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庶民の発見〈宮本常一〉

講談社学術文庫 20090907 

 ▽13 昭和19年、民俗採集の旅行ができなくなったので、奈良県の田舎の中学につとめることに。生徒たちが敗戦の日に失望しないように、戦争の状況についてよくはなし、戦場における陰惨な姿について毎時間はなしてきかせた。……「私たちは敗けても決して卑下してはいけない。われわれがこの戦争に直面して自らの誠実をつくしたというほこりをもってほしい。……現実を真正面から見つめ、あたえられた問題をとくために力いっぱいであってほしい。そういう者のみが敗けた日にも失望することなく、新しい明日へ向かってあるいてゆけるであろう」
 ▽18 西志和の丸山さんは、4里の道を、毎夜走って学校に通い、1,2時間教えてもらうと走ってかえった。百姓の血の中には野の草のような根強さがひそんでいる。自分の村の湿田も改良すれば乾田になることを知った。……稲を刈った後の田を実習地として暗渠排水工事に乗り出す。……何年かあとに400町歩の湿田が乾田に。乾田になると、夏の用水がたくさんいる。農作業の労力をはぶくため近くに家を移す者も。土地を自分のものにしたくなって、小作から自作へしだいにきりかえられる。乾田になると農道もつけやすい。車が通る農道にするため、耕地整理がはじまる。余裕ができると台所も改善したい。簿記もしないといけない。……村をよくしようとする仕事ははてしなくつづき、ついに丸山さんは村長になる。
 ▽21 農民を頑迷といい封建的というならば、自らの理想とするところを農村という場において実践するだけの熱情と勇気と責任と持続性をもってもらいたい、と農民を非難する人々に要求したい。
 ▽25 石工 「仕事をやっていると、やはりいい仕事がしたくなる。二度とくずれないような……つきあげてしまえばそれきりその土地とも縁は切れる。が、いい仕事をしておくとたのしい……おれのやった仕事が少々の水でくずれるものかという自信が、雨のふるときにはわいてくるものだ。結局いい仕事をしておけば、それは自分ばかりでなく、あとから来るものもその気持ちをうけついでくれるものだ」
〓商売や仕事とは、カネだけではない目的がある
 ▽32 生口島 木を切って裸になり、土の流亡がはげしい。……ミカンは大きな発見だった。ミカンを植えることで白っぽい島が青くなってきた。冬も葉がある。土砂降りの雨が降っても肥料をもってゆくことは少なくなったし、畑の畦のくずれも少なくなった。
 ▽43 生活改善運動の結婚改善 簡素化。しかしもともと庶民の結婚は簡素だった場合が多い。奈良県十津川村では、3,40年前には結婚の話がきまると、仲人が女を迎えにいく。女は、こざっぱりした着物を着、わずかばかりの着物を包みに入れて婿の家へいく。嫁の姿が見えると「嫁がきたぞ」と近所へふれてまわってあつまってもらい、いろりのほとりで茶をくんで、嫁の披露をして、女はその家の者になったという。
 嫁入りが簡単であるということは離婚をもまた簡単なものにした。2,3度結婚するのは瀬戸内海地方ではめずらしいことではなかった。離婚は、女のほうから出てきたことが多い。
 ▽45 ヨメは1年に2,3回、センタク日といって里帰りをゆるされた。東日本ではムコの親へ遠慮しなければならないことが多かったが、結婚式の簡単なところではヨメの里帰りはかなり自由だった。このような差は、男の戸主が権力をもつ家父長制と、女の血筋がつよくみとめられる母系制の差にもとづいているようだ。前者は、武家政治の下で完成したが、後者は生産を中心とした農耕社会で発達したといわれている。
 ▽61 
 ▽63 均分相続にすると、財産が小さくなり、貧乏へおいやられる。九州や四国山中のように、隠居した親が次男三男のために土地をひらいてやるという方法もあるが、ひらくべき土地があるところについてのみできること。結局は人口を制限するか、次男三男を村から出すほかにない。
 出稼ぎの村では、農業の進歩が後れる。男が大工や漁業などで外で働いているところでは、女が家の仕事をきりまわすが、そうした土地の田畑はまるで庭園のように美しい。つくられているものは稲・麦・サツマイモなどで、お金になりそうな園芸作物や果物はすくない。畑に園芸作物のないようなところなら、男が出稼ぎに出ているとところとみて、まずまちがいない。女は勤勉だが、くふうが足り泣き合った。何よりも世間がせまいということからきていた。
 ▽79 中国西部、北陸、伊勢湾周辺、北九州に人口増加がいちじるしいのは、たんに生産の増大によるものではない。なぜなら江戸時代においてすでに多くの出稼ぎ者を出していたから。江戸時代の農村では産児制限は常習だったが、この地方ではさしひかえられていたとみられる。この地帯が共通して浄土真宗の盛んにおこなわれている。産児を殺すことが罪悪と考えられる世界では人口はふえて、やがて生産と生活のバランスがとれなくなる。
