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哲学者 内山節の世界<かがり火編集委員会編>

■哲学者 内山節の世界<かがり火編集委員会編>  20170315
内山節の著作は何冊か読んできたが、彼の哲学の流れと大枠をつかみたくて購入した。
 ベトナム戦争時、中学時代からマルクスやヘーゲル、カントと読み進んだが、サルトルの実存主義は評価しなかった。主体形成に自覚の論理を持ち込むと、自覚した前衛が大衆を指導するという関係が生まれてしまうからだ。
マルクスは資本主義発展の分析は成功したが、それを打倒する論理の展開に失敗した、と思えた。商品の自己展開とは異なる論理で資本主義を分析できないかと考え、「労働過程論」を23歳で発表した。
炭鉱労働者が生き生きしているのは、少数のグループによる協業労働で団結が強かったからだ。戦後しばらくの製鉄所も、熟練技能が必要で、親方から見習いまでの協業労働だったから、鉄鋼労連が強かった。計器管理だけの世界になると結束力は弱まり、鉄鋼労連は右派の労組になっていった。
「個が関係をつくる」のではなく「関係が個をつくる」と位置づけ、疎外によって「個」がだめになるのではなく、「関係」が駄目になると捉え直すべきだと考えた。
「関係」を中心にとらえ直すことで、地方の農村の価値を評価する。
20代のころから、釣りで群馬県上野村に長期滞在するようになる。
上野村では、職人の働きや、地域での活動、社会のための働きを「仕事」と呼び、単に金銭を求める義務的なものを「稼ぎ」と呼ぶ。「共同体」とは「そこに、ともに生きる世界があると感じられること」であり、「稼ぎ」のために群れていても共同体ではない。強い個人である近代的市民の形成ではなく、「関係のなかで生きる社会」をつくるべきだと説く。関係のなかで生きてきたのが、伝統的な日本の共同体だった。
農民は、自然との関係、共同体や地域との関係、家族との関係、購入者との関係などのなかで自ら構築してきた世界を育んできた。水の神様や田の神様などがまつられているのは、自然もまた自治の一員だということを示していた。
村人の方が都会のインテリよりはるかに深い思想と世界を持っていた。その思想はコトバではなく、「技」や「作法」で表現される。言葉によらない村人の思想を受け止めて、内山は独自の哲学を組み立ててきた。
伝統社会においては、生も死も共同体に包まれて存在した。人々は、「やるべきことを何となくやってきて、それを他の人が認めてくれている」ような形で迎える「無事な死」を願った。「無事が何より」の世界だった。そこでは死はそれほど恐ろしいものではなかった。
だが近代になると、変化が日常になり、常に「有事」に対応しなければならなくなる。共同体が崩れるとともに死は「個人の死」になってしまった。
経済は暮らしの道具であり、ましてや貨幣はそのまた道具であるはずだ。まず経済ありきではなく、風土とともに生きる豊かさを作り直すにはどう結びあっていったらよいのか、ということをまず考え、そのためにこういう経済をつくる、という順番で検討するべきだ。
役所の地域政策は、農業政策や漁業政策といった個別の産業政策だけだった。地域の農業とは共に生きる世界の中での営みのはずなのに、極度に産地化され、地域で循環しない農業になっていった。そうした産業政策の寄せ集めでは利害対立が発生してしまう。本来は産業政策の前に地域でどんな循環をつくり、どんな豊かさを育むのかを考える地域政策がなければいけないのに、それが致命的に欠如してきたという。

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▽自著を語る
ベトナム戦争時、中学時代からマルクスやヘーゲル、カントと読み進めた。
