MENU

フランクルとの<対話>苦境を生きる哲学<山田邦男>

■春秋社241029
 対話形式で筆者とフランクルのかかわりをたどる。むずかしい内容を対話で反復するから理解しやすい。フランクル関連の本は5,6冊読んでいるから、びっくりする内容はないが、フランクルと西田幾多郎を介した禅の思想の共通点の指摘や、東日本大震災との関連などは興味深かった。

 なにかに無我夢中になるとか、美しい景色にみとれるとき、自然に自分を忘れる。子どもがおぼれそうになったとき、だれもがハッと思う。そこから一瞬、間をおいて、自我が顔を出し、利害得失を考える。ハッと思うという無意識の「良心」はだれもがもっているけど、自意識(私欲)によってかくされている。
 どんなつらい状況におかれても、それを忘れさせ、それを圧倒するような自然の美しさをかんじる能力が人間には具わっている。いや限界状況のなかでこそ、人間は自然の美に対する感受性を発揮する。人生の最後と思って見る桜のかなしいまでの美しさ、カーソンの「センスオブワンダー」の感覚をしめすのだろう。
 何かに専心するとき、そこに自分を超えたなにかがはたらく。真の自己実現はそうした自己超越を通してのみ可能になる。意識的な自分を超えた何かを「精神的無意識」とよぶ。それは禅の「無心」、西田哲学の「無意識統一力」「無意識の統一作用」にちかい。
 他人が喜んでくれたとき、人はもっとも喜びをかんじる。他の人が喜ぶことで自己肯定感をかんじられるのは、人間のなかに人間を超えたものが宿り、人間が本来自己超越的存在であることを示している。
 「私たち人間がなすべきことは、生きる意味はあるのかと「人生を問う」ことではなくて、人生のさまざまな状況に直面しながら、その都度、「人生から問われていること」に全力で応えていくこと」とフランクルは説く。この「コペルニクス的転回」は、自己中心から他者中心への転回ではなく、自己中心から自他を含めた、両者の根底への転回、自己中心から存在中心への転回を意味する。
 人生を無意味と考えるニヒリズムの立場に立つか、有意味と信じる立場に立つか、それは決断である。フランクルは「人生は無条件に意味がある」という立場をとり、生きがいへの欲求(=意味への意志)こそ、人間の根源的欲求だと考える。
 東日本大震災のボランティアの活動は、「意味への意志」の自然な発露だった。被災者が、食料や毛布を「もっと困っている人に先にまわしてあげてください」と言うのは、人間が実現しうる3つの価値(創造価値・体験価値・態度価値)のうちフランクルがもっとも高い価値をおく「態度価値」があらわれていた。苦境にあっても、それを引き受けて、他人のために配慮することができるという態度だ。
 「生きる意味」は「今・ここ・この私」という具体的な状況をはなれてはなりたたない。「今・ここ」で最善をつくすことでしか実現できない。「自己実現」は、自分を忘れて、自分がなすべきことに専心する結果として可能になる。幸福も同様だ。自己実現や幸福そのものもとめても意味はない。「ブーメランが、的をはずれた場合にのみ投げ手のもとにもどってくるように、人間も、自分自身の使命を見失った場合にのみ、自分にもどってきて自己実現しようとするのである」
 愛する人を失ったやり場のない悲しみには、「死んでも死なない」と言うような宗教的な救いが必要だ。道元禅師は「生死は仏の御いのち也」、フランクルは「愛は、愛される人間の死をも越えて持続する」と言った。
 西田は3,4歳だった愛娘を失った。「この悲しみは、苦痛ではあるが、この苦痛が消え去ることを望まない」と彼は言う。苦痛を苦痛のままひきうける覚悟は、空とか無とか大自然とか大きないのちというようなところから出てきていると筆者はみる。
 苦悩やかなしみは、ものごとを見ぬく力を与え、世界を見とおせるようにする。存在は透きとおってきて形而上学的な次元が見えてくる。苦悩の極みにある人間には「真理の単純かつ純粋な直観が生じる」。苦悩をしっかり味わうことで、みえてくる感覚はたしかにある。
 浄土真宗の妙好人である因幡の源佐は「おらにゃ苦があって、苦がないだけのう」と言った。苦しいんだけど、その苦しみをふくめて自分を生かしている「親さん」(阿弥陀仏)がいると確信した。それによって、苦しければ苦しいままに、ありのままに生きていけばよいとさとった。
 能登半島で地震と豪雨で被災したFさんは「苦しむを楽しもうと思います」と言った。現代の妙好人だ。その言葉の重みとすごみが、ようやく私にもわかるようになってきた。

====