 ▽86 
 ▽105 伊勢参り 古代から中世は熊野参詣がきわめて多かった。それが伊勢へと転じたのは、ひとつは伊勢から暦を出したことにあった。古くは京都から出されていたが、江戸時代になって幕府で貞享暦がつくられると、それが伊勢に送られ、そこで版行して全国にくばられた。伊勢暦は百姓暦。農民の知恵は、この暦によって日常生活をどのようにうちたてていくかというくふう……
 ▽114 女たちのはなしはたいてい村の長老たちに通じている。真に困ったときの相談相手になっていた。そういうことによって村の統制はとれていた。長老は決して大家の旦那ではない。百姓女たちの相手になる程度の家の老人で、ともに働き、ともに苦しんできた仲間である。それは村の政治の外に立っている。井戸端会議はたいていそういうところへ直結している。(〓村上春樹 人知れず善を積む人)
 ▽127 大阪の郊外が農具の上で地方よりおくれていた。昭和33年に農村部は蛍光灯が普及していたのに大阪に近づくにつれて農村と思われるところは電灯が圧倒的。蛍光灯は4割に達しない。
 都市近郊のこのような現象は、都市の近代化が逆に農家を圧迫することになっているためではないか。共同体的なものをやぶられた農家一戸一戸の弱さをあらわしているものではないか。
 ▽130 講組などの発達した村々で、会合にでる回数は1年に6,70回300-400時間に達する。こうしてお互いに気心を知りつくしていく。お互いに人間的に知りあおうとする努力は、今日よりもっとつよかったのでは。
 明石海峡の明石側と淡路側は400年近い争いがあった。明石のほうが数でまさるから、淡路側は4か浦で四カ浦組合をつくって明石側に対抗した。
 ▽141 落人の村。周囲の村とあまり通婚してないし、往来もしていない。なかには川上から椀がながれてきたので、人が住んでいることがわかったという村もある。川下から谷をさかのぼったのではなく、反対側の谷をのぼり、山をこえて谷のいちばん奥へ住みついたものである。川下からのぼってきた人は農業を主とするに対して、谷奥のものは狩猟や林業で生計をたてる場合が多かった。
 木地屋やマタギ 山から山をわたりあるく。山中の木の下やくさむらにまつる者のない墓を見かけるが、たいてい山の漂泊者のものである。砂鉄を掘ったり精錬して生計をたてた仲間も山の中を移動してあるいている。
 焼き畑。九州山脈、四国山脈、中国山脈の北斜面、紀伊山脈、飛騨・白山、関東山脈、奥羽山脈の両側。
 ▽154 山林地主の多くは開墾地主。山林の利用がおこると、村の周辺の山をも全部自分のものと心得て管理した。下筌ダムの事件で有名になった山林地主の家も、古い開墾地主であった。その下にまずしい農家が群がっている。
 ▽159 米良
 ▽165 酒の消費量がその地方の気風を物語る。広島県は日本で酒の密造がもっとも盛ん。贈収賄事件が最も多いのが広島県。町村長や議員、村の有志の人で、農業で生計を立てている人は他府県よりかなり少ない。村民大衆から遊離した人によって地方政治が牛耳られている。そういう世界ではかけひきが強くなり、かけひきが強い人が政治家らしくみえてくる。旧地主層がはやく崩壊し、出稼ぎ・商業などによって新興階級の力が強くなっているところで、その人たちが村政にたずさわるようになると、酒・汚職がからみやすくなる。新興階級が実権をもつには、金と酒宴によって民衆や官庁の人の心をつなごうとする。
 ▽183
 ▽186 われわれのみつけたいのは民衆の中にある生きるためのエネルギーと、その生き方である。それは昔も今も共通した法則があり流れがあったと考える。農民たちは、与えられた環境をあたりまえと思っていた。しかし周囲との比較がおこると、疑問もわく。そうした場合に大切なのは、まず自分たちの力を正しく知ることであった。それには比較と実験に待つことが大切であった。旅が尊ばれたのはそのためであり、経験の尊ばれたのもそのためである。
 同時に、一人一人のもつ制約・限定の自覚も大切だ。
 ▽201 物忌み 全体から特定の人が担うようになると、全体は解放される。
 ▽214 村里の教育 遊びで覚える仕事 阿蘇の山村では、刈草をはこぶ牛の背にも荷車にも、必ずといっていいほど小学校通学前の子どもがのっていた。
 田をうちおこして畝たてができ、肥桶をかつぎ、牛馬をつかうことができるようになれば一人前で、16,7歳でその能力をもつ。
 ▽220 農民によってできている若者組の条目のなかには武士に対する服従を誓った条項はみあたらぬ。そこには儒教以前のモラルのあり方をみることができる。そこで秩序維持の中心をなしているのは、中部地方の海岸や近畿・中国・四国にあっては年齢階級であり、家柄はほとんどみられない。
