■魂の点火者 奥出雲の加藤歓一郎先生 <福原宣明>
加藤歓一郎は島根県東部の山村出身だ。当時の出雲は、全国でも小作料が高く、貧富の差がきわめて激しい地方だった。加藤も家庭環境には恵まれずに育ち、松江市の師範学校に進学する。札付きの悪だったが、あるとき突然キリスト教に回心する。出雲大社の信仰が厚い故に出雲は「耶蘇教」への差別が根強く、布教困難地されていた。そんな出雲の山村で布教活動をはじめる。
教育勅語と国定教科書による教育に対抗して、自主的な意欲と創造力を高める大正デモクラシーの新教育運動の影響を受けて実践する。明治の自由民権の運動の流れをくむものだった。
昭和9年には神社参拝を拒み、処罰しようとする圧力に対して、条件つきながら信教の自由を記した帝国憲法を使って対抗した。だが世の中は次第に右傾化する。国民精神総動員となり、神社に参拝しなければ教師をやめさせられ、教師を辞めれば徴兵されることになる。特高の監視の目が光り、だれにも相談できず、孤独に沈むしかなくなった。
一方、卓抜した教育実践によって担ぎ出されて表舞台に出る加藤自身も、しだいに国家主義に感化される。イエスへの殉教をいとわぬ心情が、国の為には一切を惜しまぬ憂国の至情になった。「もし私が信仰を知らぬなら、ここまで純粋に愛国心に生きることは出来なかったと思う」と後にふりかえっている。
戦中でさえもナチスを批判していた南原繁の影響を戦後になって受け、ふたたび回心する。綴り方教育や結婚純化運動、成人社会教育活動などを展開し、青年の運動の核となっていった。今も加藤の教え子は出雲の山間部で活躍し、その周辺の村おこしや有機農業などにかかわっている。
いま注目される地域の裏には、加藤らのデモクラシーの思想があり、その背景には明治の自由民権運動がある。もしかしたらさらに古いムラの民主主義以来の流れもあるのかもしれない。地域民主主義の歴史的系譜を感じさせてくれる本だ。
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▽木次町長 田中豊繁
昭和22年、日登村では、新制中学発足にあたって、若くして青年学校長になった加藤先生を、と求めた。新制日登中学の初代校長に。生活綴り方を核として、「産業教育」を実行。青年婦人学級では結婚純化運動、公民館を中心にした成人社会教育活動など。
▽森信三「理想の中学教師像」〓「戦後の教育人の系譜」などに加藤の仕事が紹介されていた。「山びこ学校」の無着成恭にはじまり、「学級革命」の小西健二郎、「村を育てる学力」の東井義雄とつづく。これにつづく加藤歓一郎を「戦後教育界の巨人」と位置づけた。
▽4 戦前の奥出雲の御三家の山林王 絲原、桜井、田部。タタラ炉には大量の木炭を使用することや、明治6年の地租改正によって山に税がかかることから、大所有者への寄進が進んで大山林地主が生まれた。
戦前の山陰は、東北地方と並んで小作料が高額(明治14年の全国平均58%に対し、出雲地方は72・3%)
こうした貧しさは「キツネ持ち」などの迷信・俗信となって出雲地方を支配した。にわか成金で成功した人を「あそこの家はキツネ持ちだ」などと言ったのだろう。こんな迷信のため、結婚できないで自殺した若者もいた。
▽13 藤原藤之助先生には「私の綴り方」「児童綴方集」などの編著書があり、木次町史にも業績が紹介されている。芦田恵之助の影響を受けていた。芦田は明治39年ごろから「随意選題」の綴方教育を提唱して、あっという間に広まった。
▽15 青年は明治までは若連中、若衆組として、村の警備、消防、氏神の祭礼などを受け持っていた。明治維新になると、警察制度や消防組織などができて、青年たちのでる場がなくなった。こうなると、風紀を乱し、男女問題を起こす
