岩波新書 20090911
学生時代にウェーバーを読んだときは、経済がすべてを決めるというマルクスとちがって、人間の動機とか心が社会の動きに及ぼす作用を大事にしてる人なんだな、くらいしか理解できていなかった。
「価値の自由」という言葉は客観的な科学としての社会学を意味しているのであり、「理念型」という考え方は、人間や社会の動きを抽象化して理論に扱うようにした、という程度の認識だった。「官僚は自らの価値観をもたず機械のように働かなければならない」と説いている、と理解していた。
早い話が、いかにもドイツ的で冷たい学者なんだな、というイメージだった。だから、社会変革への熱い意思を感じられるマルクスのほうがよっぽど理解しやすいし、共感を覚えた。
最近になって、ウェーバーのおもしろさがわかってきた。
神への献身のため禁欲主義徹底したことが資本主義に転じ、他人との関係を断って神との一対一の関係を重視したがゆえに、ほかの価値観に目も向けずに目の前の仕事をこなす官僚主義をうみだした。ついには「生きる意味」をも失ってしまった。そんなパラドクシカルな展開を論じる「プロ倫」は近代への批判的で悲観的な視点に貫かれている。
資本主義も民主主義も科学の発達も、人類にとって「運命的な力」として作用しているとして、そこから救済される道があり得るとする安易な考え方を拒絶した。マルクス主義的な楽観論も当然排除した。
資本主義はすべからく官僚化する運命にあり、官僚化は国民の政治的無関心をもたらす。古代イスラエルやローマでも、祭司階級が王権と結びついて国家的な権威を確立し、世俗階層を代表していた騎士や戦士を圧倒したときに官僚制がはびこり、政治的無関心をもたらしたという。そうした体制をライトゥルギー国家と呼ぶ。現代はまさにライトゥルギーに向かっていると指摘する。ヴェーバーからみれば資本主義も科学至上主義も宗教であり、ソ連などは典型的なライトゥルギー国家であると、ロシア革命直後に指摘していた。先見性がすごい。
徹底した悲観論であり、「展望」などは見えてこないが、そのおそるべき結末に挑戦することに人間の尊厳があるとウェーバーは説いたという。これは、「展望がないからこそたたかうのだ」と説いた魯迅に似ていると思った。
さて、日本をふりかえると、高度経済成長以前の農村は、まだカトリック的な呪術的なものをふんだんに残していた。一方、日本の資本主義の原動力になったのは、武士階級の宗教であった儒教だったのだろう。日本では儒教がカルヴィニズムの役割を果たし、官僚化と経済発展をもたらした。戦後、土地やアニミズムとの結びつきを断つ儒教的な倫理道徳が資本主義という宗教に転換し、一気に全国に蔓延した。その結果、カトリック的なものを残していた農山漁村の独自性が一気に衰退してきた。
ヴェーバーは、こうした資本主義の発展の先に「死の無意味化」が起きると書いている。まさに今の日本である。だからこそ、「死者」の再生、カトリック的なものの再評価が必要になってきたいるのではないか……と考えた。
このへんはおそらく森嶋通夫が論じているような気がする。再読してみよう。(以下、抜粋とメモ)
==============抜粋とメモ==================
▽価値の自由
4 社会科学者が提示できる現実の像とは、現実のある側面を抽出して純化した一種の仮装のビジョンにすぎない。「理念型」。そうである以上、社会科学が提供できる像は、確実な真理という資格はもたず、本質的相対的であるほかない。「価値自由」とは、社会科学の営みが「理念型」の提示でなければならないことを認めたうえで、他の「理念型」の構成に対しても開かれた態度で接するということ。
知の不確実性にたじろぐことなく、そこに生じる不安な状態に直面することをこそ訴える。
近代に成立した社会科学は、自然科学におけるニュートン力学をモデルとして、確実な知をもたらすものこそ、科学の知にふさわしいと主張してきた。ウェーバーはそうした近代知の限界を見通していた。神学としての科学の脱構築。近代科学は、中世神学の転位形態にほかならなかった・・・と。
