■オーウェル評論集3 鯨の腹のなかで <ジョージ=オーウェル> 平凡社ライブラリー 20100421
書評集。知らない作家、知っていても2,3作品しか読んでいない作家ばかりで、最初はとっつきにくい。が、ところどころにオーウェルらしい評価が垣間見えておもしろい。鶴見俊輔の解説も。同時代人であることに驚く。
ケストラーもガリバーも読んでみたい。
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□ヘンリー・ミラー
1920年代後期、店いっぱいの気取り屋が夜更けまで大声でわめいていたモンパルナスのカフェは、10年後、幽霊も出ない真っ暗な墓場になってしまった。(バブルの狂乱とその後の衰退はそのくり返し〓)
▽15 国外生活の結果、彼を労働生活との接触から引き離し、彼の生活範囲を道路、カフェ、教会、売春宿、仕事場などに狭めてしまう。ミラーの本に現れる人物は、国外生活をしている人々、酒を飲んだり、しゃべったり、考えにふけったり……している人々であって、労働し、結婚し、子どもを育てる人々ではない……(〓旅行者の視点の限界をきっちりと指摘。見てきたようでなにも見えていない「生活」)
▽32 そのころのイギリスは……軽工業が発展するまでは、農業国として自らを考えやすかった。中産階級の少年たちのほとんどは農園を身近に見て育ってきたので、耕作、収穫、などの農園生活の美しい側面が彼の心をとらえた。自分でそれをしなければならぬという立場に立たないかぎり、少年は、かぶら畑の草を取ったり……ひどり労働に気が付きにくいものだ。(土と離れ、都会世代が多数を占めるようになった今の日本。なぜその時代にその文化が流行るのか〓の背景)
▽45 1920年代、ヨーロッパにおけるあらゆる重大事件がイギリス知識人の注意を引くことがなかった。ロシア革命は、レーニンが死んでからウクライナの飢饉にいたる10年の間、イギリス人の意識から消えていた。イタリアの黒シャツ党も、ドイツのヒトラーも。ヒトラーのことは31年まではほとんどだれも聞いたことがなかった。
▽54 1934年か35年ごろには「左」でないことは風変わりだと思われていたが、さらに1、2年たつと、ある種の左翼正統派ができ、ある種のことがらにある種の意見を持つことを絶対的に強制するようになった。……1935から39年にかけて、共産党は40歳以下のどの作家にとっても抵抗できないほどの魅力を持っていた。ちょうど数年前にローマ・カトリック教がはやっていたころ、だれそれが「受洗した」と聞くのと同じくらいに「入党した」と聞くことが日常のこととなった。
▽56 ……のソ連の方針によって、方針がころころかわる。
▽60 30年代の若い作家が共産党に群がったのは、単純に何かを信じたいということだった。ここには教会、軍隊、正統、規律、指導者がいた。知性が追放したかにみえた忠誠と迷信とが、帰ってきた。愛国心の対象はソ連で、英雄や救世主や神はスターリンで、悪魔はヒトラー。天国はモスクワで地獄はベルリン。……それは、根を失った者の愛国心なのだ。
▽65 ソビエトの悲惨を大目に見られたのは、それらが何を意味するかを理解できなかったからだ。
▽84
□チャールズ・ディケンズ
反体制といわれるが、人がよくなればよくなる、という考えで、体制をかえるという発想はなかった。〓人間の成長を描くのではなく、人間を風景のように静的に描く。そのディテールが魅力となった。
プロレタリアの粗暴さをおそれる。スラム住民は恐怖の対象。どん底の人を人と認めていない。それは、教条的社会主義者が底辺の人々を「ルンペンプロレタリアート」とすますの似ている。
既存のものを理想化する。
▽90 反体制的作家で過激思想家だったが、攻撃相手は彼の言い分を飲み込んでしまうので、自ら国家の体制そのものと化す結果に。
▽107 ディケンズは革命が暴政が生んだ怪物であると確信している。(否定的)
▽110 フランス革命の「恐怖政治の時代」でさえも、ナポレオンによるいくつもの戦闘のひとつと比べても、犠牲はわずかだった。……だが、ディケンズのおかげで、平均的イギリス人はフランス革命と聞くと切り落とした首のピラミッドしか思い浮かべない。
▽131 ジッドの「ソヴィエト紀行」(1936年)
▽134 ▽146
▽153 154 ディケンズは外見を見事に描くことはできても、過程を描くことはめったにない。あらゆるものが消費者の視点から眺められている。
▽170 ディケンズの文章の特徴は、不必要な細部にある。