わが国の補習教育の発祥の地は静岡県庵原村杉山部落。報徳の信者片平信明が明治2年に自宅の物置2階を開放して青年の夜学をはじめたのが芽生えだった。明治26年に文部大臣が視察し、「実業補習学校規定」が制定された。
▽21 横田町 同志社で学んだ岡崎喜一郎が父にかわって横田郵便局長になる。明治41年にキリスト教夏季修養会を開いた。明治44年、妹クニエが相愛幼稚園を開いた。「横田相愛教会。
▽57 加藤の後輩秦金蔵
▽65 「私は学ぶ以外に人生なきことを知りました。居並ぶ同級生諸君は、4年間学び得られた最新の知識技能をもって児童の前に立たれると思います。しかし加藤は与える何物も持っていません。ただ明日教える為に今日一生懸命学びます。明日は明後日教える為に学びます」
▽77 大正デモクラシーの新教育運動。自主的な意欲と創造力を高める。新教育の実践は、教育勅語と国定教科書で押さえつけられ無気力になっている教師たちにとっては、相当の勇気を要した。加藤歓一郎先生の初任校における自由画の実践は大正新教育の一環といえる。
▽83 竹下家は、幕末期に庄屋をつとめた。明治30年の土地所有は11町7反で、うち1町6反が自作地。大正15年には、自作地は変わらないが、総所有地が37町9反に急増し、大地主の地位を築く。
小作料が高く、農村は貧しかった。
▽89 〓加藤歓一郎の晩年の著作「奥出雲の地の塩」
▽96 賀川豊彦 労組を組織してストライキ支援。農民組合を組織して小作争議を支援。
▽130 昭和8年3月に国際連盟を脱退した頃から、さかんに非常時という言葉が言われだし、教育界あげて精神主義の方向へ走りだしていった(島根県近代教育史)
加藤は神社参拝拒否事件をおこし、西日登小学校へ転出となる。
▽133 内村鑑三 明治23年、教育勅語の発布があり、第一高等中学校で奉戴式があった。天皇署名入りの勅語に1人ずつ最敬礼。内村はためらって、ちょっと頭を下げた。ある生徒が騒ぎ出し、教員にも和する者があって、大問題になり、新しい妻を喪い、職を失い……
▽137 加藤は神社参拝を拒否。学校を辞めろと言われる。「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限リニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」という憲法28条を示して、やめぬと頑張った。
▽147 私の学級経営 当時の教育界には、郷土教育、公民教育、労作教育などが流行していた。加藤先生は、協同社会学級観に立って、教育の普遍的理想を「自律と協同」の教育であると提起した。……この時期、加藤先生の教育思想のなかに、以前と異なるものが入ってくる。「転向」。「協同社会的精神の陶冶」を掲げて「真の日本人」をめざす。……先生にとっての学級経営は、10年後の西日登において、現在の児童が青年団の幹部ないしは村の中堅人物となったその時を夢見つつ祈りつつ進めるものだった。
戦後の日登青年団のめざましい活躍〓は、西日登小学校での先生の薫陶があった。敗戦直後に青年団幹部だった西日登小学校時代の教え子たち(星野安雄、石田武吉、村尾繁夫ら)は新制中学発足にあたって「俺たちの村の中学校長には是非この人に」と加藤先生を招く運動の中心になった。
▽181 木次町は、青年運動や社会運動において、県下でも先進的だった。革命家加藤一郎も。
▽195 日登村の隣の温泉村にあった「全村学校」。昭和10年に経済更生村に指定。二宮尊徳の報徳思想が基盤。幼年教育、小学校・青年学校、青年団、女性青年団、軍人会。全村授業。この成果で昭和15年には特別表彰を受け、村の森林は見学者を集めた。しかし、戦争末期には強制伐採されて急激に荒廃した。報徳教育は戦争に利用されたが、二宮尊徳の思想は、経済と道徳が一致した、日本の生んだ偉大な民主主義思想である。戦時中からアメリカは「報徳思想は世界に冠たる民主的な思想である」と評価していた。
