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福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅 <池田善昭、福岡伸一>

■福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅 <池田善昭、福岡伸一> 20171004

 ピュシス(自然=本来の実在)は常に隠されている存在であり、矛盾や相反するものが往々にしてひとつになっている。一方ロゴスの立場は、自然は人間の理性によって理解し尽くせると考え、論理矛盾がない方向を求める。昔の哲学はピュシスを相手にしていたが、ソクラテス・プラトンの時代に、理性に合致するもののみを探求するロゴスの立場へと転換した。
 ピュシスをロゴスの力で合理主義の支配下においてしまったために、自然(ピュシス)を全体としてとらえる目が失われてしまった。
 西田幾多郎の哲学は、ピュシスの世界に立ち戻ろうとしたものだという。
 西田の本は読んでみたことはあるけど、「絶対矛盾の自己同一」とか「逆限定」とか、「時間即空間」「空間即時間」とか、術語が難しくて理解できなかった。
 この本は、哲学者の池田が、福岡伸一の「動的平衡」という生命論のなかに西田哲学を見出したことで実現した対談で、福岡がその生物学の知識をもとに、池田から西田の思想の教えを乞う形になっている。

 たとえば「逆限定」について、池田は木の年輪を例に挙げる。環境や時間の作用によって年輪は形成されており、年輪は環境に「包まれている」が、逆に、年輪によって「時間や環境」も包まれている、という。
 福岡は「環境が年輪に影響を与えるのはわかるけど、年輪が環境に影響を与えているわけではないから、逆限定とはいえないのではないか」と、何度も疑問をぶつける。まさに私が疑問に感じることを代弁してくれている。
 それに対する池田の説明は…理解できるようで理解できない。
 湖の底にできる年縞は、風や雨によって崩れてしまう。生物ではないから、エントロピー増大の法則に抗えない。しかし木の年輪は、エントロピーに抗って、年輪をつくりあげていく。時間(環境)をも包み込んでいく、という。わかったようなわからんような。
 福岡は自らがロゴスにとらわれすぎていたと反省し、池田の教えによって西田哲学を理解し、そこからは議論がスムースに流れはじめた。私にとっては難しさが増してしまった。

 福岡は、生命とは何か、という難解な疑問に対して、動的平衡という概念によって回答を与えたことで評価された。
 すべてのモノは無秩序に向かって壊れていく、というエントロピーの増大の法則には例外はない。
 だが生物は、エントロピー増大によって壊れるよりも早く、先回りして自らを壊す(分解)ことで時間を稼ぎ、それによって合成を促し、生物としての形を維持する。生命を再構成する合成と分解という矛盾するものを同時に展開するのが生命の本質なのだとする。
 西田の「絶対矛盾の自己同一」「逆限定」はまさにそのことであり、矛盾するものが同時にあるという状態こそが、生物の世界(ピュシス)の本質である、という。
 そこから「時間」をめぐる議論に突入する。生命がエントロピー増大を先回りすることで「時間」が生みだされる。時間というのは、過去から未来へ流れるだけでなくて、未来からまわってくる時間もある。
 「物理的な時間」というものは本当は存在せず、生命がその営みを通して、ある種の脈動として時間を生みだしている……
 頭がこんがらがってくるが、その時間感覚は、仏教とか、南方熊楠の南方マンダラに近いような気がする。

 観察しているもの自体になってそのものを見る立場を西田は「直観」と呼び、直観の先にある、ありのままの世界(ピュシス)を感じることが「純粋経験」であり、その実在を知ることが「自覚」と言う。
 自然農法家の福岡正信さんは「科学という分別知では生命や自然のことはわかるわけがない」と言っていたが、ロゴスの限界とピュシスを直観する大切さを説いていたんだなあと思った。

