■ころから 20220529
幼いころ、踊るように歩く水俣病患者のまねをして近所の患者を傷つけた。思春期になると水俣出身を隠すようになり、「患者がいるから私がこんな目にあうんだ」と考えた。子どもができると「この子を水俣出身にしたくない」と長期の旅に出た。筆者自身が差別する側だった。
2001年に書道の先生がはじめた溝口訴訟にかかわり、病院勤務をへて想思社につとめはじめる。そこで出会った患者さんの声をまとめた本だ。
水俣病の最初の犠牲者は、水俣外から来て漁民をしていた人々だった。もともと差別されていたのが、さらに「水俣の恥」と差別されるようになった。
ところが差別していた人たちも年齢が高まると症状が出てくる。2010年以降の「被害者手帳」の申請者は6万5000人で、水俣市の50代以上の半数以上が被害者手帳を手にした。
古くからの患者は「あいつらは差別していたくせに」という忸怩たる思いがある。そうした差別や分断を生みだしたのも水俣病だ。
私も少しだけ学生時代に水俣病にかかわり、漁村の文化の豊かさや患者さんのやさしさ、支援する人たちのあたたかさにふれた。
行政やチッソが患者を切り捨て、二束三文の解決金で和解を強いた。命という期限のある患者は、苦渋の思いでうけいれた。私は患者の痛みに共感しているつもりだったが、この本を読むとなにもわかっていなかったことに気づかされる。
たとえば、せみのような耳鳴り、箸や食べものを落とす、からす曲がり(こむら返り)、手足のしびれ、つまずき、頭痛、めまい、ふらつき、立ちくらみ、手足のふるえ、肩こり、腰痛、味がわからない……
水俣病の症状は、末梢神経障害やしびれといった言葉で表現されるが、それが実感として理解できていなかった。
筆者が自分の無力さに苦しんでいると、石牟礼道子さんは「「悶え加勢すればよかとです」「苦しんでいる人がいるときに、その人の家の前を行ったり来たり。ただ一緒に苦しむだけで、その人はすこぉし楽になる」と助言してくれたという。
原田正純さんは、和解後の闘いをつづけたごく少数の関西訴訟の『反乱軍』を評価し「世の中を動かすのは多数派じゃないと思うんですよ。だからね、溝口訴訟や第二世代訴訟をたたかうあの9人が問題をずっとあきらかにしていくんです。いつも思うような判決が出るかというのは別問題だけど……異議を申し立てた人が少なくもいたっていうことは、裁判を通じて歴史に残っていくじゃないですか」と発言する。やっぱり原田さんはすごい人だった。
以下に列挙する事実を読むと、公式発見前から現在にいたるまで、行政やチッソは、患者の切り捨てばかり考えてきたことがよくわかる。
「二度と悲惨な事件はおこさない」と口では言っても、患者を切り捨てつづけるということは、また同じことをくり返すことを意味する。事実、福島の原発事故でも「被害はない」という風説を流し、健康被害を隠そうとしている。水俣病は今もつづいているのだということがよくわかった。
・行商から魚を買うことで水俣病になったと申請すると、行政は領収書を要求する。
・魚が減ったことを漁民たちが抗議すると、そのたびに低額の補償ですます。
・チッソが原因とわかっても新たな補償金は求めないという条件のもと『見舞金契約』を結ばされる
・……公式確認の翌年1957年、県は「食品衛生法の適用を」と厚生省へ訴える。厚生省は、「水俣湾内の魚貝類のすべてが有毒化しているという明らかな根拠は認められないので、食品衛生法を適用することはできないものと考える」との文書を返した。
・熊本大学は有機水銀が原因と発表したが、チッソや政府は権威ある学者を動員して反論。1959年、チッソ付属病院は猫実験で原因を突き止めたが隠蔽される。
・1995年、国は患者団体に、「不知火海周辺地域に住んだことがあり、当時魚を多食し、水俣病特有の症状(手先足先の感覚低下など)がある人たちのなかで自ら手をあげた人を対象に、今後「わたしは水俣病だ」と言わない、裁判をしない」ことを条件として、低額の補償金と医療費無料の手帳を支給することで、チッソとの和解を勧告。
