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哲学の冒険<内山節>

■哲学の冒険< 内山節>平凡社ライブラリー 20170928
 中学生が「美しい生き方」を模索するため哲学を学ぶという構成だが、内容は大人むけだ。「ソフィーの世界」など、良質な哲学入門書はほかにもあるが、この本は、哲学史を見渡すのではなく、哲学を人生に生かす、という視点で記されている。
 三木清の「未来は常に現在によってつくられていく」という言葉によって、未来を美しく生きるには、いま勇気を持って美しく生きる努力をしなければならないと知り、「将来の利益のために今を犠牲にしてもがんばれ」というような、未来のために現在を犠牲にするという発想のおかしさに気づく。

 中世のヨーロッパ哲学は、キリスト教神学が中心だった。近世・近代になると人間学としての哲学が台頭してきた。中世後期に「我思う故に我あり」といったデカルトはその先駆者だった。
 近世に入ると、自給自足だった農村にまで商品が流通し、不浄の存在だったカネが、「もっとも価値のあるもの」になった。
 土地と人間をカネで入手できる商品経済社会の成立が、近代国家をもたらしたとルソーは書いた。
 成り上がることを人間の美徳として肯定する資本主義のエートスが生まれ、それが産業革命をもたらしたとウェーバーは指摘した。
 一方、そうした「近代」のあり方に対する疑問がふくらんでいく。
 近代を疑う時代精神が、社会主義と、キルケゴールらの絶望の哲学というふたつの流れを生みだし、後者が、実存主義とアナキズム思想に発展した。
  カントやヘーゲルは新しい時代の論理と倫理を探したが、新しい時代に生きる人間の悲しみにまでは入るなかった。全世界のあらゆる出来事を理解できる真理の体系が哲学だとヘーゲルは考えていた。
 マルクス主義も、人間の悲しさを見続けるのみでなく、人間たちに矛盾を与えている社会の分析に向かい、人間を解放するにはすぐれた社会をつくればよいというだけになってしまった。そうしてできた科学的社会主義が人間の自由を縛る結果をもたらした。
 哲学は、現在の自分自身と社会の状態の限界を悟るところからはじまり、人間が解放されたいと思うときつくりだされる。だから、人間から超越した「真理」にしてしまってはならず、人間たちの手で克服され、発展されつづけるものでなければいけない……と「僕」は学んでいく。

 19世紀のヨーロッパの労働者たちはしばしば「労働を解放しよう」と呼びかけた。それは、労働が苦しかったからだけではなくて、彼らが労働のロマンを知っていたからだという。
 現代に住む私たちは「労働が喜び」という感覚をほとんど失ってしまった。今の私たちは19世紀の労働者以上に疎外され、生きがいを失っているのだ。
「人間は一生のなかで何かをつくりだしていきたいんだ。何かを歴史に残したいんだ。それができない。その方法がない。本人たちは気づいてないかも知れないけど、現代人たちはだれでもそのことに悩んでいるよ」
 美しく生きるとは、人間が自由に作品をつくりながら、歴史のなかで次世代に手渡していくことだと結論づけている。

