■やまない雨はない 妻の死、うつ病、それから…<倉嶋厚>文芸春秋 20181106
NHKのお天気の解説で有名だった倉嶋さんは、妻の泰子さんを亡くし、重いうつ病になって自殺を何度も試みた。2人には子どもがいなかった。どれほど悲しみ、それをどう消化したのか、あるいは乗り越えられないものなのか。妻を亡くしてから90歳を超えるまでどうやって生きたのか。すがる思いで買った。
本格的な冬が来る前の小春日和のひとときは、それが穏やかであるほど切なく感じられるという。人生の冬の接近を予感し、1日1日を丹念に生きて行こうと決め、「今日も一日よろしくお願いします」「今日も一日ありがとうございました」とあいさつを交わし合って夫婦で生きていた。
家事はすべて妻任せで、風呂の火の付け方もわからず、預金の出し入れもできなかった。ひとりになるときに備えて、ひとつひとつ指導してもらっていた。
ところが泰子さんはC型肝炎と診断される。桜の季節、手をつないで公園に花見に出かけ、「二人で見る、きっとこれが最後の桜だ」と思う。私もまったく同じ思いで毛馬の桜をふたりで眺めたのを思い出した。
1カ月後の5月14日に入院すると「残された時間は、週、または日の単位」と末期がん宣告をされてしまう。風景がまるでちがってみえる。何げない道も「ここは妻と一緒に歩いたな」…と。それも同じだ。
腹膜炎を起こしておなかがパンパンに膨らんだ。夜、「おやすみ」と言って病院を後にするとき、わかれるのがつらくて、もう一度エレベーターに乗って部屋にもどってしまうというのも同じだ。
「入院中の病室で「ダンナさま、ダンナさま、私今、苦しいの」と、それはまあ、かわいい顔をして言いました。…おどけたような甘えたようなニュアンスで」。私の妻も、子どもに返ったようにお姉ちゃんに甘え、甘ったれた声で「大好き」と言ってくれた。
お葬式やお墓、お金の使い方を筆者に教え、「(再婚を)半年経ったらしてもいいわ…虚名に惹かれて寄ってくるような人はだめよ」「あの人ならあなたのよさも知ってるわね」と、自分の親友の名前を挙げた。私の妻も「いい人見つけなさいよ」と職場の元同僚を例にあげていた。
倉嶋さんの亡父は妻の夢枕に立ち「まだまだ」と言っていたが、ある時期からにっこり笑うようになり「きょうはお父さんに『泰子さん、よくやったね』と言われたの。私、これでもう行けるわね」と言った。「お迎え」を感じていたのも私の妻と同じだ。
最後はモルヒネで意識を失う。耳元で好きな歌を歌い、ありがとう、ありがとうと繰り返すことしかできなかったという。そして入院から24日後に旅立ってしまった。私も妻が返事をしてくれなくなっていたたまれなくて、枕元で歌をうたうことを思いついた。ありがとう、あんたは世界で最高の奥さんや……としか言えなかった。
「ダンナさま、私、苦しいの」とおどけたとき、「今にラクになるからね」と言うと黙ってしまった。「どういうふうに苦しいの?」とやさしく問い返せばよかった、と、何度も後悔することになったという。私も妻が「普通でいいのに」とうなされていたとき、ちゃんと聴いてあげられなかった。「○○助けてぇ」と言うとき、「どこがしんどい?」と尋ねておなかをさすることしかできなかった。本当は麻薬を増やして眠らせてほしかったかもしれないのに。
筆者は奥さんの死後、体重63キロから半年で47キロに激減し、失禁するようになってしまった。うつ病になり自殺を試みるようになった。
まずは「後を追いたい」と思い、次に「もっとこうしてあげればよかった」と「後悔の波」が襲ったという。それも同じ。でも私は後を追う勇気も出なかった。
愛する人を亡くした人は、そのつらさは誰にもわかってもらえない、自分一人が背負っていくしかないと感じる。時間が解決してくれるわけがないと思う。
時間ごときで癒やされるわけがないと思っていたけど、どん底まで落ちた後は、時が癒やしてくれたそうだ。伴侶を亡くした悲しみは「三回忌までですよ」と答えるようになったという。
妻に逝かれてしばらくは、妻がいない今の生活は、からっぽの時間の積み重ねにすぎないと思ったが、だんだん妻のいない生活に慣れると、これが今の「本当」であって、妻がいたときの「本当」はあの時かぎりのものだということに気づく。あきらめて目の前の生活を受け入れたとき、それまで見過ごしていたささやかな歓びがここにもあったことに気づいたという。
本当にそうなるのか? でもそうやって癒やされ、忘れてしまうことに罪の意識を感じないのか?
彼はいろいろ後悔したけれど、「ひとり残されたものの苦しみを私が負っている。この思いを妻にはさせずにすんだということが、私にとって大きな慰めになっています」と書く。その通りだ。その部分だけは妻よりも私の方が苦しんでいる。それは自分自身の慰めになるかもしれないと思った。
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▽70
筆者は泰子さんと結婚を決意したとき、すでに婚約しかけている人がいた。その人を断って結婚に踏み切った。病気に苦しんでいたとき「私たちは悪いことをしたから、今、その報いを受けているのね」「私は罪の償いをしてるのね」とつぶやいたという。(これもそっくり。「罰を受けてもいい」と)
▽銭湯を出る時の口笛の合図も同じ。
▽79 がまんして通り抜ければ、先に報いがあると保証されての辛抱は、辛抱なんていうものではない。いく先に何のあてはなくても、この道以外にないと観念して、ひたすら耐えて歩み続けるのが辛抱というもので、もしかしたら、一生、それで終わることの方が多いのかもしれません。
▽129 「愛しているってこういうことなの?」と妻は言った。…私は、妻の心を思いやるより、妻亡き後の自分の心配をしていただけだったのではないか。「あなたがいないと生きていかれない」と私が号泣したときも、妻は困惑して涙ひとつこぼすこともできなかったのでしょう。
▽162 どん底まで行けば、次の段階が待っているということは、病気に限らず、人生のあらゆる場面において言えるのではないでしょうか。
(5月の入院時、「今が底だから」と何度も言っていた。8月の入院の時はたぶん一度も言わなかった。その余裕や元気も一気に奪われてしまったのかもしれない)
▽170 私の中で最大のエクスキューズになっていることがあります。それは、ひとり残されたものの苦しみを私が負っているということです。この思いを妻にはさせずにすんだということが、私にとって大きな慰めになっています。
▽悲しみが和らぐと同時に故人をだんだん忘れていくけれど、そのことを罪に思わないことです。後ろばかりを見て自分を責め続けながら生きることはできません。
▽182 今がいちばんいいとき。妻はもういないけれども、今がいちばん(と思えるようになってきた)。「今日1日ありがとう」「明日1日ありがとう」で、1日ずつていねいに生きて行けば、自然と人生は展開してゆくのだと思います。
▽ 小春日和の寂しさについて語ったとき、北海道の老人が「昔の小春日和は、漬物の菜を洗ったり、まきを割ったり、冬ごもりの準備で忙しかった今は生活が便利になり、何もせずに、ただ気持ちの上だけで、迫り来る冬を感じているから寂しいのだ」
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