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▽6 恩師の溝口秋生さんが2001年にはじめた溝口訴訟(2013年最高裁判決)と出会う。
「子どもを水俣出身にしたくない」気持ちで、バックパックをかついで子どもと旅に出た。ヒッチハイクで国内をめぐり、冬は東南アジアへ。
疲れはてて、子どもの就学時期が迫って2007年に水俣に逃げ帰った。
病院で働いたあと、相思社へ。
▽42 「わたしらはね、方々に謝って回らんといかんのですよ。行商だった母が、海ベタから山間部に向けて、魚を売って回り水俣病をふりまいたと思うと、申し訳なくて申し訳なくて。わたしは、水俣病になることはできんと、そう思ってました。病気は努力で治すと思いがんばってきました」
(自分の責任と真正面から向き合う。自らも被害者なのに。チッソや県とのちがい。他者の痛みに敏感な第一級の人間がつらい思いをする。)〓
「一番きついのはね、足がつること。寝入りばな、片方の足がぐーっとつるんですよ。たえていると次はもう片方。もう眠れんの」
(そういう具体的な証言をちゃんと聞いていただろうか。自分の身に置きかえて〓)
▽51 環境省のみなさん、(糖尿病も)水俣病の二次被害とは考えられませんか? 嗅覚や味覚がおかされ、糖分塩分の摂取のしすぎによる糖尿病ってケース、かなりありますよ!!
▽66 母ちゃんが行商からも買った……というと、その時の領収書ば、手紙ば、証拠に出してください、ち言うばってん、残っろらん。こげん身体にしておいて、なーんが指定地域外かい腹んたつ。勝手に毒ばまいて、勝手に地域場指定して
▽親子、兄弟でさえも「水俣病」と言えない現実。申請しているかどうかも知らないことも
▽77 明治時代のはじめ、豊かな漁場を求めて、対岸の島々から人々が移り住みました。……水俣の産業は、漁業よりも林業と農業、塩作りが中心でした。……明治の終わりには国の専売になった塩作りも、当時は、水俣の経済を支えていました。
そんなふうに、太陽とともに暮らす山やまちの人たちにとって、月や潮の満ち引きとともに暮らす移住者=漁民は、偏見の対象だったといいます。
塩作りが専売になったのと、隣町に滝を利用した水力発電ができたのは同じころ。
チッソ創業者でもある野口遵が設立した曽木発電所は、電気が余っていた。これを使う工場をつくろうと計画がもちあがり、工場を誘致した。明治の終わり、水俣に肥料をつくる工場が生まれた。
……大正になると、魚が減ったことを漁民たちは抗議するが、そのたびに低額の補償ですまされた。1932年から36年間、チッソはメチル水銀をふくむ排水を海に放流。
……熊本大学は、チッソの有機水銀が原因と発表したが、チッソや政府は日本化学工業協会や東京工業大学などから権威ある学者を動員して、反論。原因究明は混乱させられ、補償を求める運動は、チッソの存在を脅かすととらえられた。
……1959年ん、チッソ付属病院は猫実験で原因を突き止めたが、隠蔽される。
▽81 1995年、国は患者団体に、「不知火海周辺地域に住んだことがあり、当時魚を多食し、水俣病特有の症状(手先足先の感覚低下など)がある人たちのなかで自ら手をあげた人を対象に、今後「わたしは水俣病だ」と言わない、裁判をしない」ことを条件として、低額の補償金と医療費無料の手帳を支給することで、チッソとの和解を勧告します。
わずかな補償金と医療が無料になる手帳によって声を上げない契約をかわす、という施策によって、水俣病事件は終わったという空気が、水俣を覆いました。
……政府解決策に応じた1万2000人の人たちのなかには、いまもこの決断に対して複雑な感情を抱いている人も少なくありません。この解決策は、その後も地域に深い溝を残しました。
▽82 2004年、関西訴訟の最高裁判決。これで、1995年の対象とならなかった人や、当時申請しなかった数千の人たちが認定申請をはじめた。
(重症の人が多いのに、1995になぜ申請しなかったか)