▽15 マルクスも「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」では、経済を貫徹する法則性にとどまらず、意識レヴェルを組み入れている。が、マルクスの社会科学には、経済と独立した主観領域について、それを対象領域にすえる理論装置が欠けていた。イタリアのグラムシがヘゲモニーという概念をもちだし、それによってマルクスの方法上の欠陥を埋めなければならなかった。
ヴェーバーは、市場メカニズムの存立が可能になるための条件として、内面的な動機付けが必要と考えた。〓社会的行為の内面的動機づえに注目したため「行為の理論」と呼ばれた。行為を動機づける文化的意味への理解を中心に組み立てられていることから「理解社会学」とも呼ばれる。
ヴェーバーは、宗教によって一貫した行為動機(倫理的・道徳的生活態度)が社会的に形成されたとみる。
▽26 資本主義も民主主義も科学の発達も、人類にとって「運命的な力」として作用している、とする。「運命的な力」と述べることにより、そこから救済される未知があり得るとする安易な考え方に警告を発した。〓同時にこの力との全身全霊をつくした格闘が要請されていることを、アピールした。
▽34 「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」
ヴェーバーの合理化論をマルクス資本論の商品形態論とあわせ、同質性を明らかにしたのがルカーチ。マルクスの疎外論。
▽36 ニーチェは、キリスト教以後、堕落の道を歩んできたとする。いまや一切の価値の基準を見失うにいたったとみる。「職業としての学問」ヴェーバーも、ニーチェと同じくニヒリズムを積極的に引き受けようとする。神の死という事態を「日常的な事」として理解する必要を語ってやまない。……ニーチェ=ヴェーバー的な認識からすれば、近代的合理化の普遍性を信じる立場だけでなく、マルクスと唱和して未来の解放を約束する科学なるものも、「キリスト教倫理の巨大な情熱」によって目がくらまされていることになる。それらは科学ではなく神学なのです。
▽62
▽84 カルヴァンは、罪を犯したものの回復可能性を一切否定し、「神の計るべからざる決断」という考えを徹底させた。カルヴァン的な教説によれば、罪をおかした隣人は、寛大な救助の手をさしのべる対象ではなく、神の敵として憎悪と軽蔑の対象である。カルヴィニストがラディカルな立場に立つならば、快い人間的慰謝はもてない。前例のない個人的な孤立性のなかに置かれることになる。
古来、災いをまぬがれるため、祭りをしてきた。カルヴィニズムなどでは、宗教におけるこうした呪術的要素は徹底的に排除された。(グアテマラ〓)。こうして人間のなすわざによって魂が救われるという考え方を徹頭徹尾拒否することで、「呪術からの解放」となり、いまや社会関係は、神の意志を地上に実現する事業という一点のみ集中するところの、非人格的で事務的な合理性に向かって洗練されることに。カルヴィニズムは、人間的なあたたかさとかいたわりといったものときわめてかけ離れたため、非人間的な性格を帯びるまでになった、と述べる。
この非人間的な徹底性こそが、反権威主義や民主主義の傾向をもたらす。感覚文化を拒否し、教会のパイプオルガンなどを破壊する。「被造物神化」ということで聖者の像の首を落とす……(〓文化大革命、廃仏毀釈との共通点)
▽88 感覚文化を拒否する半面、数学や物理学は発展する。製品の規格化や生活の画一化もおこる。大衆的な生活からよけいな飾り物をはぶき、効率的、合理的、清潔ということを中心にして、大衆市場を拡張したが、これも宗教改革期の文化革命とつながりをもっている。典型的にはフォードのT型。この歴史的起源も宗教改革の被造物神化の拒否にさかのぼると言える。
▽92 カトリックは、司祭が魔術師として、赦免権をもつから、信者は、自分が救われるか否かという緊張を免除される。ところがカルヴィニズムの信者は、心理的緊張を免除されるチャンスを剥奪される。そこに、西欧近代の孤立した個人という、人格的自立性の宗教的根拠があった。
