範を、時空間にまたがる世界観を語らないこと、そこに20世紀のうしろ半分全部を賭けてきたと言ってもよい。……この国がやってしまった悪を語らなかった者たちが、規範がだいじ、命を大切に、悪をなした子どもは厳罰に処すと説くことの滑稽さと退廃に、少しは気づいたほうがよい。
▽沖永良部の出身者「おれたちがいるじゃないですか。友だちがいる。温かい血の流れている島の人間がいっぱいいるっていうことを、あいつには忘れてほしくない」
▽神戸事件のその後のあの中学 5段ピラミッドを成功させ、大喜びする。感動的画面だった。が、この夜、子どもたちが「これで先生たちも立ち直れるんじゃない」としゃべっていたのを教師たちは知らなかった。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次