「(真珠養殖で)手帳をもっとるもんは雇わんということやったから、仕事の方が大事と思うたから申請せんじゃった」
……「95年当時には症状がなかった人」とか、「95年当時は20代だった人」が申請しはじめる。受け付けが終了する2012年までに申請者の総数は6万5000人を超えました。
……チッソは、分社化。
……相思社では、05年からの14年間に6000人以上の相談者を受け入れた。
▽89 原田さん「僕はもやい直しに反対してるんじゃないんだ。だけど、加害者と被害者といた時、殴った方が反省して『反省をしている』、殴られた方が『あんたたちがそがん反省しとるなら、仲直りしましょう』って、手を出すならわかる。でもね、殴った方が『もう時間が経ったけん、水に流そう』って言ったって、それは、もやいなおしにならないんだ。本当のもやい直しっていうのは、被害者が手を差し伸べるような条件をつくることでしょ」
▽93 緒方正人さんは、水俣病を引き起こした人間が自然界を破壊していった罪を認め謝罪し、自然界との関係を改めて取り戻していくことを「もやい直し」と説いた。1994年、水俣病犠牲者慰霊式の場で吉井正澄市長による謝罪の席で「もやい直し」が用いられたことで、「対立から対話へ」の合言葉とともに使われることが多い。
▽107 箸を落とす、食べものを落とす。からす曲がり(こむら返り)、手足のしびれと感覚の鈍さ、つまずき、頭痛、めまい、ふらつき、立ちくらみ、手足のふるえ、肩こり、腰痛、味がわからない。
……2012年4月に受付が締め切られた「被害者手帳」取得者数が発表され、水俣病は「終わり」「解決」へ流れていこうとしています。
▽113 1959年、追い詰められた漁師たちは、漁業補償と排水停止を求めた。……チッソは拒否。……漁民たちは実力をともなう闘争を起こし……100人以上の逮捕者。
……水俣市議会から「排水停止を阻止する要求」が出された。追い詰められた漁師たちに残された最後の手段は、企業も行政も市民をも敵に回す結果となった。
……網元の「鶴木山からは一人も患者を出すまい」という一言から、水俣病隠しがはじまった。
▽126 石牟礼道子さん 「悶え加勢すればよかとです」「むかし水俣ではよくありよりました。苦しんでいる人がいるときに、その人の家の前を行ったり来たり。ただ一緒に苦しむだけで、その人はすこぉし楽になる」
▽132 思春期のころからうちに立ち寄る患者の存在を疎ましく思うようになった。小中学校のころ……水俣はコンプレクスに。出身を隠すようになっていた。患者がいるから私がこんな目にあう。全部患者が悪いと思って、見ないふりをしていた。
……20歳のころ、子どものころに書道を教えてくれた溝口秋生先生が裁判をしていると知った。2歳の娘をつれて傍聴に行った。
▽139 1995年 それまで患者として認められなかった1万人以上の人たちが「水俣病最終解決」という国の和解案を、涙をのんで受け入れました。
▽145 川本輝夫さんのお宅は、私の実家から徒歩ゼロ分です。……チッソが原因とわかっても新たな補償金は求めないという条件のもと『見舞金契約』を結ばされる。……川本さんは見舞金契約の10年後に運動をはじめる。裁判による解決ではなく、企業側と顔をつきあわせて直接抗議しチッソの幹部と交渉する「自主交渉」は多くの人たちの胸を打った。
▽156 原田「被害者の会が1995年に和解したとき、僕は一生懸命反対した。歳をとった人が今から10年20年も裁判するのが限界というのはわかる。だけど、若い世代を大人の基準で判断すると軽く着られてしまう。僕はそこに異論があったわけです」
▽162 原田「今、私が患者だと手を上げている人たちは、かつて差別した側にいた人たちなの。自分たちが被害者ってわからなかったわけです。……湯堂や茂道の患者や家族に対する差別っひどかったですよ。その差別した人たちが今手を挙げる。まちがいなく彼らも被害者なんだ、被害者なんだけども気持ちは非常に複雑なのよ。患者を差別したけども、その彼らはよそに出ていくと差別を受けたわけですよ。
