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霧の彼方 須賀敦子<若松英輔>

■集英社202106

 1929年生まれの須賀敦子はイタリアに長く暮らし、「カトリック左派」の立場で現実社会とのかかわりのなかで信仰を深めた。
 夫のペッピーノとともに参加したコルシア書店は、キリスト教の殻に安住せず「人間のことばを話す場」をつくり、特定の宗教ではなくても人を超えるものとのつながりを見出そうとした。その流れは、フランスのエマウス運動や労働司祭などと同様、戦時中のレジスタンス経験者が生みだした。
 法皇ヨハネ23世が第2回バチカン公会議で、他の宗教との対話へと舵を切った。コルシア書店はその流れのさなかにいた。
 サン・テグジュペリは「自分がカテドラルを建てる人間にならなければ、意味がない。できあがったカテドラルのなかに、ぬくぬくと自分の席を得ようとする人間になってはだめだ」と言った。須賀は実践的なキリスト教作家として彼を尊敬し、自らの内なる聖堂だけではなく、苦しむ人びとが生きる場所がなくてはならないと信じた。
 これらの運動は、中南米の解放の神学にもつながる。私も学生時代、社会問題や政治に取り組む解放の神学の神父たちに共感したが、もっとも大切な「祈り」の側面は理解していなかった。
 須賀や若松によると、祈りとは、神様に「お願い」するのではなく、内なる神の声、神から課せられた使命をうけとめることだ。さらに、「祈りのうちに生きるのではなく、生きることを祈りにしなければならない」と言う。ビクトル・フランクルの言葉と通じる。
 巡礼も、神に「お願い」するために歩くのではない。歩くことによって自らの願いをしずめ、超越の声を聞こうとする試みだという。巡礼をしても「願い」はかなえられないが、すでに救われていたことに気づくことはできる。
 フランスの「労働司祭」もコルシア書店も旧体制への批判だった。私がニカラグアで出会った神父も、保守派の枢機卿から教会を追われると、新聞配達をしながら、草の根の小さなグループでミサをした。その強い意志は、生きることじたいを祈りとしていたからなのだろう。祈るとは、権威や組織といった夾雑物を交えず、ひとり神と対峙することだ。私の出会った神父たちはその行動で、信仰の純粋さを示していたと、今はよくわかる。
 須賀は当初、フランスのカトリックの霊性に魅せられながらも「純粋を重んじて頭脳的な冷たさをまぬがれない」と思った。
 「つめたさ」は、人が「神」との関係を「私」のなかで深めようとするときに生まれる。
 ヴェイユは「労働者たちは、パンよりも生活が詩になることを必要としている、宗教だけが詩の源泉となることができる」と説いた。詩とは、苦しみや悲しみの奥にある意味を照らし出すものだ。
 「神」を「私」ではなく「私たち」のなかに見つけることこそがイタリアで須賀が出会った、詩人のダヴィデの信仰だった。詩のある信仰が「ずっと人間的にみえて、つよくひかれた」と須賀は書く。
 私は社会問題の本を片っ端から読んでいるとき、松下竜一の「風成の女たち」にほかのルポルタージュにはない「詩」を感じた。芸術とは「永遠」からさしこむ光なのだ。今はそれがわかる気がする。
 須賀は、共同体の消失は詩の喪失であり、みんなで祈りを唱えず、個々人がそれぞれ祈るならばそれは散文だという。人々がつながりを感じながら生きる共同体は須賀にとって、社会的生活と霊的生活の分断から人々を守るものだった。
 他者にむかって祈りを捧げ合うところに共同体が生まれる。自己の「お願い」を超えた祈りを「愛」と呼ぶことがある。自分のためにはなにもする気がおきなくても、人のためと思うと体を動かせる。それは愛の力なのかもしれない。
 知性(批判精神)を深めることで神秘を深く感じようと須賀はつとめた。
 宮沢賢治の「世界ぜんたいが幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」こそがキリスト者のマニフェストのようなものだと須賀は感じ、日常のなかに隠れている「神」を見出そうとした。
 生活のなかに「超越」を感じるしなやかな強さを、ニカラグアの神父たちがもっていたことに今さらながら気づいた。