▽203 大東町の吉野精一氏は加藤の教え子。「真理を追求するものは、読書をしなければならぬ」が口癖で、「先生自ら当時でも、一日一冊の単行本を読んでおられた」
▽205 「雲南の灯〓〓」「昭和9年の頃から日本は大きく転換しつつあった。中央に国民精神文化研究所ができて……教員は次々と此処に集められて洗脳される。……郷土教育と叫ばれたのも労作教育と宣伝されたのも、やがて報徳教育と指令されたのも、いずれも方向はファッショであった。日本精神が高揚された。……かつての私なら目もくれず、信仰に向かって進んだのであったが。……次第に学校で重視され、あの講習にこの講習にと出されるうちに、……日本人であり乍ら日本文化も東洋文化もその理解が実に浅いことに気が付いた……昭和14年1月、国民精神総動員強化策が決定され……もはや昭和9年時代のような戦いは戦えず、神社に拝跪するか教員を止めるかの二者択一となった。教員を止めれば徴兵か召集にきまっていた……警察の特高が目を光らせている。誰相談する者もなく、孤独で校内にこもっていた」
▽214 隠者の如く生きようと思っていた加藤先生は、青年教師たちから担ぎあげられて、その中心になっていった。「……かつてのキリスト教に対する私の熱意は憂国の情に変わって来た。昭和維新論に熱が入るようになった。イエス・キリストの為には殉教をいとわぬ心情が、国の為には一切を惜しまぬ憂国の至情となった。もし私が信仰を知らぬなら、ここまで純粋に愛国心に生きることは出来なかったと思う。」〓「雲南の灯」
▽221 昭和18年、仁多郡阿井村青年学校長に招かれる(岩田町長の集落〓)。日本屈指の山林王である御三家の一人、桜井家がある。阿井村はもともと「教育の村」として知られていた。明治の学制発布により、桜井家所有の観音堂が校舎に利用されたり、昭和2年の校舎改築では、桜井家所有の山林から最も良質の材料を必要なだけ寄付された。
「皇農教育」が全県に紹介された。阿井に迎えられた校長は、その後県視学へと出世コースを歩むものが多かった。
▽234 青年学校は廃校となった国民学校下阿井分校を仮校舎として発足した。……
▽236 山本信夫氏 特攻隊に参加しようとしたが、加藤先生は満蒙義勇軍を勧めた。山本と草道一年、内尾正夫が海を渡らんとする直前に敗戦に。
▽239 40歳で校長だったのに、召集令状が来た。
▽241 昭和維新こそ急務と、国士気取りで県政・国政を論じた。極右団体「まことむすび」にまで参加した。
▽246 8月23日、松江では軍隊内の抗戦派と右翼行動派十数人が武装蜂起した。県庁を焼き討ちし、放送局を占拠して、局長に同志決起を呼びかける放送を強要しているさなかに逮捕される。(「島根県の歴史」内藤正中 山川出版)
▽248 敗戦後、最も早くに祖国の復興を訴えたのが、安岡正篤と南原繁だった。南原は昭和17年に「ヨーロッパ文化の更生と発展であるよりは、むしろその伝統からの決定的離反」とナチスを批判していた。南原の「祖国を興す者」が加藤の行き方を決定する第二の回心となった。
▽260 昭和21年3月、文部省の係官らの視察があり、「ここではすでにデスカッション・メソッドが実行されている」と係官は激賞した。
▽262 昭和22年 「君たちのように泣きながら体に刻んで学ぶのが本当の勉強である。世の中を動かすのは国民である。村を動かすのは村民である。学校を動かすのは生徒でなければならぬ」 青年たちは農村革命に燃え、木材工場、農機具修理工場を設立し、書店経営に着手する。4月の村長選では、加藤先生らの青年グループと、保守的な精力とが争った。学校への風当たりも強かったが、青年グループが勝利した。(〓岩田町長のあり方への影響は? それとも保守派に巻き返されて終わった?)
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