信徒たちは、きょうは肉の欲に負けなかったか、禁欲的労働によって神の道具として徹し得たか、と問いかける。これは、信仰上の貸借対照表を作成する作業であり、事業経営であるかのような合理性を帯びていく。個人の喜びや生を超越した合理性が個人の心的世界に浸透し、そういう規律が、個人の生活に根づくことになった。
▽119 生(レーベン)の奥底にひそむ無意識の力に直面したとき……
▽122 「職業人」だけしか完全な人間と見ない、倫理のあり方への不満。そういう態度の人間類型の典型である母親との緊張関係を経過したあとに、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を書いた。近代職業人の精神の歴史的相対化を見事になしえた。が、この段階では、どういう生のありかたがいいのか、新たな根拠は見つかっていない。
▽125 イタリアの人「この連中は、すべてをまったく成り行きまかせにし、<自分を超えよう>とはせず、闘ったり努力したりするようには見えない。ほとんどつねにより高いものを求め、当為を感じている北欧の人間たちは、ここでは故郷を見出せないだろう」(〓高度成長以前の農村=儒教の影響の少ない部分=南欧、つまり日本では武士による儒教がプロテスタントの役割を果たした、言えるのでは)
▽132 「運命」概念は、近代社会を成立せしめた契約の思想、権利概念とは異質。生の根源に由来する情熱の発現があってはじめてはじめて問題となりうる事象を対象にした。契約の思想は、旧約聖書に端を発するから根源に宗教的な超越性が宿る。ヴェーバーは、宗教的超越性の世界に対して、人間的情念の世界という新しい精神的領域を見だした。
……運命概念は、神の世界に対する人間の世界の対置に収斂していく。ほの暗い情念の力の噴出がもたらす、不確実な世界の現出を意味する。不確実な世界を避けようとするのではなく、その恐るべき結末と暗闇にあえて挑戦する事にこそ、人間の尊厳が宿されているとヴェーバーは考えはじめる。(〓魯迅と似ている。展望があるからたたかうのではない、という言葉)
▽136
▽147 ニーチェ アポロとディオニュソス 真の意味での闊達さ、明朗さは、安定した型式そのものによってではなく、生存の根底にとぐろを巻く不定形で不確実なものと直面しつづける勇気によってこそもたらされる。ニーチェのいう「高貴性の道徳」とは、この勇気をさしていた。
▽161 ペルシャ戦役でギリシャ最大権威のデルフォイ神殿は降伏をすすめた。ギリシャの都市連合はこの神託に従わず、奇跡的勝利をおさめた。
もしペルシャに降伏していたら……ペルシャはギリシャでも宗教的権威の力を借りて統治しようと試みただろう。そうなると、地方の神殿を主宰するだけだったギリシャの祭司は、ペルシャの保護のもとで権威を確立し、やがて形而上学的な宗教哲学を展開することになったろう。とマイヤーは言う。その結果、ギリシャ人の生活と思想を束縛し、その文化は、オリエントの場合と同じく、神学的・宗教的刻印を押されることになったろう。
ペルシャは、支配下の民族の神を逆に尊重し、統治の下請けをさせることで帝国支配を維持した。
これと対称的なのは、帝国支配が単一の普遍的救済宗教と結びつく古代ローマ。日本も仏教によって、諸地域の神々を超えるような統治を行ったといえる。
▽167 ウェーバがすでに確立していた「教会と宗派」「祭司と預言者」という図式。前者がカトリック、後者は宗教改革運動。
「祭司と騎士」は宗教的な教権制と、世俗的生活態度を貫く社会層の対抗関係。普遍的救済に向かうのではなく、運命的な不確実性に立ち向かおうとする社会層としての騎士的・戦士的市民層の対抗という図式。
騎士的・戦士的市民層は祭司階級の権力的支配に圧倒され、神政政治的体制が勝利する。この経緯をヴェーバーは退化として描きだした。
▽183 古代社会の特徴を、家父長制的な家族経済(オイコス)とする考えから、対国家奉仕義務のための強制組織(ライトゥルギー)とする考えへ。