だがサルトルの実存主義は評価していなかった。主体形成に自覚の論理を持ち込むと、自覚した人間が自覚できない人間を指導するという関係が生まれ、前衛が大衆を指導するという構図が正当化されてしまうからだ。
スターリンや毛沢東の内容の低さにあきれた。その後、レーニンの政治的プラグマティズムも批判し、トロツキーの方を評価した。
マルクスの資本主義の分析の部分だけを読むと、資本主義発展の論理になっていて、それを打倒する論理は出てこないことに気づく。宇野弘蔵の「資本論」の読み方に近かった。マルクスは、資本主義が壊れていく理論を展開させることに失敗した、と考えるようになった。
商品の自己展開とは異なる論理で、資本主義を分析できないかと考え、「労働過程論」に。23歳のときに「現代の眼」という雑誌に掲載された。26歳で本になった。
20代のころから、釣りで上野村に長期滞在して畑も耕すようになった。
炭鉱労働者の生き生きしているのは、古典的な協業労働的性格を残している炭鉱労働のあり方が、彼らの生きる世界をつくりだすうえで大きな役割を果たしているのではないかと考えた。
サルトルの言う「実存」ではなく、存在自身がもつ可能性をとらえたかった。

▽41 科学的真理とは科学の方法によってとらえられた真理にすぎない。普遍的な真理は、あくまでこのような限定のもとで成立する。自分の方法からは絶対的な真理がみえてくるとしても、それは自分の方法によったものにすぎない。
カントは本質を認識の彼方においた。認識可能なことは認識できるが、その奥にある本質は合理的に認識することは不可能なのである。この領域のものをとらえようとすると、カントにとっては神の叡智と結ばれた実践理性が必要だった。
私はカントに近いが、「神の叡智」という立場ではない。私にとって重要になってくるのが「情景」。何がそのような情景をつくりだしているのかをみることによって、私は本質を探ろうとする。
▽55 掛川市長の榛村純一の協力で「掛川哲学塾」。
58 農民との勉強会も重ねる。農民は、自然との関係のなかで、共同体や地域との関係のなかで、家族との関係、購入者との関係などのなかで、自ら構築してきた世界をもっている。(〓人間の幅の広さ、要素の広さ、生産から消費、文化まで)
▽61 1965年を境に日本の社会から狐にだまされる話がなくなっていく。「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」2007年
▽62 伝統社会においては、生も死も共同体に包まれて存在していたのであり、近代になると、死は個人の死以外ではなくなった。
▽66 仏教史の本は、教団、教義史であり、民衆仏教史ではない。なぜ民衆が仏教を受容していったのかよくわからない。そういう問題意識をもつと、仏教というより、神仏習合の形で展開していったローカル信仰の法に視線が向かう。それが修験道への関心を高めさせた。

□ロングインタビュー
東京の世田谷育ち。高学歴地域で語られることがらが実につまらない。誰それの子がどこへ受かったとか、誰のお父さんが部長になったとかのたぐいの噂話ばかり。…これに対して炭坑の人たちは表情豊かに自分の意見を述べている。これは何だろう…
…小中高校時代は高度成長の真っただ中。収入は増え…にもかかわらず何となく人間の生き方が型にはまっていく時代でもあった。…コースからはみだすことを許さない強い管理社会。
▽81 暮らしや地域を維持していく労働はすべて「仕事」。「稼ぎ」は、本当はやりたくないが、収入のためにせざるを得ない労働を指している。
