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風の祈り 四国遍路とボランタリズム <藤沢真理>

 創風社出版 20061118

お遍路をしていると、しばしば「お接待」される。ミカンだったり、お菓子だったり、現金だったり、うどんだったり……。気のせいか、遍路道沿いの人々は外の人間に対して愛想がよくて、やさしい気がする。
ボランティアはキリスト教と強く結びついているといわれているけれど、もしかしたら日本独特のボランティアの形が四国遍路にはあるのではないか……と歩きながら考えていた。
この本はまさにその課題をとりあげている。
接待地というお接待のための米をつくる田圃があったり、若者遍路や娘遍路がおわると家の近くで返礼のお接待をしたり……、文化として息づいていたことがわかる。ハンセン氏病の人の村への受け入れを拒否しながらも、村の村はずれに滞在することを許し、お接待していた事例もあったという。
なるほどなあ、と思える事例が紹介されていて勉強になる。
でもできたら、現代の福祉におよぼす影響(あるのかないのかわからんが)も分析してほしかったなあ。
あと、接待率で高知が低い、というのも実感とは異なる。
たぶん寺で調査したから、組織的なお接待が多いところが高い数字になったのだろう。
歩いた実感では、香川がもっともお接待されることが多く、ついで徳島か高知、愛媛がもっとも少ない。
高知は組織的なお接待はないけれど、おばあちゃんがお菓子を包んでくれることなどが多かった。

------抜粋・要約------
▽(事故にあっても)おかげでこのくらいですんだ。有り難い」と考えることが出来る。四国八十八カ所は、「おかげ」という言葉に代表されるように、常にプラス思考ができるように実践し、修行する場所とも言える。
▽西国三十三カ所では、観光の意味あいが強く上層階級の人が多かったといわれる。西国でも、江戸時代までは接待見られたようだが、接待につられて乞食が多く来たためすたれていったようである。四国では、封建時代の江戸時代の巡礼者に女性・貧しい農民が多かったのは、「接待」のおかげで彼らの巡礼が可能であったため、とも言われている。
▽お遍路さんは、文化や知識の運び手でもあった。宇和島の「丸ずし」は…某遍路から教わったのがはじまりと言われているし、松山の稲の改良品種の「栄吾米」は、ほれ村の上末栄吾が、四国遍路にでて、土佐の国幡多郡でみつけた稲穂を引いて戻り、改良した新品種。
▽生活の垢を落とすのが四国遍路であるともいえる。「まんだら世界」に飛び込んで、身も心も清める。そして日常生活にもどる。
▽接待は、古代から日本にある異人思想・異人接待の風習。
▽香川 豊中町笠田地区の各部落には、「接待地」といって部落共有の田があり、そこでつくった米、麦をすべてお接待に出すという習慣があった。同町上高野地区にも接待地があった。愛媛の西林寺の近くにも接待田があり、農地解放の説きまで、ここでつくった餅米などで接待していた。
▽茶堂とは 城川町の茶堂 コミュニティセンターの役割。「ふるさと茶堂と石仏」 もっとも残ってるのは野村町や城川町。旧道を中心に。多くの茶堂は崩壊。
▽接待率の調査 徳島40.8 高知25.0 愛媛65.4 香川82.6
「土佐は鬼国」冬あたたかい土佐に遍路が集まり乞食が増え、禁止令がでて、お遍路を厳しく取り扱うようになったから。? 江戸時代の山内氏の政策が影響。
愛媛はみかんをあげることが多い。高知に近い地域では接待は少なく、香川県に近づく東予に接待する寺が増える。
(実感とちがう)
▽明治・大正・昭和初期まで、四国の多くの村では、若者や娘達が仲間とともに遍路に出た。遍路が無事終わると、家の近くの札所で返礼のお接待をしていた。
▽漂泊者が共同体に入ってきた時、外来者としてその土地に定着することを許されない。接待する場所が家や村の中でなく、お堂や村はずれという場所に限定されていた地域もあった。逆に、善根宿として無料で泊めて歓迎した。……余所者を疎外するという反面、マレビトを歓待する習慣がある。・・・遍路姿にさえなれば、誰でも受け入れる柔軟性。
▽欧州では、ボランティアは教会を中心に広がっている。日本では、「労力にみあう報酬をえずに」助け合う習慣が少ない。接待でも、お遍路さんは、モノをいただき、納め札というモノを相手に差し上げる。互酬性。
▽茶堂は、地域とお遍路さんや旅人を結ぶ場所。これに住まいの「縁」がにている。内でも外でもない中間領域。外部空間と内部空間の交わる所。子供の遊び場であり、客の接待、相談事の場。

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