▽164 原田 和解後の闘いをつづけたごく少数の関西訴訟の「反乱軍」のためにひっかりかえった……世の中を動かすのは、僕は多数派じゃないと思うんですよ。だからね、溝口訴訟や第二世代訴訟をたたかうあの9人が問題をずっとあきらかにしていくんです。だからといって、いつも思うような判決が出るかというのはまた別問題。……だけど、異議を申し立てた人たちが少なくもいたっていうことは、裁判を通じてレキしに残っていくじゃないですか。
永野 忘れられてなかったことにされないために立ち上がり、歴史に足跡を残すんですね。
▽170 年を重ねるごとに症状が重くなるのは,水俣病の特徴です。……50代を過ぎると症状はぐっと重くなる若い患者の今後が心配です。
▽171 水俣病特別措置法にかかわる被害者手帳の申請では、県の条件からはずれる被害者に求められたものは「公的証拠」や「当時の魚の領収書を出してください」という言葉。
▽178 患者たちが自分の経験を語る場所が、ない。自身の水俣病に抱いていた思い、外で受けた差別、病気の苦しみを長々と語られることもある。
2010年からの「被害者手帳」の申請者は6万5000人。水俣市民の50代以上の半数以上が被害者手帳を手にした。〓〓水俣市では患者が数滴にマジョリティになりつつあうのに……
▽180 「水俣市の国保医療県内ワースト1位」 国保加入している人の疾患別の医療費(人口あたり)は、糖尿病ワースト1位、腎不全ワースト1位、高血圧ワースト3位。
▽186 水俣に来た石原伸晃環境大臣「はじめて水俣に足を運び、……このような悲惨なことを二度とくり返してはならないと思った」……もうくり返しているではありませんか。原発事故の数十年後も、行政は同じように被害者に「ご心労いかばかりか」なんて言うのでしょうか。〓
▽188 水俣病の歴史のなかで、法律によって漁獲や汚染魚の摂取が規制されたことは一度もない。
……公式確認の翌年1957年、県は「食品衛生法の適用を」と厚生省へ訴える。
しかし、国・厚生省は、「水俣湾内の魚貝類のすべてが有毒化しているという明らかな根拠は認められないので、食品衛生法を適用することはできないものと考える」との文書を返した。
……1959年に熊大が有機水銀説を発表したときも、行政や御用学者らが何度も誤った情報を流し、原因究明を混乱させた。マスコミも。……現在まで汚染地域の住民の健康調査は行われたことがありませんので、全体像はいまもわからないまま。
▽191 坂本フジエさん、次女しのぶさんを出産したのは1956年。公式確認の年。……相思社ができるまでは、患者があつまるのはフジエさん宅。
差別から一時でも逃れる拠り所が欲しい。20歳前後の和解患者の働く場所もつくりたい、……国内外からカンパを集め……1974年煮設立した財団法人水俣病センター相思社。数年間は認定患者のための役割をはたしたが、その後、未認定患者の問題が浮上。活動内容もシフトしていく。
▽194 〓裁判を提訴した原告団長の渡辺栄蔵さんは「今日ただいまから、私たちは国家権力に対して、立ちむかうことになったのでございます」と宣言。
原告の濱元二徳さん、石牟礼さんの言った「もうひとつのこの世」を水俣につくろうということで持ち上がったのが「水俣病センター相思社構想」。
▽195 息子が糖尿病を患ったのは、母である自分の味覚障害のせいだと信じている。
▽206 患者家庭互助会の座り込みは1959年にはじまる。1カ月に及ぶ。
県知事ら権威者たちの調停を受けるしか道はなK、チッソとの「見舞金契約」を結ぶ。「今後水俣病の原因がチッソにあることが分かった場合も新たな補償金の要求は行わないものとする」。調印と同時に、水俣病問題は終わったものとされ、1968年まで闇に葬られ、その間も水銀を含む廃水は海に流されつづけた。
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