■五月書房新社 20210517
西表島の辺境のムラは2度訪ねた。目の前に浮かぶ内離島に炭坑があったと聞いていた。その炭坑の台湾人労働者の歴史をたどったドキュメンタリーの監督が書いた本だ。
西表島の石炭採掘は1960年代までつづいた。
今は無人島になっている内離島には2000人以上が住んでいた。今は眠ったようなムラである白浜集落は西表島の西側玄関口として日本中に大量の石炭を送り出していた。
白浜に住む主人公のおばあは、炭坑に台湾人を連れてくる役割を担った人の娘(養子)だ。2014年から彼女が亡くなる2018年までインタビューを重ねた。
炭坑労働者の給料はクーポン(切符)で支払われ、切符は炭坑の売店でしか使えないから逃亡できなかった。「戦争があってよかったな。それも負けたからよかった。勝っとったらまた炭坑をやっとったはずだ」「監獄にぶち込まれた方がまだ出られる可能性がある」と元労働者が言うほど過酷な「緑の牢獄」だった。
でも映画の目的はそんな状況を告発することではない。
主人公のおばあの、老朽化した平屋建ての家の居間にこだわって撮りつづける。そこは、廃墟になりかけた虚無の空間だった。
それを筆者は「永久不変の廃墟」、「とある時間」が「とある場所」で静止したことによってもたらされた「虚無感」とつづり、緑の牢獄は「古い家という空間に詰めこまれているおばあの人生における記憶の牢獄をも暗示している」とする。意識的にあの家のあの部屋にこだわっていたのだ。
映画は、おばあの今と、父を中心とした過去の映像と、かつての炭坑の様子の再現ドラマで構成した。
それによって西表炭坑に関する集団的記憶と、おばあの記憶と、(父の)楊添福の記憶と、坑夫たちの記憶と、島に暮らす人々の記憶を結びつけようとした。そのために時代考証に徹底的に時間と手間をかけていた。
個人の視点から巨大な過去を仰ぎ見るというスタンスの映画だが、「過去を第三者的視点から評論することは拒否」し、炭坑やおばあの家の過去を想像して過ごしていた「波のきらめく白浜での午後」を表現したという。
哀しさと透明なむなしさを感じさせる詩的ドキュメンタリーができあがる背景がよくわかった。
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▽内離島 かつて2000人以上の人口があった。当時は海上に浮かぶ工業都市のように見えたという。白浜は西表島の西側玄関口として、日本中に大量の石炭を送り出すための輸出港の役目を担った。
外離島は、基本的には無人島だったが、戦後は、常に野人のように生活するおじさんの存在がこの島を有名にした。
▽21 2014年、はじめて訪れ、橋間良子おばあにインタビュー。
▽30 部屋を借りた店子たち。そそくさと出ていくはめに。ルイスは2015年に引っ越してきた。……ルイスは高野山で出家することを選んだ。
▽40 白浜小学校は、1937年、南海炭鉱、星岡炭鉱、丸三炭鉱などの会社が共同でつくった。
▽59 内離島 そこかしこに坑道が掘られ、「親方」(炭坑管理者)が縄張りを占めていた。
▽63 炭坑開発の中心となったのは、マングローブの「浦内川」の支流「宇田良川」、「内離島」
……西表炭坑の開発史は米軍統治下でもつづいたが、1960年代に幕を下ろした。
……この炭坑は、みずからの意志で逃げ出すことは決してかなわない孤島の牢獄であったと。
▽69 炭坑特有のクーポン(切符)(〓別子山でも、地域通貨、どころではない)、切符を発行した炭坑の売店でしか使用できない。坑夫たちの給料は「切符」で支払われる。炭坑を離れれば紙くずとなった。
▽73 米軍統治下、内離島は、猪を狩るための猟場だった。今でも狩人たちに熟知される「猪罠」は、揚添福が導入した「台湾式落とし穴」
▽86 戦争があってよかったな。それも負けたからよかった。勝っとったらまた炭坑をやっとったはずだ。だから、戦争に負けてよかったんだよ(大井兼雄さん「聞書 西表炭坑」)
▽90 坑夫たちは監獄にぶち込められると、いつかは出られるという薄い望みがあるわけです。(炭坑に比べると)
▽94
▽164 モルヒネによって坑夫たちをコントロールするのが常態化していた。
▽206 「軍艦島」 ガイドツアーに参加。対岸の野母崎にある軍艦島資料館。1960年代に東京の9倍以上世界一の人口密度を誇った。……世界に類を見ない人気スポット。
▽239 「再現ドラマ」の肯定に2018年に着手。
▽245 炭鉱業は「爆薬」を合法的に購入できる業種のひとつ。……八重山の住民は、戦前から戦後に書けての一時期、火薬を海に投げ入れて爆発させ、魚の群を一網打尽にする漁が流行した。必要な火薬は、西表炭坑を通して闇市場へと流入していた。
▽277
▽284 小川紳介監督 監督とスタッフ自身も農業をしながら現地の住民と一体化して撮影した「ニッポン国古屋敷村」(1982年)と「千年刻みの日時計 牧野村物語」(1986年)は、「グループによる共同作業形式」によって生み出されたドキュメンタリーの集大成。
▽298 おばあの家 「永久不変の廃墟」「とある時間」が「とある場所」で静止したことによってもたらされた「虚無感」。緑の牢獄は、古い家という空間に詰めこまれているおばあの人生における記憶の牢獄をも暗示している。
▽302 この映画をもし、ひとつの要素だけであらわすのなら、おそらくおばあのため息になるだろう。ため息に詰めこまれているのは、大きな時代の下に取り残されたあらゆる人の「その後の人生」だ。……おばあの人生と再現ドラマ、アーカイブ映像や写真を通して、西表炭坑とその時代に関する集団的記憶が、おばあの記憶が、楊添福の記憶が、坑夫たちの記憶が、この島に暮らす人々の記憶が……、さらなる膨大な個数の記憶が、そこには結びつけられたのだ。
▽322 おばあの自分自身に対する疑いと憐れみ、自責と後悔、そして内心にわだかまっていた捨て去ることのできない葛藤についての映画なのだ。
編集にあたって問題になったのは、ルイスの描き方と、再現ドラマの割合、楊添福たちのアーカイブ映像と現代の映像との間にある距離感。
▽326 この映画が選んだのは、個人の視点から巨大な過去を仰ぎ見るという姿勢だった。この映画がより重視しているのは、私たちと橋間おばあとが一緒に過ごした撮影中の時間ーー大きな歴史の記憶を振り返り(ただしその過去を第三者的視点から評論することは拒否しつつ)、炭坑や橋間家の過去を想像して過ごしていたーー波のきらめく白浜での午後だ。
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