 もちろん、共同体の人々は政治に流される。私が出会ったオランダ人のテオ神父は静かにそれに寄り添った。
 須賀は晩年の7年間だけ小説を書いた。
 書くとは、41歳で急死した夫に送る手紙だった。小説で描く霧は、その向こうで死者が「生きている」ことを知らせてくれるものだった。人は悲しみを感じることでその人を愛していたことを知る。悲しみは単なる嘆きと痛みの経験ではなく、情愛の出来事だという。
「あれからいろいろなことが、全くいろいろなことがあって、聖母さま、今ここに立っています。ペッピーノに会って、ペッピーノが死んで、おばあちゃんが死んで、パパが死にました。パパは苦しんで死にました。私はひとりで生きています。やはりこれは私を育ててくれたcathedraleのひとつです……」
 愛する者たちの死を経験した須賀は、自分が感じている悲しみこそが、見えない「船」であり、信仰は、そうした「船」によって自分のところまでやって来たと気づく。伴侶を喪ったことは「不治の病」となって痕跡を残す。そのことがわかった彼女は、その悲傷とともに生きていくほかないと実感している。
 夫ペッピーノの死は、空が暗転し、道が閉ざされるような出来事だった。「あのことも聞いてほしかった。このこともいっておきたかった」という須賀に対して川端康成は「そこから小説がはじまるんです」と言った。
 死者とともにある生者を描くのが川端の原点であり、愛する者が死んだという事実の彼方に真実をかいま見るために「小説」を書いた。彼にとって文学とは、悲痛と苦しみのなかに生きる意味を探し出そうとすることだったという。
  夫を喪ったあとの彼女にも、恋と呼ぶような交わりがあった、というのは救いだった。

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▽10 祈りは、人から神にささげられるだけではない。むしろ神が人のうちに生き、私たちのために祈っていることを発見すること、それが須賀敦子の感じていた信仰の営みだった。祈りとは、自らの想いを神に届けようとするのではなく、内なる神の声を聞くことであると彼女は感じていた。
▽11 ヨハネ23世 教会は、外側にいてイエスの言葉を必要とする者との架け橋にならなければならないと考えた。(第2バチカン公会議)他の宗教との対話へと大きく舵を切った。その中心に近いところで活動していたのが故ルシア書店の仲間たちだった。

▽19 祈りのうちに生きるのではなく、生きることを祈りにしなければならない。(ニカの神父はそうだった〓)
▽21 彼女にとって書くとは、亡き夫に送る手紙だった。たゆたう霧は彼女にとって、悲しみの日々に訪れる慰めの合図だった。霧は死者の姿を映さない。しかしその向こうで「生きている」ことを告げ知らせてくれる。……生者が死者を感じるのは悲しみにおいてほかない……霧が濃くなればなるほど、逝きし者たちの国は近くなる。
▽33 海外にただ滞在するのではなく、短い期間であっても腰を落ち着けて暮らしてみると、自らの精神の源流とは何かを考えはじめる。不思議なことだが、こうしたことは流れゆく旅では起こりにくく、……生活しなくてはならないとなった途端、心の奥底から湧き出る衝動でもある。
▽35 夙川駅近くの1932年に建設されたカトリック夙川教会。遠藤周作も。彼が夙川から仁川に転居するのは1939年。同じ町に暮らしていた。
▽41 彼女の心のうちには誰も足を踏み入れたことのない「秘密の小部屋」があった。……神の前でどこまでも孤独を生きること。
▽55 サン・テグジュペリ 実践的なキリスト教作家として記憶され、彼女の精神界の「英雄」ですらあったという。
……人が生きるのは、自分が望んだことを実現するためではなく、超越者の働きの場になることだというのだろう。(フランクル〓)
▽58 須賀はいつも死者の存在を近くに感じていた。1967年に夫を喪ってから、より鮮明に感じられるようになってくる。
……彼女にとって書くとは、まず、亡き者たちへの手紙だった。〓
