■吉川弘文館 20220713
30年以上前、隠岐の「文覚窟」という洞窟近くでキャンプをした。京都から流された坊さんだとは聞いたが、平家物語にもでてくる有名な人だとは考えもしなかった。
文覚は私の好きな明恵上人の師匠にあたり、伝説に彩られているが、この本は、どこまでが伝説でどこまでが本当なのかをあきらかにする。伝説の部分をのぞいても、文覚はスケールの大きな怪僧であったことがよくわかる。
遠藤盛遠という門院警護(武者所)の武士だったが、恋敵を殺そうとして誤って恋人を殺害したことを悔いて出家した、と平家物語は記している。これは説話をもとにした作り話だという。
「人法共に断絶し、堂屋悉く破滅」している神護寺復興を決意し、1168年から1173年までの6年間にいくつかのお堂を建てた。1173年、後白河院を訪ね「今この場で千石の荘園を寄進してほしい」と願い出たが認められず、後白河院に対して悪態をついたためとらえられ、伊豆に流罪になった。
そこで、流罪の身だった8歳年下の源頼朝と出会い、平家討伐をすすめた。流罪をとかれると、後白河院と頼朝の間に立って反平家の工作に奔走し、後白河院の院宣を頼朝にもたらした。
後白河院と頼朝という強力な後ろ盾を得て、文覚は広大な荘園を経営する権限を獲得し、神護寺を復興させた。さらに、源平動乱で「寺モナキガゴト」き状況だった東寺の再興にのりだす。
ところが1192年に後白河法皇、1199年に源頼朝が急死すると文覚は政争にまきこまれて佐渡へ流罪となった。
1203年正月にゆるされて京都にもどるが、苦労して築きあげた寺領荘園は後鳥羽院の近臣らに分配され、神護寺は荒れていた。激怒した文覚は後鳥羽院をののしり、佐渡流罪の赦免から2カ月もたたない2月13日に逮捕され、対馬に流された。半年後、鎮西(九州)で死んだ。
平家物語の「延慶本」では、佐渡につづいて隠岐に流された文覚は後鳥羽院を隠岐に呼びよせると呪詛した。後鳥羽院が承久の乱の失敗で隠岐に流されたのは文覚の亡霊のしわざだと記している。
文覚にとっては、仏法によって鎮護される立場の国家のトップ、後鳥羽上皇が、せっかく再建した神護寺を破壊することは許しがたかった。
いっぽう、後鳥羽院は、武家を廃して公家政権を樹立しようとしていたから、武家と深く結びついて、ことあるごとに国政に干渉する文覚は排除すべき人物になっていたという。
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▽ 平家物語に描かれた文覚は、実在の文覚とはかけ離れた人物像になっている。
恋敵を殺そうとして誤って恋人を殺害したことを悔いて出家した。……義朝のにせ髑髏を見せて頼朝に挙兵をうながす
平家物語以外では、おどろおどろしいふるまいは見せない。
▽10 上西門院につかえ、門院警護(武者所)の武士としてつかえた。
▽12 盛遠が誤って恋する女性を殺害したことで出家したとしているが、中国の説話をもとにした作り話と思われる。
▽20 1168年ごろはじめて神護寺を参詣。「人法共に断絶し、堂屋悉く破滅」している状況。これを復興しようとの大願をおこした。
1168から1173までの6年間にいくつかのお堂を建設。
1173、後白河院の御所の法住寺殿に参って、ただ今この場で千石の荘園を寄進してほしいと願い出る。許容されるぬとみるや、悪態をつき、法王に対しても雑言をはいた。かけつけた北面の武士がひっくくり、検非違使にひきわたした。
▽45 1173年、伊豆流罪 「平家物語」延慶本によると……義朝の首と称する髑髏をとりだして頼朝にみせ……院宣をとってやると約束してひそかに上京し、院宣をとりつけてもどった。