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▽49 従来の哲学では「存在」と「無」しか考えてこなかった。存在と無の「あいだ」に問題があるとはだれも気がつかなかった。…細胞のなかが問題にされることはあっても、細胞の膜を問題にした人はあまりいなかった。
 …「あいだ」にいのちがあるんです。あいだでおこなわれるものや情報などのやりとりのなかにいのちがあるんです。
▽51 西田の「場所」の概念は、福岡さんが「膜」ということを言われたのと同じように「あいだ」のことを指していた。存在と無の「あいだ」があると考えた。
▽54 細胞自身が、作ることよりも壊すことを一生懸命におこなっているということも、ここ10年、20年のあいだにわかってきたことなんです。…壊さないと、エントロピーを捨てられないし、壊さないと次が作れないから。壊すことが唯一時間を前に進める方法なんです。
▽67 西田は、主観と客観が別れる手前のところで哲学することを重視します。そこでしかピュシスをつかめない。…論理と生命と実在とがひとつになっている世界。
▽73 生命が時間に「先回り」をしないと、エントロピー増大の法則に逆らうことはできない。生命を維持するためには、生命はどこかでエントロピーの増大に「先回り」しなければならない。
▽93 動的平衡 相反する二つの逆反応が、同時に存在することで保たれる平衡状態のこと。合成と分解、酸化と還元が同時に働くこと。それが生命の定義
▽125 時の流れとは、エントロピーの流れにほかならない。
▽130 環境が年輪に時間を刻み込む作用→←年輪が環境に対して時間を解き放つ作用(時間が生みだされる、つくりだされる)
▽132 …年輪は環境の変化をつないでくれているのです。環境の移り変わりの時間を生みだしている、といえるでしょう。
 逆限定=合成と分解、エントロピー増大と減少、年輪の形成と表出、この逆反応がぐるぐるまわることによってはじめて点が結ばれ、時間が流れ出すことがわかります。逆限定とは時間を生みだすしくみだといえるように思います。〓
▽136 点としての時間、点の集合としての「ゼノンの矢」を構成する、点の矢が、どうして実際のピュシスの世界においてはなめらかにつながれているのかは、相反することがたえまなく起こっているがゆえに、そこから時間が湧き出しているからだ、と説明できるわけですよね。(時間が湧き出す、つくりだす……の意味は…?)
▽140 「場所」とは、絶対無の場所。逆限定が成立しているところ。矛盾することが同時に起きている場。生命の成り立つ場所。……細胞膜 至るところで逆のこと(合成と分解)が同時に起きている。
▽178 生命というのは「歴史的自然の形成作用」のことであると西田は考えていたと思います。生命のなかに常にそうした形成作用が働いていると西田は考えたわけです。「形成作用」のもっとも大きな特色というものは、相互否定であり、逆限定であり、矛盾的自己同一であるということなんですよね。
▽189 生命は先回りして分解反応をおこなうことによって「時間を稼いで」いるのです。だからこそ、動的平衡としての生命は、つまり逆限定の方法は、きれめのない流れとして時間を生みだすことができるのです。
▽198 やがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、乱雑さが蓄積する速度よりも早く、常に再構築をおこなうことができれば、結果的にその仕組みは、増大するエントロピーを系の外部に捨てていることになる。
▽203 生命を機械論的に分節して理解していこうとする考え方が、近代科学・近代哲学の祖とも言われるデカルト以来の長きにわたって、私たちの思考法を支配してきたわけです。
…生命がなぜ成り立つかは、機械論的には本質的な説明をすることはできなかった。…分けてもわからない部分こそが、生命にとってもっとも大切な、根幹的な部分であるとも言える。
▽205 ものを作っていることを頑張っている生命が、実は、ものを作るのと同時にエントロピーの増大が迫ってくるよりも「先に」自分を壊している、という隠れに気づくこと。実在論的な視点をもつこと。
「先回り」して自分を壊しているということが、実は生命がエントロピーの増大の法則に対抗できる唯一の方法で…生命というのは、相反することを同時におこなっているわけです。
▽215 先回りしている、というのは、実は、そのこと自体が時間が作りだしている作用なんじゃないかな。時間というのは、過去から未来へ流れるだけでなくて、未来からまわってくる時間もあるということ。
 …生命は常に時間を追い越していて、追い越すことによってはじめて時間が生みだされているんじゃないかな…
 …動的平衡の観点から見ると「物理的な時間」というものは本当は存在しないとも思うんです。むしろ生命がその営みを通して、ある種の脈動として時間を生みだしている。〓
▽221 時間というのは「あいだ」にある。先回りすることによって「あいだ」ができるというか。
▽228 西田の「永遠の今」という表現において、「今」や「現在」とは、「いのち」にとって絶対的な価値を有する、永遠に揺るぎない尊い一瞬といえる。「現在」「今」をゆるがせにすれば、同時性としての過去も未来も永遠に無益なものに堕してしまうからです。一生をむなしく終わらせたくないのであれば、「現在」を過去・未来の同時性として生き抜く以外の生き方はあり得ないのです。〓(いま・ここ)
▽249「先回り」 「未だ来たらざるものであるが、現在においてすでに現れている」という作用、逆限定の作業によって時間が生みだされている。」
▽254 近代科学、とくに生物学のこれまでの歩みとは、時間が消されてきた歴史といってもよいと思います。
…近代科学が見落としていたというか隠蔽してきたものの一つが「時間」であった。…近代科学はすべてを「ぱらぱら漫画」で見ているんです。
▽258 近代科学では、実在としての時間が消されている。…「実在」というのは、モノではなくコトなのです。福岡さんの言われる「動的平衡」というのも、生命の絶え間ない流れ」というわけですから、その中身はコトであるというわけですね〓〓。…生命というのはモノを指しているんじゃなくて、コトなのではないか(→熊楠と似ている)
▽268 因果律では逆限定を語れない。「同時性が科学では扱えない」というのは、従来の科学が常に因果関係で表されるものだったということです。ピュシスのなかでは、同時に起こっている。あるいは、時間に逆行して先取りして起きている。

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