▽66 人は、どのような場所で生きるのかを問われる以前に、「自分が誰であるか」という問いを見きわめなければならない。……カトリックには「倣う」という霊性の伝統がある。手本となる生涯をそのままなぞるということではない。それはイエスの生涯から問いかけられることに、個々の人間が、それぞれのかたちで応えることを指す。……人はだれも、その人になるという使命の前に召し出されている。(〓フランクル)
▽80 神の言葉を、すなわち、愛を、どのような逆境にあっても、どんな楽しいときにでも、本気で信じている者として生きること……日常のあらゆる瞬間を、心をこめて生きることにほかならない(〓使命)
▽92 三雲 真理は常に行為を通じて開示される。……行為とのつながりをもたない哲学は実りないものである。
……コルシア書店 キリスト教の殻に安住することなく「人間のことばを話す場をつくろう」というのが、共通の理念だった……「人間のことば」という表現には、当時のキリスト教は同じ信仰を抱いている人々には伝わる、一種の隠語のような者で話していたという痛切な批判もこめられている。特定の宗教に連なることがなくても人は、人を超えるものとのつながりを見出すことができる。それを霊性の道と呼ぶとすれば、コルシア書店の人々が開こうとしたのは信仰の場ではなく、霊性のそれだった。
▽95 大学院時代、カトリック学生連盟に参加。破防法阻止の運動にも。ここで武者小路公秀や有吉佐和子と出会う。
▽113 光を求めるのはよい。しかし、それはうちから差し込んでくることを忘れてはならないと同伴者は言う。……求道はさまざまな道がある……しかし、思いはいつもおこないによって裏打ちされていなくてはならないというのがフランチェスコの霊性だった。外へのおこないが真摯になされるとき、そこに内なる光が灯るということも。
……ピエール神父(1912〜2007)が提唱した「エマウス運動」。貧困者救済。
▽121 「自分がカテドラルを建てる人間にならなければ、意味がない。できあがったカテドラルのなかに、ぬくぬくと自分の席を得ようとする人間になってはだめだ」というサン=テグジュペリ……
 ピエールも須賀も内なる聖堂だけでは不十分だと感じた。苦しみを生きる人びとが本当に生きる場所がなくてはならないと信じた。それがエマウスでありコルシア書店だった
……エマウスと須賀を結びつけたのはレジスタンスの精神。
……「労働司祭」の活動の原点もレジスタンスだった。司祭でありながら、同時に労働者でもあるという生活を送っていた。
▽126 労働司祭のミサに出席することは、教会の方針に対する批判行為でもあり……(〓ニカラグアの神父たち、ワスララと9月14日)
▽131 労働者たちは、パンよりも詩を必要とする。その生活が詩になることを必要としている。永遠からさしこむ光を必要としているのだ。ただ宗教だけが、この詩の源泉となることができる(ヴェイユ)。……この詩が奪われていることこそ、あらゆる形での道徳的頽廃だといっていい。……詩とは美の言葉であり、美を照らし出す言葉。真と善と共鳴しつつ、苦しみや悲しみの奥にある意味を照らし出すもの。(ぼくになかったもの〓)
……フランスでは見出すことのできなかった生命の声(詩)に、イタリアのペルージャで出会う。
▽134 知性を手放して神秘主義を唱えるのではなく……知性を深化させることがそのまま神秘を深く感じることにつながる道を探究する……知性が神秘への敬虔を忘れることがなければ、人はそこに愛の萌芽を見つけることができる。……個が内なる愛を認識していく過程がそのまま、世に広がる情愛の発見となり、自己への誠実がそのまま他者への真摯な対峙になる。
……「個人の革命なくしては、社会革命はあり得ない」……個人の革命とは、回心、すなわち、たえず神に目を向けようとすることにほかならない。
 俗世の生活を捨てるのではなく、むしろ、日常のなかに隠れている「神」を見出すところに自らに託された営みがあると感じた。
(神=超越)(〓ニカで会った宗教者たち 神を見ていたのか。神父のいないニカラグアの共同体。あそこにも神がいたのか)
▽139 宮沢賢治の「世界ぜんたいが幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」という一節を引用しながら、これこそ現代を生きるキリスト者のマニフェストのようなものだと語っていた。
