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アメノウズメ伝 <鶴見俊輔>

平凡社 20080504

天照大神が洞窟にこもっているのを、半裸でおどって神々の笑いをい、天の岩戸を開けさせた、という女神がアメノウズメだ。神話の女神についての論考かと思ったらさにあらず。歴史上各年代の現代にいたるまでの「アメノウズメ」をとりあげている。
異界の怪物にもたじろがず、敵視せず、こびず、ニコニコとわらってハダカで対峙する姿はガンジーの非暴力平和主義とにている。
笑いによる解放感は、権力を解体する役割もはたす。
権力は自分の思想をひとつの閉鎖した体系にまとめたがる。笑いは、その体系をやわらげてくずし、支離滅裂な形にかえして、別の局面へとさそう。アメノウズメは、アマテラスの権威を「選挙」によってつくりかえるきっかけをつくったと解釈できるという。
歌と踊りで死者をよびだす出雲の阿国は、歌舞伎の起源であり、盆踊りや阿波踊りもアメノウズメ以来の系統につらなる。奔放な性生活をへて、自分がふみにじった人々の思いをも視野にいれる瀬戸内晴美、田辺聖子、ストリッパーの一条さゆりらもまたアメノウズメの系列とみる。
昭和のはじめまでは、日本ではもろはだぬぎでくらす習慣があり、電車の中でも、上半身をあらわにする人は多かった。混浴もあたりまえだった。腹に顔を書いて、全身を顔にして踊るのも珍しくなかった。北欧・北米風の、顔だけをあらわにして意思ををつたえるという習慣が社会の上層から入ってきて、民衆の全身表現の文化と日本のなかでせめぎあっていたという。
アメノウズメからつらなるハダカの文化・「体」の文化が、北欧的な「顔」の文化に駆逐される過程だったのだろうか。能面のような「顔」の文化は軍隊教育ではじまり、ハダカの文化にとどめを刺したのが高度経済成長ということになるのかもしれない。
鶴見の論理の展開と跳躍のしかたは半端じゃない。筆者の頭の柔軟さと自由さがうらやましい。ときに理解できない部分があるのは、私の側の頭のかたさだろう。
---------以下覚え書き----------
▽26 夫も息子も、生産能率の論理にならされているため、相手のはなしも結論がひとつの命題になっていなくては受けつけない。小説やおどりは、思想上意味もないと信じている……アメノウズメのしぐさはおどりであって、主張としては、支離滅裂であると評価されよう。そのように、夫は妻に、おまえの言うことは支離滅裂だなと議論をうちきるということがあるだろう。その時、妻が、その支離滅裂なところにわたしの主張があるのよ、と反論したらどうだろう。垂直の推論の形からはなれたところにも、思想のありかを、私は認めたい。
権力は自分の思想をひとつのとざされた体系としてまとめてしまいたがる。それをやわらげて、経験の場に近づけたいと思うものは、笑いをさそってその体系をくずし、支離滅裂な形にかえして、別の局面へとさそう。アメノウズメは、アマテラスの権威を、選挙によってつくりかえるひとつのきっかけをつくった人のように思える。
▽43 美人とは、正統な目鼻立ちの規準にあう人。だから美人は、顔だちが瞬時につよく変化する力をもたない。よく動く顔だちは美人とは考えられない。からだの動きと連動して表情の変化する人は美人ではない。そういう動きがアメノウズメの特色。
▽49 昭和のはじめには、まだ日本は東南アジアと身なりにつながりがあって、春夏秋には、もろはだぬぎでくらすという習慣がのこっていた(「しぐさの世界」)。大正・明治にさかのぼると、電車の中でも、往来でも、上半身をあらわにするとか、ももから下をあらわにすることは珍しくなく、まっぱだかというのも、それほど珍しくはなかった。腹に顔を書いて、全身を顔にしておどろなどというのも珍しくなかった。北欧・北米風の、顔だけをあらわにして意志をつたえるという習慣が社会の上層から入ってきて、全身表現と日本のなかでせめぎあっている時代だった。
▽52 おかめは、アメノウズメの系統。「オタフクですけれども」というならわしが、日常の会話にのこっていた。……親しみやすい人がら、人生をともにたのしむ力をもつ仲間として、自分をからめ手から宣伝しているようなおもむきでもあった。日常生活に美人がわりこんでくることは、警戒したいという気風がのこっていた。
▽62 戦争末期、海軍軍令部の大部屋で「この戦争はどうも負けるように思うんだが」と、大声でたずねられて、閉口した。彼(村谷壮平)がなぐられなかったのは、猥談の名手だったからである。ひどいどもりで、それが誠実と滑稽を倍加させ、自由をもたせた。
娘の乙骨淑子が骨のがんでなくなる前、酸素テントのなかで父親はたのしい思い出をはなしてきかせた。人生のもっともくらい時間に入っても、それをあかるくする力ははたらく。死は、死を終わらせるのだから、おそれることはない、というインドの経典マハーバーラタの言葉を思わせる。村谷壮平は、私にとってもっとも暗い日、そこだけあかるい場所があるような人だった。このような役割を、女性だけが演じられるというのではない。
