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ちいさな理想<鶴見俊輔>

■ちいさな理想<鶴見俊輔>SURE 20100708

 ▽17 京都のピースウォーク ベトナム戦争反対のデモ行進とはちがう性格。かつての戦争反対デモは、軍隊の行進の形から手が切れていない。
 敗戦当夜、食事をする気力もなくなった男は多くいた。しかし、夕食をととのえない女性がいただろうか。無言の姿勢の中に平和運動の根がある。……戦争反対の根拠を、自分が殺されたくないということに求めるほうがいい。理論は戦争反対の姿勢を長期間にわたって支えるものではない。自分の生活のなかに根を持っていないからだ。

 ▽34 日本軍の乱暴への怒りをもとにした連帯を「アジア・ルネサンス」と呼んでいる。「大東亜共栄圏」の考え方は1905年から。金芝河氏の「アジア・ルネサンス」は、日本がアジア諸国を引っ張っていくという考え方がなく、「大東亜共栄圏」とは対照をなす。……1905年に戦争をつづけたら負けただろうことをこの国の指導者はわかっていた。ナポレオンもヒトラーも負けたロシアに、児玉源太郎指揮する日本は負けなかった。かれらのつくった成功があまりに大きかったので、100年たってもこの国はその成功のわだちからぬけだすことができない。
 ▽60 脱走兵 ソバ屋を暗号に。
 ▽81 長い戦争時代に吉田茂をささえた認識の一部には、アングロ・サクソンは政治について公正な意見をもっているという判断があったと思う。アングロ・サクソンはまちがわないという信念は、戦時は軍国主義批判の支えとなった。だが戦後この信念が「アメリカはまちがわない」に変わってしまう過程で、日本のおかれた現状を、批判ぬきでうけいれる考え方へと導いてゆく。ソヴィエト信仰、中国信仰は、かつて戦時中に自由主義者をささえたアングロサクソンはまちがわないという信念によく似た、現代の日本においては状況に流されないブイだ。
 ブイからはなれて状況に流されていく。それが今の日米の特徴だろう。自衛隊員に、何を守るために自衛隊はあるかときいたら、わからないとこたえたものがグループの過半数で、戦争がおきたら命をかけてたたかうかときいたら戦うとこたえたものが過半数だったというのは、現代日本思想の一つの断面を示している。上からの命令ならば、何かわからぬもののためでも、自分の命をかけてよいという気構えが、ここにある。
 このような傾向に対して、何かの理想を追う果てに、よりよい世界を信じるという傾向がある。エスペラント運動。
 ▽83 直接行動は望ましくない……民主主義においては選挙を通して意見の表明がおこなわれる……という政治家。……アメリカの民主主義は、言論の自由のない国から逃げ出してくるという各個人の直接行動によってきずかれたものではないのか。奴隷制度の廃止も直接行動のつみかさねをとおして実現したものではないのか。
 ▽98 加藤周一 日本文学史序説 雑種文化論。異国からきたという区別なく、日本文化の中に織りこまれ、とけこんでゆく事実に注目。
 ▽101 オリンピック報道 東京オリンピックのときは、さまざまな国の選手の個性をとらえることにカメラが向かっていた。今は日本選手に関心が集中し……〓。1945年から20年かけてつちかった海外へのひらかれたまなざしがしりぞいて、自国についての尊大な意識が、報道陣の無意識にしっかりと根をおろしている。「前畑がんばれ」の戦前の国家主義に、バブル崩壊後の日本はしがみついている。
 「夜、安心してひとりで家にかえれる」という日本のよさ。明治も、戦前も、高度成長も、この状態をくずさなかった。〓〓明治国家も、日露戦争以来の大国としてのおごりも敗戦も、経済大国としての新しいおごりも、まだくずすことのできないものは何か? そこにもどって考えたい。
