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親米と反米 戦後日本の政治的無意識<吉見俊哉>

■親米と反米 戦後日本の政治的無意識<吉見俊哉> 岩波新書 20101119
▽17
 ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」は、戦時期までの天皇制と占領期の米軍支配の連続性を浮かび上がらせた。天皇の戦争責任回避が日米合作で、占領軍と日本の支配層の利害が一致していた。その結果、もっとも被害を受けたアジアの人々が、この敗戦国でまともな影響力のある立場を獲得できなかった。
▽21 フランスはアメリカを対抗的な他者として描くことで、アイデンティティを再構築した。
▽54 第一次大戦後、「仮想敵としてのアメリカ」という語りが急浮上する。が、日米開戦後にすら、アメリカに対する日本人の関心の高さは持続した。鬼畜米英を唱えながらも無意識にアメリカを欲望しつづけた。
▽59 アメリカが、一方では大正デモクラシーにおけるウィルソン主義の理想に、他方では、エロティックで消費的なアメリカニズムへの奔流になる。この「下から」の個人の欲望を開放していくベクトルを含んだ近代は、天皇を頂点する家父長的な近代と、実は補完的な関係を内包していたのではないか(筑紫と久野〓)。戦後、2つの近代性は抱擁してゆく。戦前から、天皇制とアメリカニズムが単純に対立していたわけではなかったからだ。……
▽66 マッカーサー到着 翌日の紙面のトップ記事にすらなっていない。
▽86 1946年の人間宣言以降、天皇が国民の目にさらされるようになるのと反比例して、マッカーサーは深く閉じこもるようになった。日本占領の体制ができあがるなかで、表象レベルでは、マッカーサーは背後に退き、天皇は前に出てくるようになる。
▽90 大量のマッカーサーへの手紙。「彼の方が天皇よりも近づきやすく、より直接的に関係をもつことができる」という敗戦国民の信憑があった」(ダワー)彼らはマッカーサーのなかに、自分たちの存在に新たな意味を与えてくれる他者のまなざしを見出した。
▽92 天皇の地方巡行。密室に退くマッカーサーの象徴的代替項を天皇が果たす記念すべきイベントだったのでは。
▽96 天皇の「あ、そう」という言い回しはからかいの文句になっていたし、……40年代末には 偽天皇が次々に名乗りを上げた。「熊沢天皇」など30人を超えた。熊沢は66年に不遇のまま没する。50年代半ば以降、戦時天皇制が新たな安定期に入り出したことを示唆している。
▽100 戦後直後、天皇は豊かな猥雑さをもって語られた。共産党の影響下に出された「真相」は最盛期には10万部。天皇もののゴシップに執念を燃やした。
▽105 RAA 戦中期に日本軍兵士のためにしてきたのと同様に、米兵のための慰安婦を政府が組織する。
▽108 官能的なパンパンは、外見からいえば日本でもっともハリウッドに近い存在(ダワー)……戦前、モダンガールのスタイルで銀座を闊歩できたのは、豊かな女性に限られた。占領期は、パンパンたちはこの序列構造を革命的に逆転させてしまう。それは、米軍の進駐するすべての地方で起きていた。パンパン主導のアメリカニズムは、ナショナルな男性性にとって転覆的な脅威となった。
▽110 日本の男たちを支える家庭秩序が立ち直るにしたがい、パンパンは弱々しい存在と表象され、50年代以降のアメリカニズムは、「民主主義」の良識的な主体となる中産階級の主婦によって担われる。
 ……米兵-パンパンという結びつきにかわり、60年代までには「日本の技術力-家庭電化の主体としての主婦」という結びつきが浮上してくる。
 その移行期の50年代、戦後日本の都市大衆文化は、占領軍と若者達との交渉のなかで醸成されたが、そうした交渉史は都市とメディアの表層から消えていく。それによって戦後日本のナショナルな主体構築が再び可能になっていく。
▽116 湘南ボーイ 銀座・六本木・原宿も、基地の街から流行の街へ。
▽126 六本木界隈は、軍人の街だったが、戦後は米軍に接収される。米兵相手のクラブやバーができ、「六本木族」と呼ばれる若者たちが集まってくる。原宿も……銀座も、街路にはアメリカの名前がつけられ、アメリカ租界となっていた。……
