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現代語訳 般若心経<玄侑宗久>

■現代語訳 般若心経<玄侑宗久>筑摩新書 20181223
今まで読んだ般若心経の解説本でもっともわかりやすかった。
人は成長するにしたがって世界を言語で認識し、概念という枠にしたがって世界を理解するようになる。「私」という自我を確立して「概念」を駆使することが成長であるとされる。
だが「私」や概念といった合理的知性に覆われると「全体性」が見えなくなり、それが悩みや苦しみを生みだす。般若心経は合理的知性とは異なる、幸せをもたらす真の知(般若)のあり方を示しているという。
合理的知性は、私と他人、苦と楽、汚と清、といった形で分節化することで理解するが、真の知では、いのちの全体を全体として感じ取るらしい。あらゆる現象は実体がない「空」であり、関係性のなかで、絶えず変化しながら発生する出来事である。だから「全体」は「個」の集合ではない。福岡伸一の「動的平衡」の論に似ている。
量子力学では物質を「粒子であり、また波である」とする。粒子を「色」、波を「空」に置き換えることができるという。最先端の科学は般若心経の世界に近づいているのだ。
「分別知」を「空」にもどすべきだという考えは、自然農法の福岡正信さんも言っていた。野菜や果物を育てるには、「分別知」でつくられた農薬や化学肥料は役立たないと説き、仏教的な世界に足を踏み入れていった。
苦痛というのは「私」がなくなれば、ゼロになるらしい。「さびしい」も「わびしい」も、自然の変化を信じて「さびしい」「わびしい」ままにしておけばいい。抵抗さえしなければ、それが「さび」「わび」という味わいにさえなる。
「死にたいと思ったら、一度水に飛び込んだらよい。『死にたい私』に関係なく、『からだ』はもがく。『死にたい』なんて思ってたのは『私』(脳細胞の一部)だけだってすぐにわかる」……という指摘は目から鱗だった。「私」を「いのち」そのものと錯覚するべきではないのだ。
「私」をなくすには、「いのち」を支える関係性(縁起)を実感していくしかない。「それ以外に人間の成長する道はない」と断言する。
人間の成長って、多くの他人の思いを自分のなかに取り込み、想像力を育み、よりやさしくなることだと思ってきたが、仏教の立場では、こういうひとことで説明できるのだ。
苦悩の最中も、病に臥せっていても、悲しみに沈んでいても、いつでもどこでも究極のやすらぎである「般若波羅蜜多」への道はある。
いのちの全体性を感じて、その道をたどるために呪文やお経のような「意味」を超えた音の響きがある。音だけを丸暗記して繰り返し唱えることで「私」の殻が少しずつ薄くなっていくのだという。
「私」を捨てることは私にはとうていできそうにないが、意味のないコトバ、言霊の力は寺社や教会、コンサート会場などでこれまでも感じてきた。般若心経の示す世界をちょっとでも実感できたら、新しい世界が開けるかもしれないなあと思った。

