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梅棹忠夫に挑む<石毛直道 小山修三編>

■梅棹忠夫に挑む<石毛直道 小山修三編> 中央公論社 20101120
▽11 文明の生態史観 西欧と日本(第一地域)は、遷移(サクセション)が順序よく進行した地域で、歴史は主として共同体内部からの力による展開。オートジェニック(自成的)なサクセション。両者の中間にある第二地域は、歴史は外部からの力によって動かされることが多い。アロジェニック(他成的)なサクセション。……従来の世界史理論は、古代オリエントがギリシャ・ローマにひきつがれ、さらにゲルマン世界の封建制に引き継がれるという「系譜論的」モデルとして構成する。梅棹は、地中海文明は西欧文明の前身ではないし、フランク王国は、ローマ帝国の直系の後継者ではないとみる。歴史を系譜論ではなく機能論として理解しようとする。……マルクス主義は、世界どこでも同じ発展段階をたどると見るが、生態学的にみたら、条件がちがえば進化の過程はことなる道筋をたどる。
 情報産業論にも、生物学のアナロジー(類推)が適用される。農業の時代は、消化器官を中心とする内胚葉機関の機能充足の時代。工業の時代は、手足の代行である各種の生活物資とエネルギーの生産に力点を置く中胚葉産業の時代。精神産業の時代は、脳神経系や感覚器官の機能拡充をめざす外胚葉産業の時代。
 「情報産業」における情報の価値を決定する原理として「お布施の原理」があると指摘。情報の価格の決定は、発信者と受信者の格によってきまる。
▽22 探検を企画し実行するのは、ベンチャー企業を立ちあげることに煮ている。……探検家には経営者としてのセンスが求められる……最大の仕事が国立民族学博物館の設立。
▽37 牧畜については、農耕より先か後かという議論があり、「狩猟起源説」と「農耕起源説」に大別される。……梅棹は、「狩猟民がその狩猟対象のむれと結合することによって遊牧民に転化したことをみとめる」という点で「狩猟起源説」だが……
 新石器革命の農業革命と同様に「牧畜革命」という認識の必要性を問いた。「むれをごっそりとりこむために必要な技術的条件」として「乳搾り」と「去勢」の2大技術があり、これらの技術によって、人間の組織と、むれという有蹄類の組織とのひとつの共生的な体制を確立した。……さらに「騎馬」という技術の獲得によって生じた余剰生産力が、農耕社会のような階層化ではなく、軍事化をもたらしたのではないか、と示唆されている。
▽42 梅棹は、モンゴル人の遊牧を近代的な牧畜に発展させるために安易に技術移転を図ろうとする畜産学者たちのマンネリズムに批判的だった。モンゴル遊牧を、生態学的に評価していたからにほかならない。(ソ連的な大規模牧畜の失敗〓、昔ながらの遊牧の自然な知恵)
▽50 梅棹は、「牧畜」と「遊牧」を区別し、農耕と密接な関係をもつものを「牧畜」とし、また「遊牧の成立」と「遊牧社会ないし国家の成立」を区別していた。
▽76 文明の生態史観 第二地域は数々の帝国の建設と破壊による滅亡を繰り返す。それをもたらすのは、牧畜民・遊牧民の暴力だと捉える。第二地域では、「遊牧民の暴力」という外部からの力が他成的なサクセションを引き起こした。近世以降、遊牧的暴力はほぼ鎮圧され、19世紀の第二地域には、中国・ロシア・インド・トルコの4大帝国が並立することになる。
 第一地域(日本)は、森林に覆われていたから技術水準が低い場合は文明の発源地にはなりえなかったが、一定の技術水準になると、豊かな農業生産性を発揮し始める。中央アジアの暴力に脅かされることがなかった。サクセションが自成的に展開され、大陸の帝国を模倣した小型の国家が誕生する。内部での戦乱のあと、封建社会を打ち立て、独自な成熟をなしとげる。日本と西ヨーロッパだけで成立した「封建制」がもつ意味への理解。こういう社会制度においてのみ、自律的な経営能力、それを可能にする勤勉や誠実といった人間の美徳が育ち、近代的なブルジョワジーと彼らが支配する資本主義社会を確立させることができた。
▽97 キッシンジャーに「封建制が近代をつくった」と言ったらびっくりして「封建制は悪いものだと思っていた」と言った。しかし、封建制こそ、中央集権に対して地方分権、まさに民主主義の地盤になっているわけやな。