▽73 ジョルジュ・ソレルは、「暴力論」で、大衆が熱狂に入って裁きを要求し、未来の理想のために現在を完全否定する状態「カリブデス」と、無気力になって統治者の言うがままになる「シラ」という2つの大衆の状態をとりだした。アメノウズメのうながした群衆の熱狂状態は、シラともカリブデスともちがう型に属する。そこには笑いがあるからだ。
▽80 日本で常識となっている天皇の無謬性は、神話をみたら嘘とわかる。明治天皇も猥談が巧みだった、という。数え歌のなかに「皇后陛下と」という不敵な歌があり、酔っぱらってそれをうたうことは、太平洋の島におきざりにされた兵隊のうさばらしであり、それによって私刑をうけることはなかった。昭和天皇についてだけは、そういう不敬をさけてとおるつよい意志が、泥酔状態においてもまげられることがなかった。
……はっきりと支配者のまちがいを記しておく神話を背景にもち、その神話によってみずからの正統性を保証しながら、どうして明治国家は、まちがいをおかさない帝王という考え方をつくりだして、国民に教えこんだのか。笑いと政治という、日本の神話にある主題は、明治以後の統治にかげをひそめた。
▽92 ベトナム脱走兵うけいれ 1人が動揺して軍艦にひきあげようとした。その前に風呂屋にいく。その後、脱走をつづける、と意見をかえた。ハダカになってひろい風呂にひたるということが、彼の内部に新しい視野をつくった。
▽102
▽104 インディアンの族長が、今日は自分が死ぬ日だと言って、山の奥の空き地に横たわる。しばらくたって、むっくりおきあがり「今日は死なない」とにっこり笑ってまた山をおりてゆく。……死が自分の生のなかに自然にある境涯は、人間にとって望ましい人生の様式と思う。自分がやがて無一物でこの世を去ってゆくことを忘れたくない……いつどんな時にも、方向を見失ったハダカムシのようなものが、自分の内部に住みついていることを忘れたくない。
▽117 一条さゆり
▽129 天と地のわかれるところに立つ男(強姦する力を自分の英雄としての資格と思っているかもしれない男)に対して、アメノウズメが衣服をひらいて、ハダカを見せるというのはどういうしぐさなのか。ガンジーに似ている。両者ともに、ある性格の相手に対する場合にだけ、のぞましい結果をひきだす。……ガンジーややきもちやきで、自分の監督下にある少年少女に性的純潔を要求し……。
▽135 イギリスの初代駐日総領事オルコック 日本の田舎で、ハダカを恥じない女たちと出会っておどろく。その後半世紀のうちに、欧米わたりの女性の裸体についてのきびしい考え方が輸入されて、混浴の習慣はおとろえる。
▽162 北村サヨの踊る宗教 ウジからの発想。戦時下に国境をこえ、戦後にはアジアから切断された日本とアジアをむすびつける視野がそなわっている。ヤマギシカイをも評価。
▽168 瀬戸内晴美 自由な暮らし。富士茂子の再審請求を支援。……実生活での、三角関係、四角関係、うらぎりとうらぎられ……自伝小説「いずこより」に書かれている。伊藤野枝、管野すが、金子文子……の伝記を記す。いずれも自分の感情の真実を守って生きた人びとだった。これらの人物がふみにじった人びとがあり、その人びとには、別の人生があった。瀬戸内の伝記小説には奥行きがあり、それは、自分の三角関係……のあふりをうけた人びとをしっかりと見つめる力にうらうちされている。……アメノウズメのあとつぎ
▽195 田辺聖子
▽217 出雲の阿国 歌とおどりで死者をよびだして、死者によりそっておどるのが、この世のひとつのたのしみで、歌舞伎の起源もここにあった。盆踊り、阿波踊りも、その系統につらなる。
▽221 大正時代の東京はまだ、馬や牛がとおっていて、糞尿が町にあり、おわい車がとおり、江戸時代の流儀がつづいていた。……18世紀のパリは、同時代の江戸よりさらに不潔なところだったらしい。……セーヌ河畔の悪臭調査をしたさいには、人足が落ちて、ひきあげた時にはあえぐばかりで、酸欠状態で絶命した。……
▽224 においに敏感だった日本。古代の香の遊び。ちがう条件のもとでは、その前にもっていた能力は、発揮されなくなる。だが、米大陸につれてこられ、奴隷にされた黒人が、200年、自分たちのリズムを保ちつづけてジャズを生んだことを考えると、文字にされた思想よりもはるかにつよい連続性を、リズムがもっていることがわかる。
アメノウズメのおどり、出雲の阿国のおどり、盆踊りは、地球全体を望遠鏡で見ることができるならば、シヴァの女神のおどりの枝わかれしたものと見えるかもしれない。
▽232 海ゆかば水づくかばね 山ゆかば草むすかばね
……打ちすてられた廃屋にそのままのこる、はめころしのガラスのように感じられて、それなりにいつも感動する。
さざれ石のいわおとなりて 苔のむすまで
事実に反するこのメタファーにも……この歌のなかにあるアニミズムは、私の心にふれるところがある。冬に入って太陽の力がおとろえてゆく時に、もう一度、天地とともに自分をふるいおこそうとする、アメノウズメのおどりに共感をもつ下地になる。
▽247 天と地のわかれめに立って、異相の人を前にした時のアメノウズメの、対等性を求めて排他的でない態度を、今も自分たちの前におきたい。日本と外国、天と地のはざまに立って、権力のめざす思想の固定をゆすぶる、ひとつの姿がある。……

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