▽133 60年前後の六本木は、米軍占領地の記憶を隠蔽しながら商品価値にかえ、客の重心を占領軍からテレビ局関係者に移していった。
▽139 湘南海岸も広大な演習場だった。「アメリカンな湘南」に。基地とリゾートが背中合わせになって観光客を集める、ハワイ、グアム、沖縄などのアメリカン・ビーチに連続していた。
▽151 反基地闘争 商品やメディアのイメージとして消費される「アメリカ」と、「暴力」としてのアメリカの2つの「アメリカ」に分裂する。
▽160 1980年代、「基地の街」というレッテルの価値は逆転し、「かっこいい」となる。もはや「基地の街」そのものが、「占領」の記憶を切断したかに見える六本木などと同様に、消費可能なイメージとして広く商品化された。「基地」との関係を目立たないものにしてきたかに見える消費のアメリカニズムは、いまや「基地」というリアリティそのものを、丸ごと飲み込んでしまうまでにふくらんだ。
▽163 デペンデントハウス(DH住宅)広い区画内に公共施設と住宅を大量に建設する「団地」スタイルが出現したのは、これが初めてだった。……大量かつ集中的な住宅関連製品の生産という経験が、家電や住宅、家具などの産業体制が立ち上がる重要なきっかけになったと推定。
▽173 西部劇とホームドラマ。多くのアメリカ製番組には幸せな家庭的空間が一方にあり、「悪」としての他者がもう一方にあるという二項的な世界像が表明されていた。冷戦体制についての大衆的想像力と呼応するもので、それらの番組への日本人の熱狂は、体制の一方の側へと人々が進んで自らを位置づけつつあったこととも共振していた。
▽ 街頭テレビのヒーローだった力道山。白人レスラーを次々にやっつける。ナショナリズムの担い手……。家にテレビが普及すると、プロレスは逸脱的なものとされはじめた。63年に力道山が刺殺されたとき、全国紙の扱いは、不自然なくらい冷淡だった。力道山の身体が表象するような「戦後」と人々はすでに訣別しつつあったからだ。
▽181 力道山の空手チョップに歓呼する群衆から、お茶の間のテレビで皇太子妃の笑顔を注視する国民への転換は、60年代に一般化していくホームドラマと視聴者の関係の先駆けだった。
 それまで全盛を誇っていたアメリカ製番組は縮小され、ゴールデンアワーは日本製ホームドラマや時代劇で占められる。
 美空ひばりは、占領期の庶民の哀感を表現したが、52年の「リンゴ追分け」を転回点に「日本的なるもの」へ回帰していくトニー谷は、さいざんす、おこんばんは、などの流行語をtくり、50年代半ばに人気絶頂に達したが、その後は消えていった。
「庶民の『被占領真理』の屈折した自虐性によって支持され、高度経済成長とともに捨て去られた芸人」 トニーの植民知性を意図的に誇張した演技は、力道山のポーズとしての「反米」と表裏をなしていた。
▽186 50年代以降の日本社会では、家庭こそがナショナルな神話が再構成され、国民のアイデンティティが絶えず保証されていくイデオロギー装置となった。そのシンボリズムを中心的に担ったのが「三種の神器」としての家電だった。
▽188 戦前のラジオの宣伝は、モダンガールのイメージ。戦後も、50年代初頭までの電化製品の広告はモダンガール的な「女性=商品」といった描かれ方をした。……53,4年ごろになると、「アメリカ的生活」の担い手としての「主婦=奥さま」の姿が示されるようになる。
▽192 家庭電化=民主化のイメージがあり、「主婦」は「家庭」における主体=国民として構成された。59年の松下の広告には、「憲法25条」をとりあげ、文化的な生活への願いを満たすもののひとつとして家庭の電化をあげる。家庭電化を通じて「民主化」も達成すると……。
▽195 「同じ都市でも下町や商家の『おかみさん』、山の手の『奥さん』のちがいのように、多様であった主婦像は、この時期からあと急速に一色に塗りかえられた」(天野正子「モノと女の戦後史」)
▽197 「日本の技術力」の広告は実際に海外で高い評価を受けるかなり前に打ち出された。「日本製を強調して粗悪品だと思われては困ると思ったことは確かだ。……」(森田昭夫)
▽200 家電における「和風」の成立。60年代後半。日本の家電技術を伝統的な職人芸や自然観と結びつける、文化本質主義的な技術論。
▽205 
