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遍歴<神谷美恵子>

■みすず書房 20190714

 最晩年に自らの人生を振り返って書いた自叙伝。原稿を出版社に送った1週間後に亡くなったという。行間から「あなたはどう生きるの?」と語りかけてくる名著だ。
 父前田多門は内務官僚で新渡戸稲造の弟子だった。戦後直後には文部大臣をつとめた。
 おじを通して無教会派のキリスト教の影響を受けると共に、厳格すぎる教条的な教えに反発する。アメリカではクェーカー教徒の影響を受けた。クェーカーはすべての人が心の中にもつ神的な「内なる光」を重視する。伝道をせず、むしろ他の宗教から学ぼうとする。真理を求めるという本来の宗教のありかたの原点のような宗教なのかもしれない。私もクエーカーの友人がいたが、平和主義以外の中身を知ろうとしなかったことが悔やまれる。
 十代から、ギリシャ哲学やキリスト教、さまざまな小説を読みつづけた。そして、小学生のときのスイスの先生にはじまり、多くの「師」にめぐりあう。「師」によって人は自分の枠をこわすことができる。この本を読むと、私には「師」を求める心が足りなかったと痛感させられる。あえて言えば農村の価値を教えてもらった稲葉峯雄先生だろうか。
 津田塾時代におじにつれられてハンセン病療養所に行き、「苦しむ人、悲しむ人のところにしか私の居所はない」と思い定めた。
 戦後直後は安倍能成文部大臣の通訳として進駐軍とも渡り合った。「べつにわれわれは生命が欲しいっていうんじゃないから」と、政治家があたりまえのように命をかけていた時代の空気を体全体で感じていた。
 「ライ病患者に寄り添った聖女」というイメージがあるが、その以前に膨大な読書と精神の格闘と、多くの「師」との出会いによって基盤が培われていたのだということがよくわかる。
 この本では「過去の苦しみのなかで、一種の変革体験とおぼしきものを経て以来、人は人間を超えたものに支えられているという意識があった」とさらりと書いてあるが、これは大事な人を亡くした後の「光」の体験だったと別の本に記されていた。
 その体験をもっとくわしく知りたいと思った。
 そのほかにも、宝のような言葉があちこちにちりばめられている。
 「生きるとは、われわれのあらゆる器官、感覚、能力、われわれ自身のあらゆる部分を使うこと…これが生きているという感情を与えてくれるのだ。…生をもっとも多く感じた者こそ最も多く生きたのだ」(ルソー)。
 五感も肉体も精神も総動員することが大切なのに、私には芸術などを生み出し、感じる感性が足りない。Rはその点、私以上に充実した人生を送ったんだなあと思った。
「…現世を生きていることの重要性、日々の卑近な営みのなかに永遠的なものを生かしていく責任があること……各自が貧しいながらその個性にもっともふさわしいやり方で、与えられた生命を忠実に生きぬくこと」
 「永遠的なものをいかす」って、大事なことだとはわかるけれど、まだ具体的な像を結ぶことができない。
「マルクス・アウレリウスは過去も未来も問題にするに足りない、現在だけをよく生きることに専心するがよい、と至るところで言っている。…現世をただ「涙の谷」とのみみなす考え方から解放してくれ、「生存の重さ」を教えてくれた」……

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▽29 ルソーの言葉 生きるとは、われわれのあらゆる器官、感覚、能力、われわれ自身のあらゆる部分を使うこと…これが生きているという感情を与えてくれるのだ。…生をもっとも多く感じた者こそ最も多く生きたのだ(チンは〓)
▽51 母は1955年に65歳で、父よりも7年早く亡くなった。そのあと父は多磨墓地に2人だけの墓をつくり、…当時71歳だった父の、これは明らかな再婚拒否の宣言だった。
▽53 31歳まで結婚せず、病気、おそい医学進学などで、最後までうちでごろごろしていた私に…
▽76 母方の叔父金沢常雄 独立の無教会主義者。津田塾時代に彼のすすめに従ってらいの療養所を訪ねた…
 (看護師を見て)私もこの方のように、こういう患者さんのところで働きたい! ここにこそ私の仕事があったのだ!…苦しむ人、悲しむ人のところにしか私の居所はない、とすぐさま思い定めてしまった。