(〓賢治も超越を見すえた 熊楠も 福岡正信も)
▽147 愛する者の苦しみが他の苦しむ者への窓となる。……ペギーにとって他者の幸福を願うことは、そのまま、自らの試練を神の手にゆだねることだった。自らの願望の成就を訴えるのではなく、神が望むことを受け入れること。人間の声を神に届けることではなく、神の声を聞くこと。それが祈りであることに彼は気がついていく。彼にとって巡礼は、歩きつつ、願うことではない。歩くことによって自らの願いをしずめ、その道中に超越の声を聞こうとする試みにほかならない。(〓そうなっていただろうか 聞きたいのはひとつしかなかった)
▽169 ひとは……悲しみを感じることによってその人を愛していたことを知ることすらある。悲しみは単なる嘆きと痛みの経験ではない。それは、かたちを変えた情愛の出来事だというのだろう。
▽176 真の教会では、……老いた者、病める者も健やかなる者と質的にはまったく変わらない意味をもってこの世での役割を果たしうるはずだ。病者には病者だからこそ担うことのできる特別な使命すらある……弱き者、悲嘆を生きる者の存在を通じて、世に神の光がもたらされる。
 ……病者は、意識しないところで神の証人たり得ている、というのである。
(〓どうだったのだろう。病むことによって詩人になっていった。それは確かだ。)
▽182 ティク・ナット・ハンはベトナムの戦争に反対したことからフランスへの亡命を余儀なくされる。今では世界中から彼の霊性を学ぼうとする人々が集まっている。「マインドフルネス」という言葉を知らしめたのは彼だった。
▽188 マリアの存在。パルチザン。強制収容所。……いつも須賀のとなりにいた。
▽196 
▽200 道はある。しかし、今の自分には見えない。進むことではなく、それが見えてくるまで待つことが仕事だ……霊魂の闇。
(〓いまがそうなのか)
▽205 1958年、ヨハネ23世就任。その翌年、第2バチカン公会議の開始を宣言。この公会議によってカトリックは真に開かれた宗教になった。キリスト者だけの宗教ではなく、人類の宗教への道を踏み出した。「洗礼を受けていると否とにかかわらず、すべての人間はイエスに帰属する権利を持つ」と教皇は語った。
 ……ハンナ・アーレント 須賀に似ている……
▽209
▽211 鈴木大拙の精髄がつまっているのが「仏教の大意」。この世は、人間が五感で感じる「感性的世界」と、「霊性的世界」からなるという。……人はしばしば感性的世界を唯一の世界だと思い込む。しかし実相は霊性的世界が感性的世界を包みこんでいる。前者を後者にいかに招き入れることができるかを考えなくてはならない、という。
「霊性」とは、大いなるものへの態度、大いなるものとの交わりの姿勢。……霊的生活とは、人間を中心に据えた生活ではなく、「神」による、「神」とともにある生活を指す。
……須賀は「感性の世界」において「それに満足しないで、なんとなく物足らぬ、不安の気分に襲われ」、目に見えないが、たしかなもの、大拙がいう「霊性的世界」を求めて来た。
▽218 「フランスのカトリック左派にくらべて、ずっと人間的にみえて、私はつよくひかれた」……(松下竜一〓に感じたもの)
 フランス・カトリックの霊性に魅せられながらも、それを受容できなかった理由を「純粋を重んじて頭脳的な冷たさをまぬがれない」と表現。彼女は半生を通じてこの「つめたさ」と戦った。
 「つめたさ」は、人が「神」との関係をあまりに強く「わたし」のなかで深めようとするときに生起する。「神」を「わたし」のなかだけでなく、「わたしたち」のなかに見つけなくてはならない。。それがダヴィデの信仰だった。
……「神」は人と人の間に自らを発見することを人間に求めている、というのである。
▽229 コルシア書店の運動は、硬直化したカトリックの改革だけではない。パルチザンからつながる「神」を除くあらゆる物の束縛からの自由を求める精神運動だった。時代においては圧政とたたかい、霊性においては狭まろうとする信仰の門の番人となる。
