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ぼくはいくじなしと、ここに宣言する <森毅>

 青土社 20061110

戦争中は軟弱非国民、学生運動さなかも軟弱な教師……軟弱へなちょこ人生を貫いてるものがあるとしたら、自分をも笑ってしまう道化精神だろうか。
なんともまあ肩の力が抜けていて気持ちいい。
「権威を否定していた人間が、権力を獲得すると、とんでもない権威主義者になるのを見てきた」というのは、身近の団塊世代の上司たちを見ればよくわかる。なぜだろう、と疑問だったが、筆者は「権威を否定するより、道化的理性によって、権威を無化するのがよい。誰よりもものが見えているというのが、シェークスピアの道化だったのだから。批評精神というのは、なによりも自分に対して、自分を笑ってあげることからはじまる」と説き、「……このごろでは、ときには自分の姿を鏡に映して『ずいぶん歳をとってくたびれてきたな』と、自分を笑ってあげるようにしている」という。
「自分を笑う」というのはなかなかできることではない。自分を落とせない人間はけっきょく権威にからめとられていくのだろう。自分を笑うことができたら老いもこわくないんだろうなあ。
「このごろの若者で気になることのひとつは、他人を笑わすことに懸命になっているのに、自分が笑われることを恐れている」という指摘も鋭いなあと思う。

-------抜粋・要約-------

▽老後のために、なにかの趣味を持つという考えはとらない。年をとってから始めたほうがよい。いまさらものにするほどの気もないし、格別に立派なことを考えずにすむ。古い新しい自分を作ろうというのではない。自分に縛られないようにするため。
大事なことは、過去のあり方をうまく捨てること。そのためには、捨てるべき過去をいろいろ持っている必要がある。新しいことを知ったりして、人生が豊かになるように思っていたが、それよりは、そうして作ったつもりの人生を捨てることがゆとりを生む。

▽自分の生き方が問題なのに、若者の生き方や老人の生き方ばかり口にするのも、中年にありがち。ぼく自身が40代のころを思いだすと、ぼくは昔からくたびれていたのだが、「まだまだ若い」と元気ぶっている連中が多く、40代はまだしも50代は無理で、若がることが老いを感じさせるのをよく目にした。
成熟より若さに価値をおきたがるのも、中年期の症状。若者の武器はスピードとパワーであって、その結果、社会全体がスピードとパワーに支配される。
若さに強迫されて生きるのはつまらん。戦争中でも、文学好きで軟弱な若者は、敬老精神なんか少しもないのに老人に憧れていた。……それなりにぼちぼち生きているのは、若いときから老人していたから。
▽協調性と社交性というのは混同されがちだが、方向が反対である。共同体の文化にとけこもうとするのは協調性だが、異文化とつき合うのが社交性である。異性とか異国人とか、異世代とか、自分の仲間でない相手とつき合う社交術は、得意なほうだ。
▽生まれてからただの一度も、喧嘩というものに勝ったことがなかったからなぁ。負けるに決まっていることをやるのは、自殺のようなもので、ぼくはそれほど自虐的ではない。
もしかして相手を殺すようなことが起こったとしたら、それはなにかの偶発的事故か、ぼくではない背後のなにかの権力に支えられてであって、ぼく自身ではないから、これも気にくわぬ。せめて殺人ぐらいは、自分ひとりだけの責任でやったほうがよい。戦争と死刑は、自分の責任でなくて、国家の責任になってしまうのが嫌だ。
……死にヒロイズムを与えるのを好まぬ。死後の世界のために殉教する、なんて打算的。老人には死が近くなっているのに、老人の自爆テロがそれほど増えぬのはなぜか?
いくじなしが多いほうが、平和でいいじゃありませんか。死はすべて犬死にと思って、いくじなしのままで死にましょう。
▽反戦のような「正しい」思想をひろめようと思うとこちらの命が危ない。それより、対抗情念を大事にしていると、「森みたいなのが楽でええな」と、ぼくの気分が伝染していって、イデオロギー的抑圧が緩和される。

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