MENU

態度が悪くてすみません 内なる「他者」との出会い <内田樹>

  角川oneテーマ21新書 20060922

著者の本は4冊目。構造主義の立場からバッサ、バッサと斬るのが心地よい。
「今・ここ」の立場から善悪を判断するのではなく。「あのとき・あの場所」の条件を考えて、「今・ここ」との共通点を見つけ出していく。
この思考を悪用すると、「あのときあの状況では侵略戦争はしかたなかった」という歴史修正主義的な考え方になりかねないが、そのへんをうまく排していくバランスのとりかたが、テッサ・モーリス・スズキ氏に似ているような印象を受けた。よおわからんが。
構造主義って、あまり接することがないが、よくよく考えると、けっこう日常に根ざしていることに気づかされる。
たとえば老人ホームの高齢者と接するとき、「今・ここ」からその人を見たら「痴呆」でしかないかもしれない。
でも、「あのとき・あの場」でどんなことを思って暮らしてきたのか、と想像の射程を広げることで、1人の認知症(痴呆)老人が1人の「人間」だったことに気づかされる。
またたとえば少年が飲酒喫煙をくりかえしていたとき、「今・ここ」だけを見たらば罰するしかないが、その背景を知れば対応はかわるだろう。
「弁証法」との比較も考えさせられた。なにか議論するとき、建設的な議論のありかた、というのは弁証法的なものになる。
でも弁証法的な思考だけでは、「乗り越えてしまった過去」は忘れ去られる対象でしかなくなる。
弁証法は「創造」には有効だが、福祉や教育といった分野では構造主義的な思考が大事なのかもしれないな……などと考えた。
過去を歴史のなかに封印することなく、つねに活性化させ続けること、が大切だという。

---------抜粋・要約-----------

▽試合に負けたあとに監督が選手たちに「どうして負けたのかわかるか」ときく。正解でも「なぜ理由がわかっていて負けたのだ」と罰せられ、誤答しても罰せられる。ダブル・バインド。メッセージをどう読んでも罰することができるというコミュニケーションの条件づけは、その場に非対称的な権力関係を打ち立てようとする「上位者」にはきわめて有利。指揮系統を明確にすることを望む人は、戦略的に利用する。
▽喫煙は見ず知らずの人からもらってよい。液体または気体を共有するという友好儀礼を持たない社会集団は存在しない。「分割しえないものを共有する」儀礼を通じて、仲間であることの確認を行った。ビールをまず相手につぎ、注ぎ返すのも大人のマナー。
自分が欲するものは他者から与えられることでしか手に入れることができない。〓〓このルールを内面化したことで人類は「人間」になった。喫煙や飲酒が共同体の「フルメンバー」にしか許されないのは、健康を害するからではない。成人しか参列が許されなかった儀礼の起源の名残をとどめているからである。・・・共同体の存続よりも個人の健康を優先する人々が支配的になる社会において、人が今より幸福になるように、私には思えない。
▽論争できる、ということは、論争当事者間で前段階的なコミュニケーションが成り立っているのでなければならない。・・・私の論証に関して、君はその理路が理解できるはず、ということが前提にある。
▽中2の夏休みが終わって急に不良になる「9月デビュー」。
自意識の混乱、「いやこんなことが言いたいわけじゃない」「こんなことしたいんじゃない」自分自身の欲望との不整合感がぬぐえない。だから、思春期の少年少女のたたずまいというのは、ほんらい「なんだか煮え切らないもの」なのだ。口ごもり、言いよどみ、身の置き所がないというのが思春期のシャイネスの「王道」である。
ところが、9月デビューの即席不良少年たちは、できあいの「不良の型」にすっぽり収まることで、このシャイネスに「けりをつけて」しまった。そんな「定型への回収」をどうして「個性的」と思いこめるのか。
▽フリーター 大衆社会の典型的なメンタリティを体現している。その成員たちが「他の人たちが欲望するもの」を欲望する社会。「他の人が欲しがるもの」を手に入れることによってしか満足を得ることができないが、まさに、誰しもが同じものを望んでいるという当の事実が、彼らがそれを獲得することを構造的に阻止している。「やりがいのある仕事の正社員」になりたいと語っているフリーター諸君はそれによく似ている。
▽ベトナム戦争の時もアメリカは危機的だったが、「ベトナム反戦運動」というものがあり、公民権運動、ヒッピー・ムーブメント、ロックミュージックなどの「対抗文化」がかろうじてアメリカを支えた。いまのアメリカにそのような対抗的な支えは存在しない。
▽言語論的転回 ソシュール モノに名前がある、のではなく、名前が付いたときにモノは存在しはじめるのだ、と。
▽歴史主義と構造主義 歴史主義では、歴史は諸理論の当否の最終的な検証の場である。最後まで勝ち残った理論がもっとも真理に近いとされる。
レヴィストロース「野生の思考」において「弁証法的理性批判」が一刀両断される。・・・実存主義より新しく、実存主義より革命的な知見が登場したというフレームワークでメディアが構造主義の登場を語り始めたとき、実存主義は、自分で定めたルールに基づいて自分自身に敗北を告知してしまった。
「どこまで信用してよいかわからない私自身の世界経験」を慎重に腑分けして、そこから「信用できそうな要素」と「信用ならない要素」を識別し、「信用できそうな要素」だけに準拠して、「ほんとうの世界」について近似的に知ろうとすること。「信用できそうな要素」というのは、「今ではないとき、ここではない場所、私ではない人間」の世界経験と共通するような要素である。
▽系譜学的思考の条件
・「今・ここ・私」を中心としてものを見ることを自制せよ。
・「歴史はある法則性に従って、粛々と進化している」という物語を決して軽々に信じないこと。
・自分自身を含む風景を俯瞰する視座に立つ知性

歴史学者は、「始祖」からはじまって「私」に達する「順ー系図」を書こうとし、系譜学者は「私」から始まってその「無数の先走」をたどる「逆ー系図」を書こうとする。歴史学的に考えると、祖先たちは最終的には1人に収斂する。しかしおかしなことだ。私のn代前の祖先は2のn乗だけ存在するはずだからだ。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次