……頼朝とであい、平家討伐をすすめ、後白河院と頼朝の間に立って工作したことは事実だったと思われる。
▽59 赦免後、後白河院の意向を受けて、反平家の秘密工作に奔走した。
▽72 神護寺には次々と堰を切ったように寺領がよせられ、文覚は短期間のうちに広大な荘園を経営する権限を手中におさめる。根本六荘とよばれる寺領は1184年までのわずか3年ほどの間に獲得した。
▽111 東寺は、源平動乱の影響で著しく疲弊していた。……文覚は、神護寺の再興を果たした直後、資金調達を成功させ、休むまもなく東寺の復興へと突進してゆく。
▽126 愚管抄によると、東寺は「寺モナキガゴト」き状況だった。
▽143 1199年、源頼朝が病死。訃報が京都に届いて1カ月後、文覚は検非違使に逮捕された。佐渡へ流罪。
▽153 京都にもどるが、後鳥羽院をはげしく非難した。苦労して築きあげた寺領荘園が院の近臣、女房にまで分与され、その寺領を基盤として運用されるはずの「文覚45箇条起請文」は反故同然。
佐渡流罪を許されて都に帰ってきたのは、1203年正月。見るも無惨な神護寺の状況を目的して、怒った。
1203年2月に対馬に流される。
▽163 「平家物語」延慶本では、都に帰ってきた文覚は、高雄の荘園2カ所が召し上げられていたので返還してくれと申し出ると、来年返すという返事。それに怒り、後鳥羽院を「笈杖冠者」とののしった。……文覚を隠岐に流した。
……2月13日文覚逮捕。神護寺の秩序を破壊した後鳥羽院を非難し、原状回復をせまって激しく放言を投げつけたと察せられる。これが院を激怒させ、佐渡流罪の赦免から2カ月にもならない2月13日に逮捕。
その後、流されて半年足らずのうちに客死する。「鎮西で死去」九州全体を包括する呼称。
▽169 神護寺金堂の裏手の山の頂上に文覚の墓と称される一角がある。延慶本のいうように、京都の街をみおろして後鳥羽院を呪詛するには最適の場所だったと思われる。
▽199 明恵と文覚 年齢差は34歳。
▽208 明恵は栂尾を別所として神護寺から切り離し、……という要望shおを後鳥羽院らに申し出ている。それが認められ、高山寺が誕生した。
▽210 延慶本
佐渡につづいて隠岐に流された文覚は後鳥羽院を必ず隠岐に呼びよせると呪詛し、「わしの首は高雄の都の見える高所に置け、都を睨み(院を)傾ける」と遺言して死んだ。11年後、日中の行方を修する明恵の前に文覚の亡霊が現れ、後鳥羽院に謀反を起こす廻文を書くから紙を寄越せという。明恵は紙を調達して高雄の文覚の墓前で焼き、冥界に送り届けた。後日紙の礼を言いに亡霊が再度現れ、公家が「公家安穏、関東損亡」を祈れと要請してきたら、逆に「関東安穏、公家損亡」を祈れと言い捨てて消えた。だから後年後鳥羽院が承久の乱をしかけて失敗し、隠岐に流されたのは文覚の亡霊の仕業であった。
(文覚の流刑地対馬を隠岐としているので、作り話だとすぐわかるのであるが……)
▽212 文覚にしてみれば神護寺を鎮護国家の道場として復活させたことはほめられこそすれ、罪人よばわりされるいわれはない。それを仏法によって鎮護される立場の国家の主後鳥羽上皇が、理不尽にもふみにじり、苦労して再建した神護寺という道場を破壊し、こともあろうにその功労者をなきものにしようとしている。許しがたい暴挙だった。
いっぽう、後鳥羽院側からすれば、武家を廃して公家政権に復帰しようとしているときに、武家の力を借りて復活をとげた神護寺は目障りでならない。まして、文覚は武家と深く結びついて、ことあるごとに武家の意向を振りかざして、国政にも干渉してくる。排除しなくてはならない人物になっていたのである。
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