▽26 フランクルさんや森本老師の底知れないような温顔にふれたとき、こちらのすべてを受容してくれるということが直感的にわかりました。すべてを受容してくれるというのは、相手がいわば無になっているからですね。無だから、どんなものでもそこに入るわけです。そういう相手の無に触れることによって、こちらの閉ざされていた心もひらかれます。こちらも無になり、無になったところから生かし直される。
▽36 上田閑照先生の師匠が西谷啓治先生。西谷先生は西田幾多郎の第1の弟子。ニヒリズムを徹底的に追究されて「ニヒリズムを通してのニヒリズムの超克」を課題にされていた。
 フランクルのニヒリズムとは、「学問上のニヒリズム」と「生活上のニヒリズム」。前者は科学的還元主義「人間の生命は酸化現象、燃焼現象にすぎない」というふうに単純に要素に還元する。それらの要素以外のものは「無」であるとされ、それらの背後にある「精神的人格」「精神的実在」が否定される。後者は、「実存的空虚感」
 両者に共通するのは「意味の否定」
▽41 ニヒリズムをもさらに乗り越える立場が禅である……、。
▽59 待っている仕事、待っている愛する人、にたいしてもっている責任を意識した人間は、彼の生命を放棄することがけっしてできないのである。彼はまさに彼の存在「何故」(理由・意味)を知っているのであり、「ほとんどいかなる如何に(状態・苦悩)」にも耐えうるのである。
▽71 人生全体を無意味と考えるニヒリズムの立場に立つか、有意味だと信じる信仰の立場に立つか、選ぶのは本質的に実存的な決断の問題です。フランクルは後者を決断する。それが「超意味」への信仰。
▽77 自分を捨てて何かに専心するとき、……自然に何かが自分を捉えてくる。何かに無我夢中になるとか、美しい花や景色にみとれるというのは、道徳的なことと言うよりも、自然に自分を忘れて、それに魅せられる、捉えられるということです。意識的な自分を超えた何かが働いている。
▽88 「良心」や「同情」はだれもがもっているけど、自意識(私欲)によって覆いがかけられている……
▽93 生きがいへの欲求、つまり「意味への意志」こそ、人間の最も根源的欲求であり、それが満たされないとき実存的欲求不満、実存的空虚感を抱く。
「意味への意志」はフランクルの根本思想のひとつ。フロイトの「快楽への意志」やアドラーの「力への意志」よりも、もっと深い人間の根本意志であるとフランクルは考える。
▽97 大震災のボランティアたちの活動は、「意味への意志」の人間としてのごく自然な発露……被災者が、配られた食料や毛布をもっと困っている人に先にまわしてあげてください、と言う。ここにはフランクルがもっとも高い価値をおく「態度価値」の発現がある。苦境に陥ったときでも、なおかつ、それを引き受けて、他人のために配慮することができるという態度。
▽102 生きる意味は今・ここ・この人という具体的な状況を離れて、一般的に応えることはできない。
▽104 プーバーは「我は汝によって我になり、汝は我によって汝になる。フランクルは「人間は関係づけられた存在である」と表現。私だけの私というのは何ものでもない。(仏教の縁起〓)
▽106「今・ここ・この私」という状況は、1回的かつ唯一の状況として、絶対性をもっている。この瞬間は、宇宙的な規模で見ても、二度と返ってこない、絶対的にユニークな瞬間。
▽114 人間が実現しうる3つの価値。「創造価値」「体験価値」「態度価値」
▽121 黒澤明の「生きる」=フランクルの思想
▽135 「ブーメランが、的をはずれた場合にのみ投げ手のもとにもどってくるように、人間も、自分自身の使命を見失った場合にのみ、自分にもどってきて自己実現しようとするのである」(自己実現への過剰な関心はしばしば、意味への意志のフラストレーションから生じる)
……自己実現という場合、……自分を忘れて、自分がなすべきことに専心する、その結果として自己実現が可能になるということです。幸福も同じ。
▽144 無心に歩く、絵を描く……禅の無心は、精神医学の精神的無意識と共通しているかもしれない。
▽147 たとえどのような状況におかれているとしても、それを忘れさせ、それを圧倒するような自然の美しさがある。その美を感受する能力が人間に具わっている。苦境から距離をとって,自然の美しさを感受することができる。【カーソンのセンスオブワンダー】
 苦境のただなかに置かれている自分を客観化することを「自己距離化」と呼び、これによって苦悩を軽減することができると考えています。このような能力のことを「精神の抵抗力」と呼んでいます。いかなる状況にもかかわらず、それから距離をとる精神の自由な能力【痛みを観察する】
 限界状況のなかにあっても、あるいはそのなかにおいてこそ、人間は自然の美に対する感受性を有している。……体験価値【大川の花見〓】
