■それでも人生にイエスと言う<V・E・フランクル>春秋社20210505
フランクルの「夜と霧」はナチスの強制収容所の話というだけで、重苦しくて手に取るのを躊躇した。だが自分が落ち込んでいるときに「夜と霧」を読むと、フランクルは「希望」を描いたのだとわかった。
この本は、強制収容所から解放された翌年の、ウィーンの市民大学での講演録だ。強制収容所の体験のうち、悲惨な部分を薄めて「希望」を抽出し、生きる意味とはなにかを論じている。
生きる意味は「幸せ」「楽しみ」ではない。幸せは目標ではなく、義務を果たした結果にすぎない。「私は人生になにか期待できるか」ではなく「人生は私になにを期待しているか」と問わなければならない。重要なのは、自分の持ち場(現在)において最善を尽くしているか、人生の具体的な問いにどれだけ全存在で答えているか、だ。だから自殺は人生に対する裏切りのようなものだ。
人生を意味あるものにできるのは、第一に活動や創造すること。第二に、自然や芸術、人間を愛する体験をすること。第三に、第一と第二が不可能な状況でも、その状況に対してどんな態度をとるかによって生きる意味を見出せる。変えられない過酷な運命でも、進んで引き受けることで人は成長できる。
私たちは、まだ起こっていないことを自らの力で起こす責任がある。瞬間ごとにつぎの瞬間に対して責任がある。「人生の意味は具体的なものでしかあり得ない」という言葉には厳しさと同時に「いま・ここ」を生きればよいのだという救いを感じる。
収容所では、心の支えをなくした時に無気力とあきらめに陥る。この支えを「将来の解放」に頼る人と、「永遠」つまり宗教に求める人たちがいた。後者の方が強かった。
フランクルは特定の信仰には言及しないが、「人生の意味」に対する宗教的な確信を説く。
世界の出来事は意味があるのか無意味なのか? どちらの可能性もある。だが「存在の超意味」を信じようと決断すると圧倒的に創造的になり得る。「人生の意味」を信じることによって、単にそれを信じるだけではなく、人生の意味そのものを実現できる。「信じる」とは創造に向かうための大きな跳躍なのだ。
深く失望した人の悲哀は、謙虚さと勇気によって克服されるという言葉にも救われた。文字どおり無になった人は、文字どおり本質的な自分に生まれかわったと感じ、神以外はなにもこわくないという勇気を与えられるという。
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▽10 懐疑と悲観主義をも引き受けて担うには、人間として生きている意味と価値を、絶対的に信じていなければならないでしょう。
▽12 最後の最期まで大切だったことは、その人がどんな人間であるか「だけ」だったのです。(立場ではない。すべては個人〓のおこない)
▽16 創造性を発揮し、言葉だけではなく行動によって、生きる意味をそれぞれ自分の存在において実現するかどうかにかかっている。……「生きる意味がない」と唱えるプロパガンダに反対するプロパガンダは、個人的で活動的でなければなりません。そうであってこそ、このプロパガンダは現実的であることができるのです。
▽22 人間は楽しみのために生きているのではないし、楽しみのために生きてはならない。(タゴールの詩)
生きることは義務だと。
私は働くーーすると、ごらん
義務はよろこびだった
しあわせは目標ではなく、義務といわれているものを果たした結果にすぎない。
▽26 「私は人生にまだなにか期待できるか」ではなく「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。
……私たちは、生きる意味を問うてはならない。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起している。私たちは問われている存在なのです。私たちは「人生の問い」に答えなければならない。答えを出さなければならない存在なのです。
……生きていることは答えるること。……未来がないように思われても怖くありません。現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。そのつどどんなことが期待されているかにかかわっている。
▽32 重要なことは、自分の持ち場、活動範囲においてどれほど最善を尽くしているかだけ。
