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秋の蝶を生きる 山代巴 平和への模索

 佐々木暁美 20060815

 苦しくも終戦の日、小泉が靖国参拝をしたというニュースがふりそそぐなかで読了。
 いったいこの国はどうなってしまったのか。なぜこうなってしまったのか。どこで歯車が狂ったのか。
 戦前、比較的自由だった大正時代がすぎ、昭和がすすむにつれ、寛容性は次々に失われていく。
 山代巴は広島の農村の比較的豊かな家に生まれ、画家をこころざす。家は没落するが、東京にでて絵画を学び、そこで丸木俊らに出会った。
 芸術を通して労働運動にめざめ、活動家の夫と結婚し、下町に住み込んで劣悪な環境の工場で働く。次々と女工の同僚が病に倒れる工場で、天文や文学を学びあう場をつくり、心を通わせる。
 京浜地帯は、大正末期から昭和初期にかけて、労働者の組織化が進み、ストライキが相次いだが、山代が住み込んだころには、右傾化がすすんで弾圧がくり返され、「固く蓋を閉ざした蝸牛のように」沈黙していた。
 そんな暗黒の時代でも、「未来のため」捨て石になろうという人がいた。
 たとえば「協立機械製作所の奥さん」は「今は誰もかも天皇様のために戦争へ戦争へと流れているけれど、いつか民衆が主人公になってやらねばならぬ時が来ますよ。そのとき、人民全部が天皇の方に向いていて、筋を貫いた人が一人もいなかったら、闘いの柱がないことになりますからね。警察が非転向だと言って黒星をつけるような人は、守らねばならないのよ」と言った。
 「秋の蝶はただじっとして死んで行くのではなく、やがて来る春のために渾身の力をふりしぼって産卵して死んでいくのだと思えるようになった。ファシズムはいつわれわれをさらうかわからない。許されている時間に、氷河の底に生き残る自由の魂の卵をうんでおかねばならない。まさに秋の蝶の運命なんだね」と夫の吉宗は語った。
 俳優や演出家なども検挙され、議会政治から戦争支持一色の翼賛政治へと大きく転換していく1940年、山代夫婦も、日本共産党再建グループ事件で逮捕される。これが夫との永遠の別れとなった。
 獄中では、最低辺で生きてきた女たちと出会う。働きづめに働いて子どもを育てたのに、夫が女をつれて家にもどってきたため、家に火をつけた女がいた。唯一愛する息子は戦地にでて消息知れずだという。貧しさ故に罪を犯すことになった女性たちと心を通わせ、感性を研ぎ澄ませていく。
 戦後、解放されると、被爆者の聞き取りや農民組合の活動に邁進する。封建的な農村に生きる女たちの生き様、民話、民衆の文化をつづっていく。底辺の女性たちの家に泊まり込み、書くことを励まし、学びの場をつくり、その力強さに励まされ……。
 まさに「地の塩」の人生である。
 徹底的に草の根からの活動であったが故に、共産党から追い出され、原水禁運動からもはじかれ、それでも節を曲げない。
 農漁村がはぐくんできた「豊かさ」を徹底して掘り起こした宮本常一と、農山村の封建体質とたたかう「民主主義者」の視点をあわせもつ山代巴の大きさと人間くささが行間からにじみでてくる。。
 どんな逆境にあっても、語りあい、体験をつづり、理解しあい、社会の矛盾や構造に気づき……といった取り組みを生涯つづけてきた。その活動は時代の奔流に比べれば無力に見えたが、たしかな種子となってばらまかれていた。
 では、今、なにができるのだろう、と思う。
 いま私たちの世代がつどったとして、いったい自分たちの日々の暮らしの何を語りあい、そこからどうやって「矛盾」に気づき、気づいたとしてもそれをどうやって行動に結びつけるのか。
 そんな疑問を胸にふつふつと抱えながら読みつづけた。