▽236 詩的経験とは……「超自然の世界」からの「信号」を感受することにほかならないと須賀は考える。……言葉は人間の意識界とは別なところからやってくる。彼方の世界からの「信号」が響きわたる空白を準備すること、それが詩人の役割だと言うのだろう。それは詩人が背負わなければならない孤独という経験と別なものではない。
▽238 人は神を求めて叫びつづける。するとあるとき、おのれの声を響かせている静寂の存在に気づく。「神」は言葉を語らないとき、沈黙をもって人間のあらゆる声を包み込む。
▽244 これまでは、何をするべきかばかりを考え、彷徨いつづけてきた。しかし、これからは、自分が「精いっぱい生き」得るところに身を置きたい。それが自分にとってはコルシア書店があることを、述べている。
▽249 2人の人間が、互いに相手を直接に大切にするよりも、互いが大切に思える何かを見つけることができれば、多くを語らずとも関係を深化させうる。
(〓それはなんだったのか、料理なのか、生活なのか)
▽252 吉満義彦「天使を黙想したことのない人は形而上学者とは言えない」。真の意味で哲学者になろうと思うなら、神の使いである不可視な存在を沈黙のうちに認識していなければならないというのである。
▽254 世界は、人間が考えているような「自然」法則のみでなり立っているのではない。それは、神はもちろん、天使的存在を含みこんだおおいなる自然の摂理のうちにある、というのである。(〓熊楠や賢治)
▽262 共同体の消失はそのまま、詩の喪失にほかならないと須賀は言う。集まって同じ祈りを唱えることを止め、個々人の心のなかで、それぞれの言葉を発する。それは詩文ではなく散文だという。
……真に祈りと呼ぶ物の重要な働きは、個ではなく、共同体に属しているのではないかという思いが須賀にはある。……何かの働きによって人々がつながりを感じながら生きること。……彼女にとって共同体とは、社会的生活と霊的生活ー人間が人間を超えるものを感じながら経験であることを失わない生活−の分断から人々を守る者の異名でも会った。
(〓ネットのつどいと、生身の集いのちがい)
▽「雑誌編集という職場でなら、共同体というものが考えられるかもしれない」とダニエル。須賀はそれを実践する。……コルシア書店は、……「ごったまぜの交流の場」
▽270  コルシア書店、立ち退きに。1970年に決まる。須賀は1971年8月に帰国。
▽271 孤立が社会からの疎外であれば、「孤独」はひとりで人生という大きな問いの前に立つこと。……コルシア書店という運動は、孤立した人々を救い出し、孤独の道へ導くものだったのかもしれない。人は共同体を感じたとき、孤立から解放され、孤独の道を歩きはじめる。
▽274 ……サン・テグジュペリも「カトリック左派」の霊性の体現者だった。
▽277 「コルシア書店の仲間たち」 「現代社会のかかえる問題から決定的にとりのこされている教会を、どうやって今日のわたしたちが生きている時間に合わせるか」という革命的な問題に直面し、そこに突破口を開いた者たちの挑みの歴史物語。
(ニカラグアで新聞配達をした神父〓 孤独に信仰を個として守った人たち)
▽278 人間は個でありつづけるかぎり、利己主義の呪縛から逃れられない。自己中心の境涯の隙間から、他者にむかって祈りを捧げ合うところに共同体が生まれるのかもしれない。そのために、自己の願いを神に届けようとするのとは別な、超越の声を聞くような、受け身としての祈りを経験する必要がある。それは宗派の差異をも越えたところで生起しなければならない。
 自己の願望充足を超えたところでおこなわれる祈りを人は、愛と呼ぶことがある。

 私は私が他者のために存在するその程度だけ存在するといっても過言ではない。そして究極においては、存在すること、それは愛することである(ムーニエ)

(人のためならお供えの料理をつくりつづけることができた〓。それは愛だったからか)
▽282
▽288
▽296 遠藤周作
▽306 カトリック教会はファシズムに対して十分な抵抗ができなかった。ある信者はファシストを支える言動さえした。だが、それにはっきりした形で抗すること、ここにカトリック左派の自覚が芽ばえた。
