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不逞老人 <鶴見俊輔 黒川創>

 河出書房新社 20090922

 ゴーフル好きのかわいいおじいちゃん。みずからを「不良少年」と称し、父への反発と母へのコンプレクスをおもしろおかしく語る。「父だから母だから、兄弟だからという理由で話が伝わるわけではない。むしろ、父母兄弟だからこそ断絶が深い」という指摘はそのとおり、と思う。そんな当たり前のことが、「家族愛」を前提にする人の言説には欠けているのだ。「知」を究めると同時に、逮捕の危険をおかしながらべ平連運動をたたかった知識人・活動家とは思えないくだけた調子と、みずからの「もうろく」を楽しむ?態度にひきこまれる。
 アメリカ仕込みのプラグマティズムをもとに、戦中の軍国主義にも戦後のマルクス主義にも一種ひややかな目を注ぎ、でも単に「第三者」の立場に甘んじるのではなく「すこしでもまし」なものを目指して現実的に行動しつづける。
 「国家」という仕組みこそが戦争を生みだしたのであり、労働者・農民の祖国をうたったロシアの革命も、いったん成就すると、「国家」の延命を至上課題にした、と指摘し、「国家」を否定するアナキズムの立場に立つ。だがすべての統治システムを否定するのではなく、話しあいでムラを治めた結いのシステムに一定の評価を与える。「世界政府」も不本意ではあってもその存在を認め、しかし同時に「それに対して自分はなお不良少年として立つ」と言う。そういう粘り腰の現実主義・行動者の立場をとる。
 mistaken objectivity(取り違えられた客観性)に大学教授の多くはとらわれている--という指摘は、現在のアカデミズムの「客観主義」の甘さを批判している。そうでないところから戦後を見はじめたのは、羽仁五郎だという。戦後直後に対談したとき、羽仁からの最初の言葉は「敗戦の日、僕は牢屋にいたんだ。君はどうして僕を救いにこなかったんだ」というものだったという。まず、ある出来事があり、自分がそれに対して今何をやるかを考える。そこからはじめる--という現代史に対するプラグマティックな態度が、ほかの日本の歴史家と違ったという。
 「歴史にかかわる主体としての自分をもて」という彼の主張は今を生きる私にとってもきびしい。今目の前にある現実に対して何ができるか--を考え実践しつづけないといけないのだから。
 ベ平連の運動が家族の協力なしにはありえなかったことをあげ、かつての転向論が家族が運動の足かせになったとしていたことと対比する。そのうえで、「家族が足枷」という立場では、運動は衰退するしかないし、孤立のなかで浮き上がってくる貧困や憎悪のようなものを解きほぐせないと指摘する。「家族」の理解を得る過程があってはじめて粘り腰のプラグマティックな運動は成り立つという立場である。この主張は、今の「活動家」や政治家、家庭をうち捨てて働くサラリーマンもよく考えるべきだと思う。