▽187 彼は感情的に、何かが間違っていると感じるだけ。彼がいえることは「品位をもってふるまえ」ということにつきる。……革命家たちのおおかたは潜在的保守主義者である。彼らは社会形態を変革することによってすべてはよくなると思い描いている〓。その変革がなった暁には、彼らはさらに別の変革を行う必要を認めなくなる。ディケンズはこの種の精神的下等さを持ち合わせていない。。彼の不満が漠然としたものであることが、その不満の永続性の印になっている。
▽190
□キプリング
▽201 高度に工業化された国々のすべての左翼党は実はいかさまである。なにしろ、本当は破壊したくもないものに抗って戦うことを仕事にしているのだから。国際主義的な目標を持ちながら、同時に、そうした目標と相いれない生活水準を維持しようとつとめている。……クーリーの解放を主張するが、生活水準を維持するには、その略奪が続くことが求められる。キプリングはこれを理解していた。
□ケストラー
▽234 ケストラー(ハンガリーのユダヤ人)スペイン内戦でファシストに捕らえられ、拘禁され、共和軍の兵士が続々と処刑されるライフル銃の轟音を聞いて暮らした。「スペインの遺書」〓 人民戦線的正統性の色が濃すぎる。……1933年以後にほとんどすべての左翼人が犯した罪とは、反全体主義者にならずに反ファシストになろうとしたことだった。
▽249 ……真の問題は、来世などないことを認めながらも、いかにして宗教的な見方を取りもどすかということにある。人間は人生の目的を幸福と考えないときにしか幸福にはなれない。……ケストラーの人生の中心となったロシア革命は、さまざまな希望を掲げてはじまった。四半世紀前には、ロシア革命はやがてユートピアを生み出すだろうと、確信をもって期待していた。……人間にできることは、いつになっても、欠陥だらけのもののなかから比較的ましな方をとることだけで、社会主義の目標でさえ、世界を完全なものにすることではなく、ましなものにすることだけなのではないだろうか。革命はすべて失敗する。だが、どの失敗も同じなのではない。それを認めようとしなかったからこそケストラーの精神は一時的に袋小路に迷い込み……(〓丸山真男の永続的民主主義革命)
▽ 1932年に共産党に入党。スペインで共産主義に幻滅し、1940年イギリス亡命。ソ連の暗黒政治を暴露した「真昼の暗黒」を発表。83年、安楽死教会の会長としての主張を実践して、妻と共に自殺。
□ガリヴァー旅行記
▽281 政治的、道徳的な意味でスウィフトに反対だが、「ガリバー旅行記」は、飽きることなどまずありえない本である。8歳のときから、5,6回は読んでいる。
□鶴見俊輔の解説
▽302 英国は、戦後に次々に植民地を手ばなし、より小さな国になるという、そういうやぶれかたによって、虚勢をはることのない新しい国への道をあゆむ事業をなしとげた。その戦争のくぐりぬけかたを助けたのは、英国政府のもっていたすぐれた情報組織であり、……ドイツ・日本・フランス・アメリカにくらべて、よりよく自分を自由に保つことができた。
その情報組織の一角に、……戦争の相手方と味方側アジア諸国民に世界情勢を放送しつづけたジョージ・オーウェルがいた。日本には同様の仕事がなかったこと、あったとしても、当時の日本政府内にはこれを読んでいかす人のいなかったことが、対照として、心に残る。
彼は、自分の受けとった意見の全体の中に、自分が生きてゆくささえとなるまっとうな部分があると信じつづけた。
▽307 〓「戦争とラジオ--BBC時代」(晶文社)
私は43年、ジャワ島で深夜ひとり短波放送をきき、敵側の新聞とおなじものをつくっていた。それは軍事上の必要だけだったとは思えない。前田精海軍少将は、敗戦を予期して独立運動の指導者と連絡をとり、共産主義者とも連絡をとり、敗戦に際しては、官邸の地下室を提供してインドネシア独立宣言起草の場としたからだ。かなり以前から敗戦後の情勢把握を試みていたものと考えられる。
▽315 ベイシック英語 850語に言葉を限られ、数行ですませる単純な文法規則。チャーチルが導入しようとした。……聖書やプラトンのベイシック訳まで試みた。だが、どんなに単純化され、国際補助言語化されようと、権力によって上からおしつけられる時、それは自由な表現の可能性をおしつぶす力としてはたらく。「1984年」のニュースピーク使用による歴史の書き改めへの示唆となった。
権力がたえずもとうとする普遍性のよそおいへの警戒心を解くことがオーウェルにはなかった。……自分のにくんだ父がなくなった時にそのまぶたの上に銅貨をのせる古い習慣などを大切にすることをとおして、オーウェルは、イギリスにおいてさえあり得る全体主義とむきあった。(民俗を通して多様性を担保する〓)
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