▽79 金沢の叔父が、私の父母の生活は世俗的すぎると折にふれて非難していた。今考えてみると、父はきまじめすぎるほどの人だったのに…
…内村鑑三の弟子の藤井武。恋愛は肉欲をふくんだ現世的なものだからダメ。ひとたび配偶者を喪ったならば、決して再婚してはならないと断定される。先生は結婚数年にして妻を喪われ、あと7年間幼い子どもさんたちをかかえて悲しみと苦しみの生活を送られた。
▽83 三谷隆正 この世で出会ったほとんど唯一の師と思っている。…私の生涯での危機のひとつを厳しい批判と共に、稀に見る寛容な思いやりをもって支え、乗りこえさせてくださった。
…形式よりも生命が大切なこと、現世を生きていることの重要性、日々の卑近な営みのなかに永遠的なものを生かしていく責任があること〓〓ーー以上のようなことが、先生の生き生きとしたお姿を通して、心の深いところにしみこんでくるのであった。
…各自が貧しいながらその個性にもっともふさわしいやり方で、与えられた生命を忠実に生きぬくこと。
 内村鑑三先生の弟子たちの集会がセクト化し、排他的になっていくのに対し、先生は何もにもとらわれないような広い、闊達なところをもちつづけておられた。
 …「つねに愛と正義を求めて生きよ」。この世においてこそ、永遠性に通じるものを実現する責任が各人に与えられているのだ、と言われた。来世を待つ、という消極性を捨てて、勇猛心をふるって積極的に生きよ、と説かれた。
▽91 過去の苦しみのなかで、一種の「変革体験」とおぼしきものを経て以来、人は人間を超えたものに支えられているという意識があったし…。
▽95 マルクス・アウレリウスは過去も未来も問題にするに足りない、現在だけをよく生きることに専心するがよい、と至るところで言っている。三谷先生から教えて頂いたことと一致して、現世をただ「涙の谷」とのみみなす考え方から解放してくれ、「生存の重さ」を教えてくれた。
▽96 私の場合、つらいことが生活の上に起こってくるたびに、反射的に翻訳という仕事に逃げ場を求めた。
▽97 病と死の世界がこのころの自分の住処だったのだろう。自分も病んでいてまもなく死ぬと思っていたのだから。
…治ってしまい、余生を何に使うかという問題が出てくる。…この時代に私をこの世にひきとめたのは「現世を大切に生きよ」という三谷先生の教えであり、「歴史の発見」であった。生きている限り、人はこの現実の世界に何らかの足跡を残さなければならない、と、歴史の本をむさぼり読んだ。…しかし結局、この自分がどう生きたらよいか、ということに戻ってしまう。「何か一生なすべき仕事」を求めてさまよった。
▽102 226事件のころから父の名はブラックリストに載っていたという。
アメリカへ。母は無教会主義の排他性をきらい、クェーカーのような寛容かつ不言実行を旨とする宗教を高く評価していた。
…フレンドとは、…彼らが礼拝する時、霊感を感じるあまり震えるところから、クェーカー(ふるえる人)という別名がついた。牧師というものを認めない。…賛美歌を歌うのでもなければ、説教を聞くのでもない。沈黙を主体として、何か霊感を感じた人は立ってなるべく短くそれを話す。
…質素勤勉を旨とするから、富を蓄積し、その財力で社会福祉事業、教育事業…などをやってきた。徹底した平和主義者で、戦時には良心的兵役拒否をして…。
…彼らは決して伝道しようとしない。むしろ他の宗教から学ぼうとする。
▽112 私は宗教的集団に属したいとは思わないが、もし属したいと思うときがきたとしたら、それはクェーカーだと思っている。
▽119 クェーカーでは好んで「内なる光」を重視する。すべての人間の心の中に神的なものがある、という考え。私がかつて絶望のどん底から救われたあの不思議な光と同類のものとしか思われなかった。
▽124 ドイツ人の手紙「私のいうのはゆたかな一生であって、単なる「幸福な」一生ではありません。豊かな充実した生涯を送るのをおそれ、そのために決して「幸福」を見出さない人が世の中にはあまりにも多い。あえて闘うのでなければ、何人も、何物をもたたかいとることはできません」〓
▽127 愛、存在理由、安全感ーーこれらのものこそ人間にとってパンにも劣らぬ大切な要素であろう。これらを人間に提供しうるものは何か。…宗教をおいて他にはない。宗教的信仰を得てはじめて人間はすべてを超えた神の愛を知り、自らも神と人とを愛するようになり、また神に知られるゆえに自己の存在理由を知り、神に守られるがゆえに、どんな場合にも安心していられる。
