■君たちはどう生きるか <吉野源三郎> 岩波文庫 201008
小学校時代と大学時代につづいて読むのは3度目。大学時代に読んだときは、一度目ほど感動しなかった。いまもう一度読んでみると、大学時代にマークした部分につい赤線を引いてしまう。もっとも心が動かされたのは、「世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気迫を欠いた善良さも、同じように空しいことが多いのだ」という言葉だ。この言葉を越えるどころか、ますます身をもって重みを実感するようになっている。成長してないなあ。
でも、日中戦争が始まった昭和12年に出版されたという背景を知ったから、この本のすごみがよりわかる。柔道部の先輩による下級生への「制裁」とそれへの抵抗は、軍事教練への批判であり、民主主義への賛歌である。
中学1年生の主人公コペルくんが粉ミルクを通して、オーストラリアで牛を飼う人、港に運ぶ人、船を操る人……を想像して「人間分子の法則」と名づけるのに対して、おじさんは「生産関係」という術語を授ける。世界の人々がつながる大切さを説くと同時に資本論の基本を教えている。
マルクス主義者は、基本的概念から演繹的に説明することが多い。この本は、そんな抽象的な論はふりまわさない。あくまでも身近な題材から、社会のあり方を考えていく。そして、歴史の流れをすすめる者を評価し、どれほど英雄的であろうとも歴史の流れを止めようとする者はダメだと説く。民衆のために働いたナポレオンの前半生は評価するが、権力者となり民衆の思いから離れてしまった後半生を批判する。これはもう、歴史の流れを逆行する軍国主義へのあてつけでしかない。
あの時代にこれほどのものを書いた勇気と表現力に脱帽せざるを得ないのだ。
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▽53 肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。
▽131 今の世の中で、大多数を占めている人々は貧乏な人々だからだ。そして、大多数の人々が人間らしい暮らしが出来ないでいるということが、僕たちの時代で、何よりも大きな問題となっているからだ。(〓この時代に)
▽192 本当に尊敬が出来るのは、人類の進歩に役立った人だけだ。真に値打ちのあるものは、ただこの流れに沿って行われた事業だけだ。
▽252 心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。そして僕たちは、その苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかということを、しっかり心に捕らえることができる。
……自分をみじめだと思い、それをつらく感じるということは、人間が本来そんなにみじめなものであってはならないからなんだ。……僕たちは自分の苦しみや悲しみから、いつでも、こういう知識を汲み出して来なければいけないんだよ。
▽255 道義の心から「しまった」と考えるほどつらいことは、恐らくないだろうと思う。そうだ。自分自身そう認めることは、ほんとうにつらい。だから、たいていの人は、なんとか言い訳を考えて、自分でそう認めまいとする。しかし自分が過っていた場合にそれを男らしく認め、そのために苦しむということは、それこそ人間だけが出来ることなんだよ。
悔恨の思いに打たれるというのは、自分はそうでなく行動することも出来たのに、と考えるからだ。正しい理性の声に従って行動するだけの力が、僕たちにないのだったら、何で悔恨の苦しみなんか味わうことがあろう。
▽解説315 世界の「客観的」認識というのは、どこまで行っても私たちの「主体」の側のあり方の問題であり、主体の利害、主体の責任とわかちがたく結びあわされている。……文学や芸術と「科学的認識」とのちがいは、自我がかかわっているか否かにあるのではなくて、自我の関わり方のちがいなのだという、指摘。
▽321 過去の自分の魂の傷口をなまなましく開いて見せるだけでなく、そうした心の傷つき自体が人間の尊厳の盾の反面をなしている、という、いってみれば精神の弁証法を説くことによって、何とも頼りなく弱々しい自我にも限りない慰めと励ましを与えてくれます。犯させたことを正面から見つめ、その苦しさに耐える思いの中から、新たな自信を汲み出していく生き方(灰谷健次郎のチューインガム)
▽325 戦後「修身」が「社会科」に統合されたことの、本当の意味が見事にこの一冊のなかに先取りされている。
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