▽85 炭坑の人たちが生き生き見えていたのも、労働のあり方に深くかかわっていた。少数のグループによる完全な協業労働として成立していたからこそ団結力が強い。…戦後しばらくまでの製鉄所は、熟練技能を必要とした。親方から見習いまでを含むグループでの協業労働。だからこの時代の鉄鋼労連は強かった。しかし新型製鉄所に転換していき計器管理だけの世界になっていくと結束力は一挙に弱体化し…鉄鋼労連は右派の労組になっていく。労働が個別化されてしまう。
▽90「個が関係をつくる」のではなく「関係が個をつくっていく」
…「疎外」も個の論理。疎外によって「個体」がだめになっていくという論理。そうではなくて「関係」が駄目になると捉え直すべき。
▽95 最期は「無事な死」でありたいと思う。「やるべきことを何となくやってきて、それを他の人が認めてくれている」というような形で迎える死。
…「個」の時代になると、無事がなくなって有事があらわれる。変化していくことがあたりまえになって、常に有事に対応していかなければならない。でもこんな時代はせいぜいこの200?300年。この国で言えば00年程度の「常識」にすぎず、それ以外の圧倒的な時間は「無事が何より」という世界に人は生きてきた。
▽104 自然との関係においては、思想は村人のほうがはるかに深いものを持っている。彼らはその思想を、「技」や「作法」で表現する。技や作法で思想を表現できれば言葉はいらない。
▽105 きらいな言葉。「損得」「挑戦する」。損得も挑戦も背後にあるのは「私」意識。
これに対し「役割」というのは相手がいてはじめて発生するわけで…

□対談
▽124 豊かな生き方の人と貧しい生き方の人。その指標の一つは、お金の使い方をいっぱい知っているかどうか。買い物や貯金や旅行に使う人もいれば、コミュニティをつくったり、ソーシャルビジネスをはじめる人を支援するために使う人もいる。…貧しい人というのは自分のためだけにしか使えない。
▽伊那食品工業137 アメリカ型資本主義のコーポレートガバナンスの世界では、人件費はコスト。ところが日本の社会では、人間を使い捨てしてコスト計算するというのが合わなかった。
▽139 世界一古い会社は、創業1400年の金剛組
▽156 栗田和則(山形県金山町)との対談
共同体から市民社会に出るのが社会の進歩と受け取られていた時代に、守田志郎さんは突然「農村にとって共同体は必要である」と主張した。当時は共同体必要論はほとんどなかった。
▽163 東北は、跡取りをどうつくるかしっかり考えてきた。跡取りの子には、「農業の神様だ」と思われている指導者のところに弟子入りさせる習慣があった。他の地区からの農民と同居したりして、十代で広い世界を経験している。
▽164 メープルシロップは新しい森林文化に。「イタヤカエデから露が出るって知ってたか」と聞いたら、地元の年寄りから「昔から『2月泣きイタヤ』という言葉があるんだ」と言われた。「その涙は甘いもんだ」という言い伝えがあったというのです。2004年にメープルビールを、2005年にソフトクリームを商品化しました。…シロップではカナダに太刀打ちできないが、日本での活路はサップ(樹液)の活用だと気づき…「日本メープル協会」を設立。
▽167 内山を呼んで1994年にはじめたのが「山里フォーラムinかねやま」。2004年からは「内山節の山里哲学精舎」と名称を変え……先生と有志で「十三戸のムラ輝く」を出版。「時間が蓄積される里」の石碑を建てた。
▽174 上野村村長
…木工センターは昭和51年。欅などが村外に持って行かれていた。村内で付加価値を高めようと。
…あのころの黒澤村長は、とにかく自首事業を立ち上げて、あらゆることをした。ほとんどが失敗しましたが、ミミズの養殖も薬草の研究所もだめだった。でも先見の明があった。今の時代なら成功していたでしょう。でもその失敗が糧になったんですよ。(〓新潟の話に似ている。現在の胎内町?)