▽149 宗教、神学、社会問題で明け暮れるPHの生活から、時々脱出するのは心が洗われるようだった。私にとって思想も大切だったが、ものを考える人間を育んだ自然との交流は、ある意味でもっと重要だったように思う。それは今に至るまで変わらない。(〓山を歩くことは気持ちええちゃ)
▽161 プラトン
▽163 万難を排して自発的に努力しているからこそ「学ぶよろこび」があふれていたのにちがいない。欠乏や障害があるほうが自発性とよろこびを生みやすいことは、その後、教師としてもたびたび目撃してきた。
▽173(らい院で)本質的なものを、より本質的なものを、と求めてやまぬ心に追いやられて、はるばるここまでやってきた求道者を、神よ、お導きください。どうか本質的なことにのみ私の力の最善を注がせてください。
…ここではあらゆる死亡者は例外なしに解剖される。死亡者の数は平均2日間に1人。
…「あんまり考えないことですな。考えていると結局何もしなくなっちゃうからね」立川先生はこう言って笑う。〓
▽201 「大学の先生なんていうものは一番きらい。…」世界的に有名な光田先生は、学位授与の話をされても断ってきたと聞いた。先生の若々しい情熱、広い視野、酒脱な風格にすっかり魅了されてしまった。
▽204 らい院) 学問的にも非常に活発で独創的で…患者たちも先生方に、少しでもひまがあれば研究してもらいたい、と期待をかけているという。

ゆるして下さい、癩の人よ
浅く、かろく、生の海の面に浮かびただよい
そこはかとなく 神だの霊魂だのと
きこえよき言葉をあやつる私たちを
▽215 バッハをレコードで聴いたり、ピアノで弾いたりすることさえ許されれば、この島の生活に、たとえどんな寂しい面、荒涼たる面があろうとも耐えられそうに思う。(〓音楽というもの)
▽226 空襲で実家が全焼。ピアノが焼けた。「音楽は死んだ。もう音楽なしでは生きていけない」というのが私の感慨であった。失ってみてはじめて失ったものの大きさがわかる。私にとってもっとも貴重な音楽が生活に復活したのは、15年余もしてからだったろうか。
▽233 司令部との交渉。「べつにわれわれは生命が欲しいっていうんじゃないからーー」。政治家があたりまえのように命をかけている。
安倍能成の発言「米国が戦勝国であることを認める。しかし米国が戦勝国たるをもって、あえて真理と正義を犯そうとするものではないことを信じる」。堂々と渡り合っていた。
▽251 合理主義を突き詰める危険と宗教の必要性も話し合っていた。
安倍「合理主義をつきつめる危険は、フランス革命の恐怖政治がよくあらわしている」
ダイク「合理主義のみよしとすれば、宗教も存在しえなくなる。宗教というものが国民生活に必要であるという考えでは、あなたも私も一致していると思う」
▽256 軍国主義的な教授を排除するため、大学の自治を制限するという考え方が話し合われた。教授の適格審査も文部省がやるべき、と。このときの話し合いが、文科省の権力を残すもとになってしまったのだろうか。
▽258 ニュージェント「まだ、ローマ字論を主張するだけの根拠はもっていないが…漢字を減らすこと…ふりがなを用いること。新聞の論説などももっとやさしい文体で書くこと…」
▽274 安倍大臣「平和国家、文化国家を目的にするからには、ヒューマニスティックな思想が前提となる。この思想の基礎は宗教であろう。…普遍律の観念や人間平等の思想、個性尊重の思想などは、宗教的感情にもとづかねばならぬ」
▽278 GHQとの関係で日本側はそれほどペコペコばかりしていたとは思えない。ただ、何でもかんでも文書は英訳して、検閲係を通さなければならないのは、屈辱的であった。
▽286 (襲ってこようとした米兵)この時代の日本の女たちはどんな目にあっていたことだろう。また、ものほしさから米兵にまつわりつく女性たちの情けない姿も、ちまたにはみられたが、そのころの生活の苦しさを思えばなにも言う気になれない。
▽295 はしかにかかると結核に対する免疫が壊れてしまう。次男は…三歳半の時に粟粒結核…泣きながら看護した。…フランス語の塾を自前で本格的にやろうと、決心したのは、主として子どもの薬を買うためだった。
 …数々のミスにもかかわらず、多くの人の助けや「運」に恵まれたのだ。その幸運の分だけ、私は人生に何かを負うているのだ。
▽306 41歳の時、ガンの初期にかかってラジウムの大量照射で何とか発達を食い止めていた。…どうせ近々死ぬなら…光田先生のもとで精神科医として研究して死にたい、と願った。
