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星と祭 上下<井上靖>

■角川書店20191208
 主人公は、前妻との間にできた17歳の娘みはるを琵琶湖の水難事故で亡くした。大学生の男友達とともに遺体はあがらなかった。
 夜中に何度も目覚め、目覚めるたびに心は悲しみで冷たくなる。何をしても張り合いを感じない。友だちづきあいも切れるだけ切る。つらい思いはなんの前触れもなくやってくる。
 時が悲しみを癒やすことはない。でもそれが娘の運命であり、自分という人間もまたひとつの運命だと考えられるようにはなるという。運命は変えられないが、運命の意味は変えられる、という。「運命」という形で自らを悲しみから一歩引き剥がすことができるのだろうか。
 万葉集の挽歌は、生と死の中間の「もがり」の期間にある人たちとの対話だという。遺体の見つからない主人公の娘も「もがり」の状態にある。
 主人公は毎日のようにみはると対話する。事件から1,2年は苦しみに苛まれたが、対話しはじめてからは気持ちは落ち着いた。
 自分は娘の立場に立って考えてやり、娘の側は主人公の立場に立って、慰めいたわってくれる。
 「実在する死者」としての娘との会話を通して、娘の死の前とは異なる人生を歩みはじめる。悲しみはそのままだが、運命論的な虚無の明るさが生まれる。死者の実在を説く若松英輔の世界に似ている。
 どこか遠い星で自分と同じ人生を歩む人がいる。どちらかが実でどちらかは影だ。遠い星にいる自分の影を思いやり、いたわる。他人にやさしくするように、遠い星の自分の影を思いやる。自分の運命というものをちょっと距離を置いて考えることで、絶望の淵にいる自身をも慈しむことができるようになる、ということだろうか。
 主人公は「湖」を見ることを忌避していたが、8年経って琵琶湖の辺に立つ。みはるの男友達の父親はその間、琵琶湖に通いつづけ、周囲の十一面観音を拝みつづけていた。
 観音は、如来になるために、衆生の苦しみを救うことを自らに課した存在だ。人々を必死に救おうとする観音は地域共同体によって守られてきた。主人公もそれにふれ、自分もまた救済の対象なのだと自覚する。十一面観音像のなかに娘の姿を見つける。
 悲しみが癒えることが忘却を意味するのなら癒やされたくない。でも無間地獄のような悲しみは耐えがたい。悲しみながら穏やかな気持ちになることはできないのか?
 大切な人を失った人間の思いを井上靖はしっかりくみ取っている。たぶん彼自身そんな経験をしてきたのだろう。
 だが主人公のように新たな人生を歩めるようになるという確信はまだ持てない。
 物語では、愛する者の死を処理する方法は、悲しむこと、祀ることしかない、と結んでいる。
 悲しむことは大事なのだ。
 あとは「祀ること」か。

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