▽182 村長「海士町に注目。町長や役場職員が自ら給与をカットして…島づくりに取り組んでいる」
…間伐材の出荷した残りをペレットに。広葉樹はおがくずにして「きのこセンター」へ。最終的には木質バイオマスの発電で活用する。子の発電が完成して木材が100%活用されたら、10億ぐらいの経済になる。
林道では維持が大変…だから索道。列状伐採という縦方向で伐採する方法で間伐的な出し方もできる。時には皆伐的な切り方も必要でしょう。…小面積皆伐…
…黒澤丈夫 1965年から2005年まで村長を務めた。
▽193 箱根・天山湯治郷の鈴木義二
…姥子温泉 古くは修験道の行場。買収されるという話を聞いてあわてて買いとって、湯守りになることに。2004年。(姥子・秀明館 箱根町元箱根110-1〓)
…温泉の原点は共同湯にある…たいがい集落や「湯組合」の共同管理で、ごく最近までは鍵もなく開放されていた。平和の象徴のような場所。
▽202 野沢温泉には「湯仲間」という地域組織があって、共同で管理している。温泉っていちばんローカル性の高いものだと思っています。その湯に浸かるとその土地の風土に溶け込んだような気になれます。
▽207 温泉の本質は、薬効成分ではなく、地底からわいてくる湯の力を借りて、自然と人間の力強いつながりをとりもどすことのほうにある。
▽229 宇根豊
害虫がどれだけいたら被害がでるかという基準は科学では決められない。「だから、決められた日にみんなで農薬を散布するんだ」という指導が常態化していた。科学的な農業技術には闇があった。「虫見板」という農具によって農薬の使用は激減した〓〓。
▽231 内山さんのまなざしは外からのまなざしだが、それがなぜ百姓の内からのまなざしと交差することが出来るかというと、内山さんの心が「労働」を内側から見ているからだ。文体がやさしいのもそのあらわれだろう。
▽223 小栗康平
「時間についての12章」〓〓には、内山さんの労働論、貨幣論、自由論、森や里の思想、ローカリズムなど、すべての原型や発展して整理された考え方ががつまっている。
▽237 速水亨
職人の働きや、いまだに残る田舎での人々の地域での活動、社会の未来あるいは自分を高める働きを「仕事」として表し、単に金銭を求めるためだけに働くことを「稼ぎ」とわけている。人々の働く姿がかかわった風景を「情景」と表している。
▽244 「共同体」というのには条件があるという。「それは、そこに、ともに生きる世界があると感じられることだ。だから単なる利害の結びつきでは共同体にはならない。群れてはいても、ともに生きようと感じられない世界は共同体ではないだろう」
▽253 エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」は、フェ市ズムの基盤になったのは「根無し草の大衆」だとして、強い個人である近代的市民の形成の必要性を指摘したが、内山氏はむしろ「関係のなかで生きる社会をつくること」の必要性を説く。
トクヴィルの「アメリカの民主政治」は、1人の人間がいくつかの小さな集団に属し、さまざまな「精神の習慣」を身につける社会を理想とした。
▽273 中嶋初女 私が求め続けた「永遠の時間」とは? との問いも、氏の述べる循環する時間のなかに私なりの答えをみつけ、私はいつも永遠の時間を信じて生きることができるようになった。
▽278 内山の講演 上野村は、合併する石を盛っている人が満場一致で全くいない。森林組合や農協も単独で、非常に独立心の強い村です。人口1400人のうち180人がIターンの人たちで。
…経済面ではあまり豊かとはいえないが、みんなで助けあうと同時に外の人も巻き込んで応援してもらっていく。コミュニティも、外の人を含めたコミュニティというのも同時に形成しながら暮らしていく。そうすると案外豊かな社会が存在する感じがしています。
…(会社社会)結びあった豊かさをもっていないことが、残酷な形で追いつめられていっているという現実だろうと…
…自然や大地、人間の豊かさ、暮らしとかと一切関係なく展開している今の金融経済のもつ恐ろしさが出ている。経済は暮らしの道具である。ましてや貨幣はそのまた道具である、そういうことを言える社会をつくっていく必要があるわけです。
…村の禁句「生きていかなければならない」。言ったら、みんなに、お前はなんて文化程度が低いんだと嫌われてしまう。