▽39 それが可能なら運命を変える、それが不可避なら進んで運命を引き受ける。そのどちらかなのです。どちらの場合でも、私たちは、運命によって、不幸によって成長できます。
▽43 人生はたえず、意味を実現するなんらかの可能性を提供しています。
……確実に無意味であるのは……自殺。自殺しても問題の解決にはならないのです。
……人生のルールは私たちに、どんなことをしても勝つということを求めていませんが、けっして戦いを放棄しないことは求めているはずです。
▽49 苦難と死こそが人生を意味あるものにする。
▽55 人間は不完全だから、唯一のものになる。……自分だけで唯一であるのではなく、人間の共同体にとって唯一である場合だけ価値がありうる。
▽57 生は、与えられたものではなく、課せられたもの。……生きることは、困難になればなるほど、意味あるものになる可能性がある。
……85歳の女性「私はやっと、自分の人生がなにかわかりました。私の人生は、もっといい人間になるために特別に猶予してもらっているものだったのです」
▽72 人生を意味あるものにできるのは、第一に、なにかをおこなうこと、活動したり創造したりすること、自分の仕事を実現することによってです。第二に、なにかを体験すること、自然、芸術、人間を愛することによっても意味を実現できます。第3に、第一でも第二でも人生を価値あるものにする可能性がなくても……自分の可能性が制約されているということが、どうしようもない運命であり、逃れられない事実であっても、その事実に対してどんな態度をとるか……その運命を自分に架せられた「十字架」としてどう引き受けるかに、生きる意味を見出すことができるのです。
……人生の意味は具体的なものでしかあり得ない。
▽76 死ぬ間際、まわりの人をいたわり、はやめのセデーションを求めた患者。さりげないけれど人間らしい業績。(Rのふるまい、教えたこと、プイとむこうを向いたこと)
▽82 タイタニック号 車いすの詩人。意識して死ぬ。……意識して死におもむいていくというのは、運命の贈り物にちがいない。
▽102 愛することによって、自分が愛する人がまさに唯一であり世界でただ1人だということが気づかれると言うことが、愛の本質なのです。
▽110 生きているとは、問われているということ。生きる意味を問題にするのはまちがっている。生きる意味はその時々に応答することにあるからです。人生の具体的な問いに対して、……なにかをしてはじめて答えることができる。生きていくなかで、自分の全存在で答えなければならない。
▽112 世界の出来事全体に意味があるのか。まったくの無意味か、すべてが有意味か……どちらの可能性も反駁できない。……存在の超意味を信じようと決断すると、その創造的な結果があらわれるでしょう。……信じるというのは、ただ「それが」真実だと信じるということではありません。ずっとそれ以上です。信じることを、真実のことにするのです。……たんにひとつの考え方の可能性を選ぶことではないのです。たんに考え方の可能性にすぎないものを実現することなのです。
▽118 強制収容所 つらい生活全体から距離を置いて超越するために、この生活をいわば高い立場から眺めてみようとやってみた。ウィーンの市民大学の講壇に立って講演しているのだと想像しました。(〓痛みを観察する)その心のなかの講演を、いまはじめて現実にするつもりです。
▽122 「君ひとり、すぐにでも(ガス室送りに)選別されそうなんだ」。その瞬間に感じたのは、せいぜいのところ、そういうことなら十中八九わざわざ自殺しなくてもすむだろうという満足感だったのです。
……自分の運命に対するこのような無関心はますます進んでいきます。収容所に入れられて数日のうちにもう、どんどん無感覚になっていきます。……情緒そのものが最小限に減ってしまう……出来事の圧倒的な力から身を守り、均衡を保とうとするのです。……心理的反応の第二段階、無感情(アパティー)の段階。
▽125 強制収容所での夢。パン、たばこ、おいしい本物のコーヒー。……強制収容所の体験を通して、内面的に前進し、内面的に自己超越して成長し、本当に大きな人間に成長したたくさんのケースを知っています。