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▽ ソクラテスがロゴスによって至れなかった生命あるいは「しあわせ」の実感に、仏陀は「瞑想」という方法で辿り着く。理知的な分析知は「全体性」を分断する方向にはたらく。世尊が提出したのは理知によらないもう一つの体験的な「知」の様式。
▽「全体性」は無常に変化しつつ無限の関係性の中にあり、…我々の成長に伴って確立されるという自立した「個」も錯覚だったと自覚される。そして、自立した「個」を措定することこそが「迷い」や「苦しみ」の元であったと。
▽すべてが理知によって解釈されるはずという科学主義に対し、「いのち」「しあわせ」というリアリティーはそうではないのだと、真っ向から挑戦状を突きつけている。
▽「色・受・想・行・識」という5つのはたらきの集合(五ウン)が人間なのですが、それらが全部「空」であると。実体がなく、関係性のなかで仮に現れた現象だと。
▽色や形が見えるのも、まずは光とモノとの「出逢い」によるお互いの変化のおかげ。モノは出逢いのたびに変化している。…変化するからこそ眼に見え、耳に聞こえるのです。…あらゆる現象は、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら(縁起=因縁生起)発生する出来事であり、秩序から無秩序に向かう(壊れる)方向に変化しつつある。
あらゆる現象は空であるから、「縁起」する。また「空」であるから「因果」も「共時性」も存在する。…
▽「色は空に異ならず」あらゆる物質に自性はなく、単独で固定的に実在するものではない、ということ。…すべては関係性のなかで変化し続けている、ということを「空性」と表現した。…「全体」は「個」の集合ではない。
…不完全な感覚機能と脳とで感じる「色」の背後に「空」という全体性の片鱗を感じ取るしか今は方法がありません。
「色即是空」あらゆる現象は固定的実体がない。
「空即是色」「空」であるが故に「縁起」し、あらゆることが現象してくる。
▽自己のことを「我」といわず「五ウン」と言う。たまたま縁起によって集まった体と精神機能の集合体が「私」であり、それは絶えず無数の関係性のなかで変化し続けている。「五うん」としての「私」は常に世界に開かれている。
「我」も空。アイデンティティーは認めない。
▽仏教は「概念」を「戯論」と呼び、物事の実相を見るためには排除すべきものと考える。「幼子の次第しだいに知恵づきて 仏に遠くなるぞ悲しき」
善悪、垢浄、生滅、善悪…という二元論的な概念を離れてほしい。
▽インド人は、「空」という様態を発見。物質を粒子の総合体として見るのではなく、あくまでもエネルギーに満たされた全体のなかのある種の凝集としてとらえた。
…量子力学では物質のミクロの様態を、「粒子であり、また波である」とする。それを「色」と「空」と考えても間違いない。
▽「分別知」は仏教では「空」に戻すべきもの。一掃すべき戯論と考える。空は「無分別知」とも言われる
▽「私」という意味の「識」は、さまざまな経験知識が蓄積し、汚れに染まったものです。だから「空」を感じられなかったわけです。
▽現実というのは、観測するものとされるものとの相互作用による「出来事」…私たちの認識する現実は、外界そのものでもなく、また六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)そのものでもない。五根と外界が「識」を交えて再構成されたもの。
…「色・声・香・味・触・法」(六境)のすべてをエネルギーととらえている。意がとらえる法(思い)もエネルギー。
▽十八界がない、のではなく、縁起によって波と粒子のように、存在したり存在しなかったりする。…「般若」とは、現実を二元論によらず、また概念にもよらずに直接つかむこと。
▽四諦 4つの真理 「苦」が存在すること、「苦」が何らかの縁で発生したこと、「苦」は発生した以上、「滅」するものだということ、4つめがその実践法「道」。
▽生老病死という「四苦」、愛する人と別れる苦しみ(愛別離苦)、憎らしい人にも会わなければならない苦しみ(怨憎会苦)…をあわせて「四苦八苦」。…すべては「自然」をそのまま受け入れられない「私」のせい。「私」を発生させる「行」による「苦」
▽「苦」の発生の根本原因は「無明」、すなわち「空」という実相に対する無知なのだとされる。無知故に間違った方向へ「識」を進めてしまう力である「行」(「私」を形成する力)が生まれ、それに従って「識」が染まります…
▽世尊は、「私」を形成する「行」を滅尽せよとおっしゃっています。
▽時間も空間も、じつは意識が概念へと移行する過程で生みだしているものなのです。「空」を実感するとき、本来は時間差のあったような事柄さえ、統一的な実感のもとにひとつながりの全体として感じられる。
…これまでの全ての時間が「今」に活きているというような実感をもてるとき、人生全体に充実感をもったりするものです。そんな体験を「啓示」と呼ぶ人もいることでしょう。(〓そんな思いができたら…)
▽「口承」という形式は意識的にそうしつづけていると考えるべき。真理は常に誰かに向けられた聖者の言葉に宿るのであって、万人向けの一般的な真理というのはあり得ない。…音が言葉に、言葉が文字になるにつれて失われたものこそ、「般若波羅蜜多」にかかわってくる。
▽苦痛というのは「私」が感じるのです。「私」がなくなれば、苦痛がゼロになるのは当然でしょう。(〓死ぬ時の感覚)
「さびしい」なら「さびしい」ままにそれを味わっていればいい。「わびしい」と感じたらそれを何とかしようなどと思わず、自然の変化を信じて「わびしい」ままにしておけばいい。それが「さび」「わび」です。抵抗さえしなければ「苦」ではなく、しみじみと味わいにさえなるのです。
▽「空」というのは「いのち」のまま、「色」というのはそれに脳(私)が手心を加えた現象。そして手心が加わる結果、「色」から「受」「想」「行」「識」と進むにつれてどんどん人工度が高まります。感覚、表象(知覚)、意志、認識の順番でどんどんこしらえものになる、ということなのです。
…「空」という「いのち」の本質を見極めてしまうと、十八界すべてが自性のない相互依存の世界であるとわかるのです。
…「般若」は「いのち」そのものの力なのです。
▽死にたいと思ったら、一度水にでも飛び込んでみればいいと思いますよ。死にたい「私」に関係なく、「からだ」はもがくでしょ。「死にたい」なんて思ってたのは「私」だけだった。脳細胞の一部以外はみんな生きたがっていたって、すぐに判明してしまいますよ。だから「私」を「いのち」そのものと錯覚したりするのは、一番困った勘違いなんです。
▽呪文の効果を最も早い時期に採用したのは密教でした。呪文だけでなく、香りや光や熱なども効果的に使っています。それらが直に全体性につながるという考え方がはっきりあるのでしょう。「意味」を超えた音の響きは、意味をとらえようとする大脳皮質を飛び越えて直接「いのち」に働きます。…コトバは暗記してしまえば、ある程度意味による弊害も避けることができます。文字を見て読んだ場合と暗記しているものを唱えた場合では、脳の活性化する部分がちがう。しかしもっとも効果的な呪文は意味などわからないほうがいい。音だけを暗記して繰り返し唱え、「響き」の力だけを感じるべきだと思います。
(ギャーテーギャーテー…の部分)
▽理解から記憶に進む際には質的に劇的な転換が起こっています。断片的に気に入ったフレーズを記憶するのは「私」ですが、全体をまるまるそのまま記憶する場合は「私」が記憶するわけではないのです。いったん記憶された音の連なりは、一切の試行を伴わずに出てきます。
…全体が丸ごと記憶され、再生されるたびに「識」を浄化していくのではないでしょうか。
…宗教的な教えはまるまる暗誦するもの、という伝統は、バラモンから世尊においても受け継がれている。
…繰り返し唱えるうちに、意味を超えた「空」なる力として記憶され、保持されるでしょう。…唱えているときの「私」の殻は少しずつ薄くなっていくはずです。
▽この社会に生きてゆきやすいように「私」を仕立てるのは仕方ない…「私」なしには日常生活が送れないことも確かです。しかし同じ「私」が幾多の苦悩をも生みだしてきたのもまた確かです。「いのち」の実相とかけはなれた「私」の思い込み…があらゆる「苦」を今も生みだしつづけている。
▽「いのち」を支える関係性(縁起)をいかに実感していくか。それ以外に人間の成長する道はないはずです。
暗闇のなかでも、苦悩の最中にも、また病に臥せっていても、はたまた悲しみにうち沈んでいても、いつでもどこでも「般若波羅蜜多」への道は静かにつづいています。究極のやすらぎ(涅槃)へとつづく道です。

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