エジプトはライトゥルギー国家で、祭司層が重要な権力的位置を占める。……ロシアの農民と同様に、オリエントの諸国民には「根深い政治的無関心」が広がっている。ヴェーバーはこの政治的無関心の原因を、軍事貴族=戦士市民層の死滅と結びつけていた。
現世の政治に一切期待をよせないパウロ型のキリスト教は、古代ローマ社会に広がっていた政治的無関心を背景としていた。
▽187 初期のイスラエルには、武装自弁でたたかう貴族門閥や農民戦士がいた。政治的無関心はまだ広がっていなかった。だが、祭司階級の助けを借りた王の権力集中が進むにつれ、軍事貴族=戦士市民は自律性を失っていく。
ギリシャ 王権は弱められ、最終的には防衛義務と政治権力は「武装自弁の農耕市民」の手に移された。ギリシャ文化の悲宗教性は、オリエントの宗教的文化と対照的。
▽193 ペルシャ戦役でギリシャが勝って、オリエント型ライトゥルギー国家になる道をいったんは克服した。しかし、ポリス世界が帝国化すると、支配のもとにおいたはずのエジプトからライトゥルギー原理が浸透し、その原理による普遍的統合が完成する。キリスト教がローマ帝国の国教になったのは、ローマ帝国がライトゥルギー国家になった瞬間である。
▽194 官僚化する現代社会=ライトゥルギー国家の近代版。〓「『組織的秩序』が今日のドイツの市民の旗印である。たとえ彼が社会民主主義者でも、たいてい『組織的秩序』が彼の旗印である」。社会主義はプロレタリアートを解放する体制ではありえず、むしろ官僚制的組織化を完成させる体制なのだと論じた。〓
資本主義じたいが、全面的秩序化への道を歩んでいるという一般的傾向に警鐘を鳴らした。「古代におけるように現代においても、社会の官僚制化が、いつか将来において資本主義を抑圧するものとなるであろうことが十分に予期される。そこにあらわれる秩序は、ローマ帝政時代を特徴づけ、エジプトの新王国とプトレマイオス王朝の支配とを特徴づける組織と原理的には類似したものだろう」
▽215 カルヴィニズムの予定説は、救いの確証を得るための魔術的手段を一切排除してしまったために、ひたすら自らの職業労働に専念することによってしか、内面的な不安を排除することができなくなった。こうして合理化された分業組織の発展に照応する合理的生活秩序が生みだされたが、この生活秩序は、身体的技能の発揮に伴う喜びという中世手工業にみられた要素を払拭してしまう。労働はいまや、功利主義的な意味での効率性に即して評価されるものへと一元化された。こうして経済の領域は、それ自身の法則性によって運動する特殊分野として独立性を獲得した。〓(石積み職人の誇り、そういうものをなくしたのがマネーの氾濫する現代社会)
▽218 近代の合理化は、政治を自律的な領域へと浮上させ、宗教から自立した芸術に芸術至上主義という新たな理念を与え、知性において、意味なき機能的因果律の支配という世界像を造形させる。こうして近代の合理化は、宗教以外に人間が奉仕すべき多数の神々を台頭させる結末を迎える。
「現世内的禁欲」は、自己破壊的なエネルギーをその内に抱き込んでいた。合理化のパラドクスに陥る道を切りひらいたものこそ「まさしく現世を実践的・倫理的に合理化しようとする宗教倫理の努力に他ならなかった」
▽223 近代化の行き着く果ての「死の無意味化」 近代以前の文化は、死そのものをも無意味とはせず、文化的含意を与えてきた。しかし、合理化のゆきついた果てにおいては、死は文字通りに生物学的レヴェルでの終焉というむきだしの姿をとって訪れることになる。そのことに現代人は深い失望感を味わう。
▽224 「近代の呪われた運命」に対抗するため、「知覚不能」な身体的領域に目を向けざるをえなくなる。この領域は、あらゆる文化的型式になじまない原初的で不定形な場所であり、記号的・匿名的な型式の支配に対して反乱を起こす拠点であろうと考える。
→カリスマ、という不定形な力に注目する。
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