▽313 真の意味で孤独になるとき、人間としてひとり立ちし、神のほか誰もじぶんのまわりにいないとき、人間はそれまで感じたことのないような内なる勇気を発見するというのである。
▽325 「ほんとうのこと」が鍵語。「僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸いのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」
▽328「精神」の声は「心」の声と合わさるとき、「ほんとう」の意味を語りはじめる。「精神」でいっぱいになりそうな胸のうちに「心」のはたらきをよみがえらせること、それが須賀がミラノでの日々で自らに強いた挑戦だったのである。
▽329「霊魂の中に秘密の小部屋をつくりなさい」そうカタリナは言った……その空間を自分の心に準備することさえできれば、時空の妨げを気にせず、人は必要とする何かに出会うのだろう。
▽332
▽335 真に場所のいのちを感じるとは、そこに生きた人の、すなわち亡き者たちの存在を感じることでもあった。(ニカラグアの神父 原色の風景)
「遠い時間の出来事を自分の生きた時間にたえず重ね」ること、それが土地と交わろうとする者に課せられるつとめになる。
▽340 (教会と船が似ている)霊性の旅は、生きたいように生きることが求められるのではない。波間に時折、幻のように出現する彼方からの促しに従うことが求められる。その促しは……しばしば人間を大きな試練へと導く。……彼女にとって教会は、この世という海を渡る船であり……精神の海、霊性の海を必死に泳ぐ者に与えられる聖なる幻視である。
▽341 現世をつかの間の旅とみなす思想は、……仏教の教えにもある。此岸と彼岸をつなぐのが「船」だというイマージュは、鈴木大拙の言葉を借りれば「日本的霊性」につらなるものなので、それがキリスト教徒であった須賀のなかで新しく開花したのかもしれない。
 ミラノで暮らした期間は須賀の人生のなかで「海の季節」だといえるかもしれない。この時期、夫とともに、あるいは隣人たちとともに「船」に乗っていた。
 1967年、ペッピーノが亡くなって以降、しだいに「歩く」ことに意味を見出していく。「大地の季節」と呼ぶべき人生の地平に出ていくのである。
▽348 ペッピーノの負っている悲しみの深さ……死の場面を見るとき、ペッピーノの顔色が変わる。……
……その病名を知ったときから、私は夜も昼も、坂道をブレーキの効かない自転車で転げおりていくような彼をどうやってせき止めるか、そのことしか考えなかった。死に抗って、死の手から彼をひきはなそうとして疲れ果てている私を残して、あの初夏の夜、もっと疲れはてた彼は、声もかけないでひとり行ってしまった。
(結核だけではなかった?)
ペッピーノが41歳で急死して何年か過ぎ
▽351 結婚してから須賀は「日々を共有する喜びが大きければ大きいほど、……自分は早晩彼を失うことになるのではないかという一見理由のない不安」に怯えていた。
 ……失うことへの怖れはそのまま自らの生と愛する者への情愛のあらわれであることを、須賀ははっきりと感じとったのではなかったか。その情愛は同時に、相手が死者の国に行ってもなお消えることがないことも、おそらく須賀は感じとっている。
▽354 ……あれからいろいろなことが、全くいろいろなことがあって、聖母さま
、今ここに立っています。ペッピーノに会って、ペッピーノが死んで、おばあちゃんが死んで、パパが死にました。パパは苦しんで死にました。私はひとりで生きています。やはりこれは私を育ててくれたcathedraleのひとつだと思った。
……かつて須賀は、中世の木造の教会を見て木造の船を思い、石造りのミラノの大聖堂を見ても「船」だと感じていた。たが、愛する者たちの死を経験した須賀は、自分が感じている悲しみこそが、見えない「船」だったことに気がつく。
 建造物としての教会が「船」だったのではない。そこに記憶された無数の民衆の悲しみこそが「船」だった。信仰は、そうした不可視な船によって運ばれ、自分のところまでやって来たことに眼を開かれる。帰国したのは、この日記が書かれた翌月、1971年8月末だった。