 ▽105 教師と学生が報酬なしに戦争反対のために動くことはできないか。学生が自分の出身県で、教師と学生が組をつくって、再軍備についての議論の会をひらくという計画……鳥取県の人口5千人くらいの村を10箇所ほど回った。どこも会場は満員だった。それは十数年後にアメリカではじまったティーチインの先駆でありその型式を日本に入れて日本縦断をはかったべ平連の先駆であった。
 ▽107 喫茶店フランソア。映画を見て、コーヒーを飲んで話しあう、そういう日常の習慣の中で、反戦感情が養われた場である。
 ▽111 「ゲド戦記」
 ▽117 戦争中の軍隊の漢語のつなぎかたと、戦後の民主主義運動の漢語のつなぎかたとが、似たリズムをもつようにきこえる。発想のリズム、思想展開のリズム、説得のリズムにも似たところをもたらす。中野重治は福本イズムにおしまけながらも、自分の心の底流にちがう言葉とイメージとリズムがあるのを感じた。……検挙後の創作「村の家」〓はその新しいリズムの誕生を示す場であり、エッセイ「素朴ということ」、小説「空想家とシナリオ」は模索の時期の作品。戦後、「むらぎも」で別のリズムを掘り起こし、「梨の花」では農村の少年のイメージの展開を語り直し、方言についての講演をとおして、人工の標準語がくらしの根からその使い手を切り離す役を果たすことについて語った。
 ▽121 葬儀に行く。葬式は心のふたをあける。葬儀の時に、となりにすわった人から、心にのこる言葉をきくことが何度もあった。
 ▽139 甑島に移住した和田静子の伝記「思老期からの出発」(橋爪竹一郎、二見書房)。48歳で思い立ち55歳で移住。島の役に立ちたいと、自宅の半分を「トンボロ文庫」とした。……村の人びとを名前と表情と人がらでしっかりおぼえてひとりひとりとつきあうことだ。
 ▽147 南条まさき 鵜飼正樹 現代風俗研究会に参加。
 ▽150 手塚治虫と宮崎駿の作品は世界に大切なものと思う。私が感心している作品で言えば、岩明均の「寄生獣」である。
 ▽171 瀬戸内寂聴が金子文子をえがいた「余白の春」
 ▽190 ドン・キホーテ 知識人は知識人としての言葉をもっているが、大衆とおなじ行動をとるということを同時代の出来事としてくぐりぬけ、眼からうろこが落ちた。知識人と大衆は言葉がちがうだけなのだ。ドン・キホーテにはこの主題がある。現在にひきもどして読むと、未来小説のようにも思える。
 ▽191 「君たちはどう生きるか」を16歳で読んだ。日本人の書いた哲学の名著としてこの本に出会った。……そのときにすぐにふみこんで対さなくてはならないのに、気後れして、その機会を逸する。そういう場合の悔恨が、どのようにその後思想として育つか。この少年期の重大な人生問題と、この本はとりくんでいる。それが思想をつくり、人生の展望を用意する過程を見せる。
 ▽197 桑原武夫 第二芸術 ……つきあいのなかで、作品としてのすぐれたところなしに、権威ができあがってゆくことに対する批判として「第二芸術論」は今もなりたつ。同時に、いかなる作品も、その誕生する条件は何らかのつきあいをとおしてあらわれる。
 ▽201 川柳 鶴彬は獄死。万歳とあげた手を大陸にのこしてきた 手と足をもいだ丸太にしてかえし
 ▽208 声なき声、べ平連、九条の会。それぞれが自分の暮らしに新しい転機を見つけることによって支えられる。市民運動は、担い手が自分の暮らしの中に新しい発見をもつことを通して続く。そうでないと続かない。〓
 ▽214 高田宏「大いなる人生」 陸奥宗光、高群逸枝らの伝記をとりあげる
 ▽225 日本人はなぜキツネにだまされなくなったか。だまされる力を日本人が失ったからである。と内山節は「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」に言う。〓……1965年まではそういうことがあった。

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