▽206 戦後、アメリカンなまなざしに保証されることによってナショナルな主体を立ち上げていく、アメリカンなものを追求することこそが新しいネーションの表現であるといった新しい国民的主体化とアメリカニズムの関係が大衆的な広がりをもって成立した。反基地闘争が「アメリカ」に抵抗する主体として「国民=民族」を立ち上げた関係とも異なり、力道山に歓喜した群衆が「悪役」としてのアメリカに対抗する主体として「日本人」らしきものを想像していた関係とも異なり、むしろ、天皇とマッカーサーの「抱擁」が予感させた関係が、60年代までには広範な国民の日常意識によって積極的に支えられるようになった。
▽211 「人民」は民主勢力=ソ連の側に、日本の企業家は敵の側に位置づけられた。この2項図式のため、彼らは自分たち自身で冷戦体制を踏襲することになり、日本社会自身への問が深められなくなってしまった。2項対立である限り、大衆はアメリカとともにあったのだから、共産勢力の孤立と疲弊は避けられなかった。
▽214 戦後直後の反米闘争と、農民の連帯を基礎にした反基地闘争の共通項は「反米=民族ナショナリズム」という枠組み。土地という具体性において「日本」が他国に「犯されている」という感覚が共有されていた。このナショナリズム感情は60年の反安保闘争への流れを貫いてもいた。清水幾太郎。「民族」としての日本という感情がある。
 ……清水は、対米従属に対するナショナルな反発を見抜き、政党レベルのおきまりのコースに対して、草の根からわき上がる大衆運動で対抗しようとした。〓今は?〓
 「民族としての日本」にこだわる彼はその後、保守に転向して、ネオ・ナショナリズムに先鞭をつける
▽220 ベ平連 この運動体は内と外の境界線がきわめて緩やかで、いつでも「運動の状況をなしている部分」から運動の中核に新しい人が入ってこられる。運動の中核部分が空洞になっていた。脱ナショナリズム
▽226 大正初期まで「アメリカ」は、外にある他者であり、日常意識の内側が作動する存在ではなかった。
 1920年代以降、ハリウッドやジャズ、モダンガール、野球などが浸透するなかで、アメリカを内なる存在といsて感じる層が大量に出現する。
 内なる「アメリカ」が、国土の津々浦々まで浸透するのは戦後。1つは内なる暴力としての「アメリカ」。パンパンが体現するアメリカンな先端性は、「日本が犯されている」という感情を抱かせ、新たな戦後的ナショナリズムが構築される基礎を提供した。「左から」の反米運動は、その根底にナショナリスティックな無意識を抱え込んでいる。
 ……戦後日本のポピュラー文化は、米軍基地とミュージシャンや芸人、若者たちの交渉のなかで育まれた。沖縄は今でも。
 その後、暴力としての「アメリカ」の記憶は忘却されていく。パンパンは、米軍性暴力の被害者という以上のものではなくなり、六本木や原宿などが「基地の街」だったことも忘れられていく。50年代から60年代の沖縄の基地強化と表裏をなして進行する日本の脱軍事化は記憶の消去を容易にした。
▽229 アメリカン・ウエイ・オブ・ライフの象徴たるモノたちが「三種の神器」として台所やお茶の間にとりこまれる。家電メーカーは、「主婦=主体」による家庭電化こそが、憲法で保障された民主化を可能にするのだと熱心に説いた。……こうして主婦はアメリカンであると同時にナショナルな主体となった。60年代、男たちも、新たな主体化をとげつつあった。「誇り高きメイドインジャパン」に代表される技術主義的なナショナル・アイデンティティの再構築だ。技術の優秀さを保証してくれるのは、アメリカンなまなざしでなければならない。60年代、暴力としての「アメリカ」の影を払拭し、技術力で勝負する新しいナショナルな男性性を発見していく。
▽231 戦後の「民主化」とは、政治的自由である以上に、アメリカ的な豊かさの獲得だった。その一方で全国に広がる基地の現実を前にして「暴力」としての「アメリカ」に対し、対抗的なナショナリズムが立ち上がってもいた。
 ……占領期に実現したマッカーサーと天皇の「抱擁」は、60年代、もはや「上から」ではなく「下から」つまりわたしたちの日々の実践のなかで再演されていくようになった。

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