▽356 夫を喪って、生きる気力を失いかけていた須賀を悲しみの底からすくい上げ、彼女を、彼女をふたたび生の現場へと引き戻したのがマッテオだった。……ヴェネチアには行ったことがなかった。……ミラノを離れるのなら、どこだってよかった。
……夫の死を受け入れきれない彼女が、夫と生きた土地から離れようとしないのである。だが、それでもどうにか生きていかなくてはならない、というもう一人の彼女は、何かを引きはがすように、ミラノから離れる機会をうかがっている。
▽359 「ヴェネツィアの悲しみ」が書かれたのは1996年、夫の死からおよそ30年後。このたびに出たとき須賀は、書きつつ、旅の意味を省察できるほどの力が残っていない。
▽361 ヴェネツィアを訪れたときすでに、由来を知らない街並みからでも容易に癒やせない悲しみの香りを感じていた。ユダヤの血を引く人々の多くは、悲痛な歴史を背負いながら生きている。……コルシア書店はそうした人々との交わりの場でもあった。
▽362 場所(トポス)に記憶された言葉にならない情感を引き受けるのは詩人の仕事である。……近代日本の詩人で、トポスの声をもっとも鋭敏に聞き分けた詩人が茨木のり子だった。
▽372 貧しい生活のなかで夫とともに二人で読み継いだサバは、「宝石」だった。二人の生活において読書は、詩集という大きな原石の塊から、自分たちにとってかけがえのない意味の宝石を見つけだすことにほかならなかったというのだろう。
▽381 (芸術も)文学とは、無意識的に働いた芸術的衝動を文字に還元することではない。文字によって文字たり得ないものを伝えようとすることにほかならない。
▽382 自分の内面にも「私の不治の病」が刻印されているのに気がつく。伴侶を喪ったという出来事は「不治の病」となってその痕跡を残している。そのことがはっきり分かった彼女は、その悲傷をもう完治させようとはしない。むしろ、それとともに生きていくほかないという目覚めにも似た実感が静かに彼女を貫いている。
▽383 人生の同伴者を喪うとき、残された者もまた、別種の生命の危機を経験する。……だが……危機にある者は、自らが生の断崖にいることを知らない。
▽387ペッピーノは文学の、あるいは霊性の導き手だった。彼の死は、空が暗転し、道が閉ざされるような出来事だった。「あのことも聞いてほしかった。このこともいっておきたかったと、そんなふうにばかりいまも思って」
 それに対して川端は「それが小説なんだ。そこから小説がはじまるんです」
 生者を描くとは死者とともにある生者を描こうとすることにほかならないというのが川端の原点「小説のはじまるところ」。
 愛する者が死んだという事実の彼方に、真実をかいま見たいのなら「小説」を書くとよい、……
 川端は幼いころからいくつもの死に寄り添い、葬儀に立ち会わなくてはならなかった。死と別れが川端の文学の原点であり、彼にとって文学とは、悲痛と苦しみのなかに生きる意味を探し出そうとすることと同義だった。
▽390 須賀はヴェネツィアで……ユダヤ人虐殺の歴史を告げるモニュメントの前に立ったとき、……自分の悲しみを深化させることしか他とつながる道はなく、他とのつながりによってしか自分の悲しみは深化しないことを、ヴェネツィアへの旅と川端の言葉で知ったのである。
……川端にとって「雪国」における「トンネル」はこの世である顕界と死者の国である冥界をつなぐものにほかならなかった。
……この世のいのちが、彼方の世界にかえっていこうとする本性をを描き出すこと、ここに川端の、須賀の文学の原点がある。
▽392 1971年8月、須賀は帰国する。……2年弱の間に日本での新しい職を得るためにさまざまな知人にも援助を乞うた。
▽396 エマウスは、さまざまな意味において「貧しい人」との共生社会を創出しようという試みだった。ムーニエが考えた「共同体」の実践にほかならない。
▽399 「もたつきながら自分たちの苦しみを見つめ、それに腹を立て、それに泣かされながらも試行錯誤をつづけていく社会」、安心して人がもがき、苦しみ、ときに悲しみ、嘆くことのできる社会をつくること、それがコルシア書店、エマウス運動を経験した須賀の帰結だった。生産性によって価値を測る社会ではなく、存在の一個性において認識され、重んじられる社会。