===============抜粋・メモ==================
 ▽17 マリノフスキーにならえばphatic communion交話的言語交際。母親は息子の名前も忘れている。それを息子も分かっていて、お互いのあいだで、漠然と交わされる言葉であり関係。もうろくしてくれば、皆そんなふうになるんだよ。愉快なひとこま。
 ▽33 8月15日、「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ」という言葉は耳に入った。「残虐」などという言葉を日本国の天皇がよくぞ言えたなと思いましたね。非常に腹が立った。その理由としては、……張作霖の爆殺……
 ▽37 1951年に、京大医学部の学生たちが、占領法規違反で捕らえられるというのを覚悟の上で、日本で最初の大規模な原爆展を試みた。その中心が川合一良。
 ▽44 二重被爆「もてあそばれたような気がするね」
 ▽59 国家への抗い。国家の仕組みの欠陥は、アインシュタインもわかっていた。第一次大戦を経験したことで、ヨーロッパの知識人は身にしみてわかっていた。ロマン・ロランの絶望感はそれに対するもの。(労働者・農民の祖国をうたったそびえた・ロシアの革命も、いったん成就すると、「国家」としての延命を至上課題にする)
 〓組織防衛にはしる農協も同じ。組合員のためだったのが、組織存続が目的に
 ▽65 mistaken objectivity(取り違えられた客観性)に、大学教授の多くはとらわれている。そうでないところから戦後を見はじめたのは、羽仁五郎。対談したとき、彼からの最初の言葉は「敗戦の日、僕は牢屋にいたんだ。君はどうして僕を救いにこなかったんだ」というものだった。かれはmistaken objectivityにとらわれていない。まず、ある出来事があり、自分がそれに対して今何をやるかを考える。そこから始める。現代史に対する態度が、ほかの日本の歴史家と違っている。〓
 ▽77 小熊英二は、自分の親父はシベリア帰りだが、脳梗塞になり、戦争の話を聞くことはできないと思ったという。脳梗塞になる前から聞きたいと思っていても聞けなかったのでしょう。……ゆっくり話しあいたいという気持はあるんだけど、自分の親父であるという一点が邪魔をしてそれができない。父だから母だから、兄弟だからという理由で、話が伝わるわけではない。むしろ、父母兄弟だからこそ断絶が深い。
 ▽94 赤城徳彦の父の宗徳はえらかった。60年安保のデモ鎮圧に、岸信介が自衛隊出動を要請したとき、断った。樺美智子さんの母が亡くなったときも弔電を寄越していた。
 ▽116 13,4歳のときの相手は女給や水商売。
 ▽124 「世界政府の存在を認め、しかし、それに対して自分はなお不良少年として立つ」(デモクラシーとして完成されたものが、どこかにあるわけじゃない。ただ、少しずつでも世の中を作り直していく、そういう可能性に向けて、その方法は模索してみる値打ちがあるだろう、ということなのだと思います)
 ▽131 和子は、倒れてから和歌と学問が合一する。最後の11年間の著作がそこから生まれる。自分の仕事をひとつひとつ読んで著作集のあとがきを書く。あとがきを書くことで、彼女とっての水俣調査は、もとはかわいそうな人の調査だったんだけれども、あとでは自分自身が半身不随になった人間として、普通の人間や文明をそこに見る。そういう、自分の体験を通す見方になってくるから、すべてが新しい体験になっているんだ。
 ▽139 (いま同志社より立命館の学生のほうが活気があるのは、立命は4年間を通してキャンパスがかわらないからじゃないかということでした。若者どうしで何かを深めていく場がないと……)大学のまわりに喫茶店がなくなっているというのはかなりの変化かも。(紀州の田辺には、明治末に、南方熊楠がいて、毛利柴庵、荒畑寒村、菅野須賀子もやってくる……町がそれぞれの顔をもっていた。そういう近隣の力のようなものをつくりなおすことは、まったく不可能ではないでしょう)
 ▽150 「ルソー研究」「フランス百科全書の研究」という共同研究をへて、東工大に移り、若い大学院生くらいの人を集めて「転向」の共同研究チームをつくる。素人に近い、学問的なキャリアもない人たちによる手弁当の集まり。
 ▽158 谷川雁が「日本が持続してきた偉大なものは村だ」と言った〓。(その村がなくなっている)
 ▽164 ガンジーがいるテントに暴漢が入ってきてガンジーを殺そうとしたので、息子がたちあがって殴り返して、重傷を負わせた。「非暴力」といっている父の手前、まずいことをやったなと思ってわびると、ガンジーは「あのときお前が黙って見ていたら、お前はただの卑怯者だ」と答えた。非暴力直接行動というのは、蹴っ飛ばすくらいはいいんだよ。だけど、おふくろは生まれたての私は蹴っ飛ばしているからね、これはガンジー主義じゃないね。
 ▽170 戦時の「人民の記憶」が活性化したから60年の安保のとき100万人の抗議デモが起こった。いまは「人民の記憶」をもつ人がいなくなったように見える。(雨に濡れたらあかん、放射能で頭がはげる、と祖母が言った)それが「人民の記憶」なんだ。(放射能の雨が観測されたという記憶が民話のような形で根づいた)
 ▽196 (韓国とのあいだの竹島をめぐる領土問題について、外務省は、以前は、韓国側の主張もホームページで説明していたらしい。だけど、安倍政権のときから、韓国側の主張の内容は削除してしまったらしい。大本営発表のみにしぼるという発想)〓
 ▽213 (ベ平連合のような)日々の暮らしのなかでの具体的な行動を伴う運動は、家族の協力、同意を得なくては続けていけない。これ以前の転向論では、基本的には家族という存在が運動の足かせになったという観点に立っていた。それはそうなんだけど「家族が足枷」というのでは、その転向論はもう脈がない。運動の教条を個々の人間より上位に置いたまま、根ぐさりを起こしていくしかない。さまざまな孤立のなかで浮き上がってくる貧困や憎悪のようなものを、それでは解きほぐしていけなくなる。〓〓

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