講談社文庫 1090810
一部の人にしかわからに固有名詞やテクニカルタームがたくさんでてくる。エルビスくらいはまだわかるが、ディランの「ナッスヴィル・スカイライン」と言われてもわからない。「ギムレット」も酒を飲まない人には知られていないだろう。「レゾンデートル」と言ってピンとくる読者は多くあるまい。
読者をわざと限定して、「私だけが共有しているんだ」と読者に思わせる効果があると内田樹は書いていた。
主人公はやけに理屈っぽい。空気のように何者にも属さず、やけに悟りきったような言葉づかいをする。女と簡単に出会って、食事をして、酒を飲み、いとも簡単に寝る。そして別れる。けっして現実感のある人物描写ではない。
これほど読者を限定し、非現実的な人物描写をしているのに、ある種の懐かしさや共感を覚えてしまうのはなぜだろう。
紫煙がゆれるバーの描写だろうか。女とはじめて手がふれあうときの描写だろうか。クーラーのない下宿で汗をかいた冷たいワインを飲みながらビーフシチューを食べる情景だろうか。
それだけじゃないなあ。
「ピンボール」で主人公と一緒の下宿に住まう双子の姉妹にいたっては、名前の区別さえつかない。呪われた人形か、キョンシーのように個性がない。過去もまったくわからない。死体といっしょに住んでいるようなものだ。
この不気味な非現実感はなんだろう?
……そんなことを考えてしまうほど、現実と解離しているのに、ついつい読み進めてしまう。
友人の「鼠」はこの2つの小説では生きている。が、次の「羊」では生きている人間としては描かれない。つまり死ぬのだ。
現実社会における死者との交流を描くホラーとしての一面があることに気づく。
そういえば、村上の小説では次々に人が死ぬ。ピンボールの主人公の元彼女だった直子も死んでいる。生きている私たちに対する「死者」の影響を描いているのだと思う。内田樹の解説を読むまではそのことには気づかなかったが。
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