 ▽226 寺子屋 文化-安政(1804-1860)の50余年に急増。政令の伝達や商業のために必要だった文字が、一般民衆にも必要になってきたから。村の辻に高札がたち、田畑の売買に証文が必要になり、商店で買い物をするにも通帳が用いられる。
 ▽227 女は明治20年ごろまで、ほとんど学校にゆくものはなかったが、明治39年には就学率は96%に達した。
 学校教育によって、技術伝承がおろそかになるおそれがあり、長いあいだ漁民の抵抗がみられた。……学校教育は国家の要望する教養を国民にうえつけることだった。学校における道徳教育が形式主義にながれ、村里のそれが旧弊として排撃せられつつ今日にいたった。明治以来の日本人の道徳教育が、民衆生活の中から必然の結果として生まれでたものでなかったということにおいて、公と私のはなはだしく不調和な、道徳に表裏のある社会現象を生み出した。
 にもかかわらず、文字による教育は、人々を記憶にもとづく伝承から解放し、思考と探究を自由にし、国全体の文化を飛躍的に高めた。
 学校教育そのものの中に、日常生活の機微について教えることはなかった。祖父母が孫に、親が子に、村民一人1人に規範として教えるより他に方法がなかった。昔話や盆踊りは下品であるといって学校でとめた例も少なからずあった。
 ▽243 現実の生活のなかに過去を生かすのは、それが生きるための具体的な規範になったから。しかしいったん書き記されると、それは動かないものになる。その固定化が逆に伝説--民衆の歴史--を固定化し、生活と遊離するようになった〓
(物語による伝承 構造の伝承 文字がそれを壊す一面 レヴィ=ストロース)〓
 民衆の生活感情を育てあげていったのは、昔話だった。昔話は伝説や世間話のようにはげしい変化はなかった。しかしこれも、文字普及で特定の話者を必要としないまでになって文字を解さない子どもたちのための話になりさがった。
(「昔話」と「神話・伝説」とちがう)
 ▽246 山代巴「民話を生む人々」
 ▽260 明治・大正へかけては、中央のシステムに従わされるために、自分らのもてるものは旧弊・陋習とされた。戦後はまた、封建的という言葉のもとに、知識人から否定されようとしている。……民話は農民が自分たちの生活を愛することによって保持した。しかしそれを知識人に話すと笑われるのである。ただし悲惨な話や抵抗した話だけはとりあげてくれる。……私の周囲の百姓は保守的とはいえない。しかし前進できないいろいろの枠が自分たちをしばっている。生きてゆくためにはやむをえないものだった。そういう苦悩を静かにきき、ともに考えてくれる人に接する機会をもたないままに、農民の世はうつりかわろうとしている。
 ▽264 村里における民衆教育は、童謡・昔話・俗信・俚諺・ナゾ・家の伝記・村の口碑などを通じてなされた。文字をもたない世界にあっては言葉は神聖なもの。……村里における教育は、一つの村落共同体が共有している知識をまず身につけることであった。それは村里の中に存在する言葉を覚えることからはじまり、村落のもつ人生観を学びとることが最初の条件とされていた。民話のなかにはたぶんにそのテキスト的な要素が含まれていた。昔話は何度もくりかえされ、喜ばせたり悲しませたりするところもきまっていた。おなじことをくり返してきくのは、それがある安定感を与えてくれる喜びであった。
 そしてそういうくり返しが一方にあると、一方では耳新しいものが新鮮なひびきをもった。いわゆる世間話だ。この場合、自分たちに縁のないものは容赦なく忘却していった。自分に必要なものだけを身につけた。文字をもたない世界では伝承すべき知識には取捨選択が必要であり、それは伝承され記憶せられた知識が基準になった。
(構造主義〓呪 )
 ▽273 室町時代の太平記などの戦記物は、語り物ではなく読み物として存在した。一般民衆のものではなかった。民衆に反響を呼ばなかったのは、彼らが戦争につながる生活はほとんどなかったから。
 ▽274 文字をもつ人たちは、かつて文字をもたない社会構造の中に生きた人々に向かって、たえずその旧弊と陋習を攻撃してきた。今日ではそれが封建的という言葉におきかえられている。そしてしかも儒教や仏教やその他の外から示されるモラルに対して、自らはその生活に即したものをたえずもとめてきた。そうした雰囲気が生み出したものが世間話とよばれるもので、人と人を共感でつなぐ大きな役割を果たした。
 ▽279 文字なき社会、とくに農耕社会にあって尊ばれる者は神の声、自然の声をきく能力をもった者だった。……巫女たちは文字のない社会では尊ばれるが、文字をもつものの支配、つまり政治的支配がおこってくると、それにつながらないものは零落しはじめる。

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