▽128 無感情を克服し、いらだちを抑えることがほんとうにできた人たちがいました。……すべてのものは取りあげても、内面的な能力、人間としての本当の自由は、囚人から取りあげることはできなかったのです。その自由は残っていた。
……環境の力と影響を逃れて「法則性」に服さず抵抗し、「法則性」に盲目的に服従する代わりに「法則性」から逃れる自由があったのです。
……典型的な囚人になってしまったのはいつでしょうか。……心の支えをなくしたときだ。この支えは、将来にあるか、永遠にあるかでした。後者は宗教的なすべての人たちの場合でした。この人たちは将来解放されてから自由な生活を送ることを支えにする必要もありませんでした。
▽139 解放された囚人の真理。解放を喜ぶことができるためには、何日もかかる。
▽155 解放された人、幸運に感謝するばかりで、収容所にいたときから考えていたこと以外、なにもできない。仕返しや復讐は考えられない。
あるいは、徹底的に失望させられzた人は、もう一度収容所にもどることさえ憧れる。少なくとも、いつかはまた幸せになれるという希望を抱くことができたころのことを痛切に思い返す。これほど失望した人の悲哀は、二つのことによって克服されます。謙虚さと勇気です。
……死の危険がたえずあるなかで生きていなくてもいいという状況、こういうものを感謝をもってうけとめる。文字どおり無になった人は、文字どおり生まれかわったように感じるのです。もっと本質的な自分に生まれかわるのです。……すべての非本質的なものが「溶けて」しまう。溶けないで持ちこたえるのは、せいぜい業績欲ぐらいのものでしょう。それは自己実現の要求なのです。
収容所の囚人だった人がたずさえてくる勇気は……神以外はもうなにも恐れなくてもいい、なにもこわいと思えないという感情なのです。
▽138 私たちが創造したり、体験したり、苦悩したりしていることは、同時に永遠に向かって創造し、体験し、苦悩しているのです。……私たちは、まだ起こっていないことをまさに起こすよう、責任を自覚しなければならない……日常の現実がなにかを実現する可能性になるのです。日常の形而上学は私たちを、まず日常から連れ出すけれども、自覚とともに、責任の自覚とともに、ふたたび日常に連れ戻すのです。
……瞬間ごとにつぎの瞬間に対して責任がある……私が日常のなかで「起こした」ことは、私が救い出すことによって現実のものになり、露と消えてしまわずにすんでものなのです。(いま・ここ〓)
▽161 人生はそれ自体意味があるわけですから、どんな状況でも人生にイエスと言う意味があります。困窮と死にもかかわらず、身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、また強制収容所の運命の下にあったとしても、人生にイエスと言うことができるのです。
□解説 山田邦男
▽170 ニヒリズムを通り抜け、悲観主義と懐疑を通り抜け、……新しい人間性煮、到達しなければなりません。これが本書の主題。
▽173 自殺を試みようとしていた2人。人生におけるあるものが未来において待っている、ということを示して踏みとどまった。……科学者として本のシリーズを完結することが「待って」いた。
待っている仕事、待っている愛する人、に対してもっている責任を意識した人間は、彼の生命を放棄することがけっしてできないのである。
▽174 精神分析(フロイト)にとって人間は快楽原理によって左右される存在。個人心理学(アドラー)にとっては権勢欲つまり力への意志によって規定される存在だった。しかし実際には、人間は意味への医師によってもっとも深く支配されつづけています。
「快楽への意志」「力への意志」「意味への意志」
前者の2つの意志は、自己(人間)が生きるためのものであって、その自己が生きるのはなんのためか、という問いと反省を書いていた。それを問い、反省するのが「意味への意志」
▽183 (障害を持つ娘)「おかあさんのこと好き? ちびちゃん」ときくと、娘は私にしっかりだきついてほほえみ、小さな手で不器用に私の顔をなでるのでした。そんなとき私はしあわせでした。どんなにつらいことがあっても、かぎりなくしあわせだったのです。(好きに決まってるやん!〓のとき。本当の幸せと悲しみはかなり近いところにある)
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