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▽19 エピクロス「人はだれでも、まだ若いからといって、知恵の愛求(=哲学の研究)を延び延びにしてはならず、また、年をとったからといって、知恵の愛求に生むことがあってはならない…まだ知恵を愛求する時期ではないだの、もうその時期が過ぎ去っているだのという人は、あたかも、幸福を得るのに、まだ時期が来ていないだの、もはや(幸福を得る)時期ではないのだという人と同様である」
▽24 未来を美しく生きるには、現在を美しく生きられるようにしなければいけないという気がするんだ。未来のために現在を犠牲にするという発想からは、けっして美しい未来は生まれてこないと思う。
▽33 ヘーゲル「哲学史序論」のなかで、ドイツの哲学は見る影もなく後退してしまっていたと述べる。人間たちがどうでもよいような小さなことにとらわれてしまって、歴史、未来という大きなことを考える力を失ってしまっているからだと。
(細分化されてタコツボ化してしまった現在の大学や知性の現状を批判しているようだ)
▽38 ウェーバー 文化の中心に住んでいる人たちは、底での生活に慣れきってしまっていて、新しい出来事に出会ったとき、その出来事から新しい重要なことを発見する能力を失っている。世界のなりゆきに驚嘆する能力をもった人たちからしか、新しい宗教も文化も思想も生みだされることはない。
▽43 梅本克己 たとえ何歳になったとしても、人は過渡期の人間でしかない。だから人にはだれにもより美しい生き方を求めつづける自由がある。新しいものに挑戦しつづける自由がある。大人は自分を完成した人間だと思っている。だから将来の利益のために今を犠牲にしてもがんばれなんて言葉が出てくるんだ。
(夢枕獏の「神々の山嶺」)
▽47  自己変革しながら社会をも変革する。社会を変革しながら自分をも自己変革する。そうやって美しい人間の生き方と、美しく生きることのできる社会をつくっていこうとするとき、哲学はつくりだされる。
▽51 法然とちがって親鸞は、人間は生きているうちに救済され解放されなければいけない、と考えた。…阿弥陀如来はすべての人を救うために、姿を変え形を変えて、この地上に降りてきている。だから人間が、自分は救済されたい、解放されたいという声を上げたとき、必ずその人を救済してくださる。人間が自分は救済されたいという声を上げたこと自体が、実は阿弥陀如来がそういう声を上げるようにさしむけてくださったのだ。…廻向をとげ生まれかわった人間は、この現実の世界を浄土にするために生きていかなければならないと、親鸞は主張している。
▽57 自分を解放することと他人を解放すること、そのために社会を変革すること、この3つは同じことでなければならない。哲学は反に社会変革の理論ではないし、社会変革の運動でもない。社会変革は哲学がたどり着いた結論にすぎない。
▽81 歴史の発達は、人間の本質的な部分を退化させてしまった。そのことに気づいたとき、近代の哲学者たちは、人間の本当の自由を確立しようとして、哲学の研究に入っていった。
▽86 中世の世界では経済的にも、文化的にもイスラム世界の方がキリスト教世界よりはるかに高い水準にあった。
 イスラムのすすんだ文化や経済が入ってきて、商品経済も活発になり、ヨーロッパの社会観や宗教観、人間観などはどんどん壊れていった。そこで、新しい哲学や思想が生まれた。その代表が、宗教改革をおこなったルターと、デカルトであった。
 ルターの目標は2つ。庶民の生き方に適したものにキリスト教を変えていくこと、新しい強大なヨーロッパキリスト教社会をつくりあげ、イスラム勢力の圧迫からヨーロッパが脱出する道をつくりあげること。
…近世、近代の哲学は、庶民、普通の人たちが生きるための哲学にかわりはじめてくる。
…哲学は、古代ギリシャの哲学者たちが考えたように、物質とは何かといったことを考えるのではなく、人間を尺度にしてすべてを見ていくことだという新しい哲学観が表明された。人間とは何かを考える哲学になってきた。これが現代哲学の原点。
▽102 お金が社会の奥深くに浸透し、お金があれば人を雇うこともできる社会ができあがっていった。「資本主義」の経済システム。産業革命は、こういう社会的な基盤の上に成立。発明から新しい社会が生まれることはないと思う。
…日本も、江戸期に商品経済が浸透し、お金のために働く人々が出現してくる。…その基礎の上に明治時代がはじまって、欧米の工業が導入された。明治の資本主義化は、近世の間に「資本主義」を支えるエートスがつくられていたからだろう。
 資本主義をもたらすエートス。そこには成り上がることを人間の美徳として肯定する考えかたが生まれた。中世までは、成り上がり者はそれ以上の評価を得ることはできず、かえって軽蔑されたぐらいだった。
▽112 お金と権力以外のものが見えなくなってしまうような不自由な精神しかもっていない。ルソーは自分が自由だと思いながら成功を求めていく人たちこそ、実は精神の奴隷だと考えていた。
…成功物語を追い求めた人々の精神こそ近代以降の戦争と悲惨の原因であった。
▽158 僕たち自身が、一面でこの社会に絶望し、他の面で新しい未来をつくりたいと願い、さらに別の面でこのしゃ会のなかでの自分の成功物語を夢見るという3つの時代精神を一緒にもっている。
▽197 不自由を不自由と感じとれない、これが本当の精神の不自由っていうんだろうね。不自由な精神からは未来をみとおして、未来に挑戦することはできない。
▽208 19世紀のヨーロッパの労働者たちは、労働を解放しようと呼びかけているでしょう。それは、当時の労働者たちは、労働が苦しかったからだけではなくて、労働のロマンを知っていて、だから労働を解放してみんな平等に歴史をつくる事業に参加していけるようにしようと。
…人間は一生のなかで何かをつくりだしていきたいんだ。何かを歴史に残したいんだ。それができない。その方法がない。本人たちは気づいてないかも知れないけど、現代人たちはだれでもそのことに悩んでいるよ。

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