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 ▽プロレタリア作家同盟 解散に追い込まれ……一方でプロレタリア文化連盟結成。美術家同盟の通信員になる。「通信員になるなら女工になれ」と言われ、工場に就職する。共産党に入党し、オルグとして、女工を集めて裁縫塾を開いたりした。
 ▽夫の吉宗「自分たちの間違いは、上から革命思想を押しつけたことだ。大争議のとき、自分の飯場の人たちはなるほど革命的な言葉を使うようにはなったが、胸の奥では飯場と運命をともにするという古い主従関係の意識は変わっていなかった。それでは暴力団や警察、会社が束になってかかってくる闘争に勝てるわけがない。……これからやらねばならない第一は、沈黙を強いられている労働者に「質問の出る空気を醸し出す」ことだと思うのだ。質問がでたら、どんな些細なことでも分かりやすく答えることだ」
 「僕のやりたいことは、職場を最後まで砦としなければならない人たちの中から質問が出て、それに答えられる勉強会であって、その職場から出てひとりだちしようというような人たちのサークルにまで手を伸ばそうとは思っていない」
 ▽殺風景な灼熱の工場。水滴が落ちるのを見て、その下に桶をおくことに。そうしたらそこがみんなのたまり場になる。トマトやキュウリ、ナスを浮かべたら、美しい静物画のよう。みんながみとれるほど。
 (ほんのちょっとしたことで人間性が回復し、笑顔がよみがえる)
 ▽「どうして星に名前があるのかしら。誰がつけたのだろう」という女工の疑問にこたえ、吉宗が「星の世界」というペン書きのノートをつくってくれた。「これを写して持っていたい。お嫁に行く時、持って行きたい。貸してね」……とみんなで書き写すことになり、豊枝の家い集まるようになった。(……それが運動に育っていく)
 ▽吉宗の手紙「極微世界の自然法則」 「革命」の語すら使えなかった時代に、吉宗は物理学における革命の勝利と重ね合わせて革命運動の展望を巴に伝えようとしたのではないか……(知性の力、強さ)物理学の解説論文が、看守の意識を変革させることになる。
 ▽獄中での巴の手記について ……マルクスの原則を放棄せず、転向の証明に不可欠だったー日本は万世一系の天皇の統治する神の国ーとする国体論にも言及することなく、両親への「孝養」という一点に絞っているなど、ぎりぎりの思想闘争を行っていることが……
 ▽中井正一は巴に「刑務所の寒さと飢えに何を歌って耐えてきた?」と聞いてきた。巴は「ミケランヂェロ」の冒頭の言葉「ミケルアンヂェロは、いま、生きている。うたがうひとは『ダヴィデ』を見よ」。あのひとくさりの言葉がくり返し出てきたと答えた。中井は「僕もそうだ。1939年に釈放されて、途方にくれているときに出版され、勇気づけられて戦後の準備ができた」と言った。
 ▽農民組合の統一と分裂 追放。
 ▽民話の勉強 即興で歌をうたい、返し、また歌う。暮らしに根づいた文化。
 ▽中井正一 国会図書館の副館長に。日本の図書館制度の起訴を作る。中井の理論を受け継いだ「図書館の自由に関する宣言」 資料収集の自由、資料提供の自由、利用者の秘密を守る、すべての検閲に反対する、図書館の自由が侵されるとき、団結してあくまで自由を守る、と宣言。
 ▽峠三吉との出会いと死。 「ちちをかえせ」の原型となる詩「…髪が抜け落ち斑点がでて、死ぬときめられながら手当とてなく、ぢりぢり死なねばならなかった、わしをわしの命をかえせ…」 より生々しく具体的な描写。
 ▽「原爆に生きて」は戦後の広島で初めて明らかにされた被害者自身による被害実相であり……
 ▽(宮本常一との共通点)民話にふれることで、活字世界の人間が失った豊かな想像力を労働の中に見た。民話を伝える人々の言葉の底から、自由への精神を引き出すことを教えてくれたのは中井正一だった……
 ▽「荷車の歌」セキは苦難の人生をふり返るとき、自分には「人を分かろうとする」最後の宝があると思う。人の苦しみを分かり合おうとせずに、どうして幸せになれよう。自分が自分を大切に思うように人をも大切に思う道、それが平和への道なのだと自得するのだった。……映画化。農協婦人部がカンパを集める自主制作だった。まだ組織化されていない地域の会員を把握して、組織づくりをすることに大きな主眼があった。
 ▽(生活をつづる運動)高度成長に伴い、書き手の生活の変化とともに活動が息詰まってきた。戦後、熱心に台所改善や結婚式改善に取り組んだ。その多くは簡素化だったが、オリンピックが開催されるあたりから、工場へ働きに出る主婦も笛、家は電化製品で埋め尽くされ、結婚式も派手になっていった。……そのうちしだいに本音も言えなくなってしまった。……1人が1冊ずつの生活記録を本にすることを目標にした。このため山代はその人の家に1年半住み込んだり、半年すんだりして、日々の生活を自らも体験して、どこで書けなくなっているのかなど、討議を積み重ねて、書き進めたのだった。
 ▽原水禁運動、被爆者運動が組織化されるにつれ、名士や特定集団が組織活動を牛耳るようになり、声なき声に耳を傾け、訴えをくみ上げて組織をつくってきた川手健のような無名の若者は排除されていく。第1回世界大会成功以降は、運動のすべてが東京にある中央組織によって決定され、山代や川手たちが試行錯誤しながら討議を重ね実践してきた運動ではなくなってしまったのだ。
 ▽生活記録活動は、「山びこ学校」に代表される子どもたちのつづり方に刺激を受けた主婦たちが、身のまわりのことを書き、置かれている場所を確かめ、自己変革を目指そうとした運動である。昭和26、7年頃から全国に広がり……
 ▽若い人の中には、演劇サークルや読書サークルで活躍した娘さんもいた。この人たちは、戦前に娘時代を過ごした人とは違って、選挙の時などトラックの上から大衆に呼びかける演説も出来た。しかし結婚すると袋のねずみで、1票の自由さえなく、生活記録を書きながら家の中の人権に目覚めて袋をかじろうとするが、夫の後ろに控えている村の保守的な壁にはとうてい歯が立たない。まして愛国乙女として育って国防婦人会に組み込まれて戦争にまるごと協力してきた嫁さんたちは……
 戦争で押し流されてきた人々が、自分の流されてきた位置を客観的に見つめるには、一貫して戦争に抵抗してきた人物の記録をつくってその人を座標にすえ、それに照らしながら学び、自己客観視の訓練をして実践に取りかかろうと決意した。座標軸として丹野セツ(松本清張の本にも登場)を選んだ。
 山代は、従来の生活記録運動には4つの目がかけていたと整理した。1=権力批判の目、2=家族と地方権力を見る目、3=思想と感覚が統一されているか否かを見抜く目、4=思想のセクト性を見抜く目。
 ▽「囚われの女たち」〓は生涯の総括ともいうべき作品。筑摩書房が倒産。原田奈翁雄は山代の著作を出版するために径書房をつくった。林竹二の「問いつづけて」高史明の「少年の闇」「長崎市長への七千三百通の手紙」などを手がけ、そうぎょう
年、還暦を迎えて退職し、現在は「ひとりから」を発行している。

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