▽99 生態学のサクセッション論でいけば、日本はクライマックス(極相)の段階になりつつある。……安定してずっと続く。災害などでクライマックスがつぶれたときに新しいサクセッションがはじまる。……第二地域は、植生やと攪乱地域やな。アロジェニック・ゾーンや。
▽106 梅棹にとっての「情報」とは「人間と人間のあいだで伝達されるいっさいの記号の系列」。その後、人間の感覚諸器官がとらえるものは、すべて情報とみなす立場をとった。 情報産業に先駆的にたずさわったものとして宗教家をあげる。神や仏から発せられた情報を大衆に伝達し、その見返りとして報酬を受けとる職業。
▽116 不正表示問題の本質は、ものと情報が一体化した商品を、農業や工業の論理で売ろうとしたことにある。
▽120 食品製造業や放送業の例からわかるように、ブランドの信用は特定の買い手だけだけでなく、広範な潜在的消費者の支持によってはじめて成り立つ。情報産業は、社会全般の利益に資することを目標とすべきなのである。……「お布施の原理にもとづいた価格決定における」「格」というのは、それぞれの存在の社会的・公共的性格を相互にみとめあうということにほかならない。社会的・公共的性格を前提にしないで、個別的な経済効果だけを問題にしてゆく立場からは、情報産業における価格決定理論はでてこない。(〓ボランタリー経済)
▽126 ……時間がたてば、多数の中枢がコミュニケーションの結節点として機能するようになろう。それがサイバー空間の分節化であり、世界の多極化とアナロジカルな形で生起すると筆者はみている。ただし、進化論的には、集中性の高いサイバー空間が分節化ないし散在化するという筆者の予測は、散在神経をもつ動物から集中神経系をもつ動物があらわれたという進化史的事実と対応しない。……
▽141 情報とは 星の光も情報。それを受け手のほうがどういう具合に受けとるか、価値を与える。コミュニケーション論と情報はちがう。コミュニケーションは受けてと送り手があるけど、情報は受けてだけ。送り手は星でも何でもいい。
▽160 京都1中は自由な雰囲気で、軍事教練の教官からゲートルをまいて来いと言われても、校長は「巻く必要はない」と言い切りました。博物同好会のリーダーだった4年生の目賀田守種は、サボテン研究の権威。フィリピンで戦死。「レイテ戦記」に目賀田少尉は出てくる。 ……五万分の一の地図が必需品でいつも持ち歩いていた。
▽182 今西錦司さんは「なんにもわからん。だから、これをやるんや」と言った。未開の地へ向かうパイオニア精神はすさまじい人です。
▽192 大阪市立大助教授時代も、60年ごろ毎週金曜、探検部の学生らに北白川の自宅を開放していた。ビールは飲み放題で、明け方まで議論して「梅棹サロン」と言われた。そうしたなかで人類学の自主講座を作ろうとなり、64年から「京都大学人類学研究会」をはじめた。「近衛ロンド」と呼ばれた。95年10月に1000回を数えた。このサロンやロンドからは、人類学者や民族学者、それに関連するジャーナリストになった人がたくさんいます。
▽194 65年に京大人文研の助教授に。……自分の頭で考えた「オリジナル」しか評価しない。それが学問に対するわたしたちの姿勢でした。
▽201 岡本太郎さんの提案で、泉靖一と私は、東大・京大の若手の研究者20人ほど集め、民族資料を買うカネをもたせて世界各地に送り出した。わたしたちは日本の民族学を背負うつもりだった……万博跡地には国立民族学博物館を、と訴えた。50歳だった。
▽203 ヨーロッパの民族学博物館は、植民地支配した国のモノを集めた博物館。奪ってきたモノを並べただけ。この博物館では、高等な文化、未開な文化という差別は一切していない。基本的思想は「民族に優劣はない」。
▽209 1986年、中国旅行から帰って65歳で突然の失明。現実を見つめて生きていくしかしょうがない。死ぬわけにはいかんのやから。そう思うようになりました。-失明後の3年間で40冊の単行本を出した。

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