▽163 愛する人を失ったやり場のない悲しみ。やり場を見出すためには広い意味での宗教的な救いが必要では。「死んでも死なない」と言えるような立場。道元禅師「生死は仏の御いのち也」
▽168 性欲は自己中心的であるのに対して、愛は相互的・自己超越的である。
▽171 愛は「愛される人間の死をも越えて持続する」
▽176 西田が40才ぐらいのとき、3,4歳だった愛娘が亡くなる。
この悲しみは、苦痛ではあるが、しかし親はこの苦痛が消え去ることを望まない。
苦痛を苦痛のまま引き受けるという、覚悟のようなものが表れています。空とか無とか、大自然とか大きないのちというようなところから出てきているという感じ。
▽182 フランクルの思想の3つの柱「人生の意味」「意味への意志」「意志の自由」
 3つめは、どんな状況におかれても、自ら態度をとる精神の自由を有しているということで、人間が何らかの要因によってすでに決定されているとする科学的還元主義に反対するフランクルの人間観。
▽184 ニーチェによれば、世界は無意味なものが永遠に繰り返す「永遠回帰」の世界で、それが「ニヒリズム」であり、人間の「運命」である。そういう無意味な運命にむかって「さらばよし、もう一度」と、運命を絶対肯定する、それが彼の言う「運命愛」。
 フランクルは「人生は有意味である」という立場。
▽194 苦悩は、人間に、ものごとを見ぬく力を与え、世界を見とおせるようにします。存在は透きとおってきて、形而上学的な次元が見えてくるのです。
……苦悩の極みにある人間に「真理の単純かつ純粋な直観が生じる」……苦悩していることじたいが、真理の只中にいることだ。
▽196 浄土真宗の妙好人。因幡の源佐。「おらにゃ苦があって、苦がないだけのう」。苦しいんだけど、その苦しみを含めてまるごと自分を生かしているものの存在に気づいた。それが彼の場合は「親さん」(阿弥陀仏)。「親さん」に気づくことによって、苦しければ苦しいままに、ありのままに生きていく。【藤平さん 苦しみを楽しむ】
▽203 和辻哲郎は、日本人の風土的性格を「モンスーン」型とし、季節風が湿潤な風を送り、「自然の恵み」をもたらす。性格的特性は「受容型」。他方で「自然の暴威」をもたらす。「忍従的」という性格特性を与えた。……東北の人々の態度には「忍従型」ということが顕著に表れている。
▽204 雨ニモマケズ 最初の方に「忍従的」と言えるようなことがずっと述べられ、中頃からは「ジブンヲカンジョウニ入レズ」という自己超越的・菩薩行的な生き方が述べられ、終わりのほうに「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」という決断ないし願いが記されています。
 苦悩に耐えるという決断が自己超越と結びついている。フランクルの言う態度価値の典型的な日本人的表現。
▽218 西田幾多郎の「純粋経験」あらゆる精神現象のはじめにある。「ゴーン」という音でいえば「あれは鐘の音である」という判断や「それを聞いているのは私である」という反省が出てくる前に、まず「ゴーン」というできごと(純粋経験)がなければならない。
……認識論的には主観と客観の分裂以前のところが「ザイザイン」(純粋経験?)と言われ、倫理学的には自己と他者の未分のところが「同情」「価値の実存根源」とよばれる。精神医学では「精神的無意識」。これらすべてにあてはまる表現として「自己超越」。
……人間はもともとそういう自己超越的な存在である……フランクルのバイザインや西田の純粋経験を基礎にして考えるかぎり、自己超越的な人間観が成立する。
▽238 何かに専心するとき、そこに自分を超えた何かがおのずから働きます。自己実現は自己超越を通してのみ可能になる。
▽253
▽264 人間の内に人間を超えたものが宿っています。無意識的な宗教性として宿っている。
▽266 ニヒリズムは「すべては無である」と言いつつ、そう言っている自分自身を有としています。ここにニヒリズムの主張の自己矛盾と傲慢さがあるのでは。
……ニヒリズムというのは、無を無というものとして、一種の有るものであるかのように考えている。無にとらわれた立場だ。
▽289 われわれの行為は、すべて世界とつながっているわけですから、「今・ここ」の現実にこそ真理が宿っているわけです。そのつどの状況のなかで自分のなすべきことをなすということ、そこに、真理が開示されるとすら言ってもいいのではないでしょうか。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次