▽308 家庭を関西におき、岡山と東京の間を往復する生活が何年かつづいた。しかし体力的に無理であった。やがて心臓を患い、すべての公務を辞さなければならない日がやってきた。
…らいの患者さんのところへ15年近く通えたのは一生のよろこびであった…社会の底辺の人こそもっとも大切にすべき人たちだ、との思いを深めている。
▽神谷宣郎 あとがきにかえて
 昭和54年10月15日朝にみすず書房に送り、1週間後の22日朝に彼女は世を去った。
…事情をよく知らない人は、彼女が比較的恵まれた境遇で、自分の才能を思う存分伸ばしたと思うかもしれない。しかしそれは事実ではない。「新しい生活」以降の記述は、控えめな表現ではあるが、彼女が決して自分の好きなこと、したいことだけをして生きてきたのではないことを物語っている。
▽森まゆみの解説
 いつも本質的に、自分の頭で考え、自分がどう生きるべきかに立ち戻る、まっすぐな女性の前に立たされる。彼女の穏やかで静かなまなざしが、読むものに「あなたはどう生きるのですか」と語りかけてくる。
 …父前田多門は、…内務官僚であり、新渡戸稲造の弟子…いや当時は、官僚にも理想主義者が多かったのであろう。
 …もっとも彼女を自由にし、成長に寄与したのは…スイスの学校とクェーカー教徒の主宰するペンドル・ヒル学寮だろう。
 スイスではILO日本代表令嬢であった。
 …成長の段階で、かけがえのない人間と出会い、多くを吸収しているが、これも偶然というよりはいわば烈しく求めた彼女自身がたぐり寄せた絆といえないこともない。平塚らいてうの「烈しく欲求することは事実を産むもっとも確実な真原因である」
 …19歳で「多摩全生圓」へ。19歳のこのときまでに、彼女は他者への共感能力、人間を超える存在への畏怖や信頼、生きがいの模索、奉仕の精神などが準備されており、病み崩れ、偏見を受けながら、信仰に生きるハンセン病患者を目前に見て、魂が呼応したのだろう。
 …彼女の本には、木葉のそよぎや、草のにおいや鳥の声…高原の涼しいさわやかな風が吹いている。…イタリア文学者の須賀敦子…といくつもの類似点を見出すが、2人の自然の描き方の違いはとても興味深い。須賀敦子の風景は行為の背景に現れて強い印象を残すが、神谷美恵子の自然はまるで自らを写す鏡のようである。
 …生物学者、神谷宣郎と結婚。伝記「神谷美恵子」の著者江尻美穂子によると、「彼女の才能、容姿、人柄に魅せられて多くの男性が恋愛感情を抱いた」という。宣郎は「ひたすらなる苦行僧にも似た研究態度」を持ち…「ああ、彼を私はどんなに愛し尊敬することだろう。心身の全部をもって彼を愛する楽しさ。私はどんなにもして彼を幸せにしなくてはならない」と日記に書いている…(どこか似ている)
 …41歳で初期の子宮ガンが発見された。43歳で長島愛生園へ。「あと何年生きるか、ことに何年元気でいられるか、まったくわかりませんけれど、残されている地上の生命でできるだけ「使命」と感じられることを忠実に果たしたいものとひたすら念じます」
 …穏やかさ、やさしさ、気品はあるが偉ぶらない…グチも口にしなかった。愛生園では家庭や子どものこともチラリとも語らなかった。
 こうした態度は生来のものというより、彼女がすさまじい自己格闘の末、獲得したものだということが、日記を読めばわかる。一番興味があるのは「人間性の探究」だと言い切った彼女は、自分もよく観察し、批判し、反省し、笑い飛ばした。
…恵まれた環境を生かして他者の役に立つ人もいれば、浅くごまかして世を渡る人もいる。挫折や逆境のなかで、犯罪に至る人もいれば、それを糧として世を明るくする人もいる。…神谷美恵子のような環境が与えられることは難しいかもしれないが、彼女のように烈しく真実を求め、一人学ぶよろこびを確立することは誰にでもできる。
「そうだ。神と偕に飛び跳ねるのだ。冒険をおかすのだ。一生を賭して」
▽看護師・田中孝子
 (就職を決めたら)母からはすぐに「お前からくる手紙は全部消毒をしてから寄越してくれ」と言ってきた。看護学校の友だちは「今後手紙を寄越さないでくれ」。
…「婦長さん、私はねぇ、親からももらえなかったほどの愛情を神谷先生からいただきました」と涙を流して言われた…

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