…収入は大事だが、2番目の問題。自分たちが生きる世界をしっかりつくった上で、こういう経済をつくっていこうと考えていく。…つながりをつくろうというのが最初にあって…
▽290 水の神様や自然の神様などいろいろまつられている。これらは自然も自治の一員だということを、絶えず実体としてつくりだす機能を持っていたと考えていいと思います。(欧米とことなり、自治のメンバーに自然が入っている)
…昭和初期に風土論が流行。ナショナリズムとからんでいた。欧米化した大正時代をへて、日本のアイデンティティをつかみ直そうという気持ちもでていた。
その頃を代表する風土論は和辻哲郎。
…三澤勝衛さん 長野県の旧制中学の地理の先生。徹底した郷土教育。それによって、自分の郷土以外の場所にも同じようにかけがえのない自然があり、かけがえのない人間たちの歴史があり、かけがえのない人たちがいることを知る。
…三澤さんは「大気と大地がぶつかっているところを研究するのが地理だ」と言っている。
和辻さんの風土と比べると非常に狭い。まさに、地域と呼んでいるような範囲を対象にした風土。…多層的な風土。
▽300 すぐに経済政策という時代ではなく、まず、地域政策でなければいけない。地域政策も、風土とともに生きる豊かさを作り直す。そのためには何とどう結びあっていったら豊かさがつくれるのか。それがまず起点にあって、だからこそ、こういう経済をつくる、こういうお金の回し方をする。…
「結びあい」

□3人委員会哲学塾
▽305 榛村純一
東京と上野村の2カ所にすみ、…フランスの田舎の村に毎年行くとのこと。それは、私が当時言っていた、東京都田舎と外国のどこかと3カ所の土地勘を持つ人を地球田舎人と名づけて、そういう人物が本物の哲学をもつことができると言っていたので、うれしい出会いであり…。
▽310 鬼頭 環境倫理学では、自然保護思想は自然主義、ロマン主義の枠のなかだけで語られていました。近代における単純な「自然と人間の対立論」あるいは「近代的な開発思考」に対するアンチテーゼという形で議論されていました。しかし僕は…自然主義やロマン主義的に、自然と人間を切り離して議論するのではなく、もっと地域での暮らしとか伝統的に結ばれてきた関係とか、近代的な「対峙した自然」というイメージとは異なる、「人の暮らしの中に息づく自然」に関心があった。
▽328 上野村では、僕は少数派ではないけど、日本のなかでは少数派になってしまう。多分それは、日本の社会には一貫して地域政策がなかったことに起因する。今の地域政策は役所の政策にすぎなくて、…個別の産業政策だけをやってきた。それは農業政策や漁業政策だったりして、そこでは時には利害対立が発生してしまう。
…本来、地域の農業とは、共に生きる世界の中での営み。それが妙に産地化されてしまって、地域のなかで循環しない農業になっていく。全部が地域にまわらなくてもいいけど、せめて1割ぐらいは地域を支える農業になっていけばいろいろなことが考えられる。しかし、ほとんど工場のようになってしまい、生産物をどこに売っていこうかとなってしまった。
▽335 いろいろなコミュニティ論が出てきているけど、ソーシャルキャピタル論とか好きじゃない。有効性や機能性で人間の生きる社会をとらえていくのは、いかがなものかと。いかにもアメリカ的発想だと思います。
▽337 川上村のレタス栽培。…きれいな川が川上村を通過すると真っ黒になるよ…川上でレタスをつくりはじめたのはベトナム戦争が契機。ハンバーガーを食べるアメリカ兵にレタスを送る必要があるけれど、中国や東南アジアではつくれない。それで厚木基地から送ったそうです。
▽344 大熊 若い人たちに五感で自然を感じる体験をしてもらいたい。新潟で船小屋を作ってカヌーを置いて、いつでも子どもたちが楽しめるようにしようとしている。
…内山さんも上野村に住んでいて、五感で感じることができるからいいんだと思う。
▽鬼頭 哲学塾。僕たちの役割は、聞くことにある。地域で起こっていることを、われわれが聞くことによって、その場の思想にしていくということではないか。
…思想運動って、これまでは特定の思想を広げるというものだったけど、ローカルな思想とは、地域に潜在的に根付いているものを、われわれが聞いて、その場で形にしていくこと。これが本質では。

〓「哲学の冒険」1985年 毎日新聞社

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