▽399 1967年、1月に父が手術、6月には夫が亡くなり、8月半ばには母が危篤になり、9月には祖母が亡くなっている。
▽410 1975年までエマウスの責任者をつとめた。運動に従事しつつ研究者としてのキャリアを積み上げ……(上智大学の)常勤職についたのは1979年の4月。助教授になったのは1982年、教授になるのは89年。作家としての最初の著作「ミラノ 霧の風景」が刊行されたのは90年12月だった。
▽419 夫を喪ったあとの彼女にも、自身が恋と呼ぶような交わりがあった。
 私の恋は?行きつ戻りつ。私はとてもおばあさんになってしまって、もうダメと思う日と、いやァまだまだと思う日とがあります。(1977年)
 この手紙から2カ月後の便りには「もう私の恋は終わりました。その人をみてもなんでもなくなってしまった……」と記されている。
▽428 1998年逝去。須賀が作家として活動した期間は7年ほどでしかない。
▽433 肉体の時代は若さの時代。精神の力不足を肉体が補う。歳を重ねると、ともに生きる他者との生活のために肉体のみならず、精神の力を強く発揮せねばならなくなる。そのうちに老いの季節を迎え、その人固有の「たましい」の問いに一人静かに直面することになる。……肉体、精神、たましい、の時節は、階梯的に存在しているともいえるが、三位一体のようにひとつの場所の深まりであるともいえる。
▽434 組織としての教会、司祭職、儀式を必須とはせず、ただ、神の前に独り立つことの意味を説いた内村鑑三の霊性は須賀と共鳴する。

 精神の働きのないところにも異端は育ち得ないという事実を、私たちはなおざりにしてきたのではなかったか。

 教会は「精神」と「たましい」を明確に二分してきた。前者は人間の世界に、後者は神の国に属すると説かれてきた。須賀はそれに疑義を唱える。「たましい」を認めないものによって「たましい」の問題が問われ、深化されることがあるのではないか。むしろ、「精神」こそ、「たましい」の闇を照らし出すことがあると強調する。
▽436 イエスは自分が弟子たちを愛したように自分を愛せとは言わない。自分が愛したように互いを愛せと言う。
▽439 ボナヴェントゥラ「霊魂の闇」
 魂が神の愛のあたたかさに酔いしれ、身も心もはずむにまかせて前進する第一段階、そしてふたたび、まばゆい神との結合にいたって、忘我の恍惚に身を浸すのが第3段階。しかし、このふたつの間には、神を求めるたましいが手探りの状態でしか歩けない第2段階が横たわっていて、歓喜への没入はその漆黒の闇を通り抜けた者だけに許される。
「ボナヴェントゥラの説く闇は、私を恐れさせ、また焦がれさせた。将来を決めかね、川面のように揺れつづけている自分のことがこんなに重荷なのは、すでにその闇に置かれているからのようでもあり、そこにいたるまでの道で、ただ道草をくっているだけのようにも思えた。(〓どちらだろう。手探りをつづける大切さ)
 「闇」こそが真の「光り」の到来を約束する。闇に裏打ちされた「光り」
▽448 他者と真につながるために、人は「ひとり」にならなくてはならない。「孤独」を受け入れなくてはならない。「ユルスナールの靴」は「孤独」の深まりの先に、時空を超えた共時的共同体と呼ぶべき者を発見しようとする挑みでもあった。
▽451 イタリアに渡ったばかりの須賀は、「精神」と「たましい」が対抗するものだと感じ、合理か神秘かという二者択一であると思いがちだった。当時は「精神が、知性による判断の錬磨でありその持続であることに」気づいていなかった。「たましいにいたるためには『精神』を排除してはなにもならない、ということにも」
「たましい」の地平へと向かうためには「精神」の門をくぐらねばならない、というのである。
▽460 「闇」は人を迷わせるものではなく、かえって強く神を求める契機になる、という認識は、須賀の生涯を貫くものとなっている。

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