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柳宗悦<鶴見俊輔>

鶴見俊輔集続4 柳宗悦・竹内好 筑摩書房 20080511

生活でつかわれる食器などを「民芸」として再評価した、ありがたいけど敷居が高そうな人、という柳宗悦のイメージをくつがえされる。
名をなした晩年の柳宗悦の位置から過去をふりかえって(回想して)描くのではなく、子供時代の柳、学生時代の柳……というように、その時やその場の様子や空気を再現して、そのなかで柳がどう考え、どう迷い、どう思想を形成してきたのかを記している。だから、伝記にありがちな辛気くささがなく、老いてなお青年時代の志や悩みを失わない初々しい姿がたちあらわれる。戦時中でさえも穏やかながら批判的な視点をもちつづけた、まさにヤナギのような粘り強さの根源を解き明かしている。
和算の専門家から測量をまなび、海軍にはいった父。講道館柔道の創始者嘉納治五郎の姉である母の生き様からひもとき、西洋の数学が入ってきても和算を捨てなかった父や、明治以前の柔術を体系化して柔道をつくりあげた嘉納と、西洋の哲学や美学をへて「和」にかえる宗悦の共通項をしめす。
乃木希典が院長をつとめていた学習院という皇族・華族養成学校にまなび(その後東大へ)、そこで武者小路実篤らと出会って「白樺」を創刊する。日露戦争直後であり、学習院の2世の若者たちには自分の父親がなしとげた偉業を誇る軍国的空気が蔓延していた。「白樺」にはそうした空気への批判がこめられ、世界的な視点で普遍的なものをおいもとめ、個人の自由を尊重しようとした。
当時のインテリの主流が論理の積み重ねを重んじたのに対して、白樺派は直観を重視した。後に民芸を語る柳が「直観」を重視した萌芽はここらにあるという。さらに、まだ無名だったバーナード=リーチとの交友によって、西洋の視点から日本の芸術をみる視点を獲得し、朝鮮の陶磁器の魅力に気づいた。
柳は、政治的な発言はあまりしなかったが、朝鮮併合に反対で、戦争中にいたるまで朝鮮を「くに」と表現した。朝鮮の文化をおとしめ、日本の文化を押しつけるやりかたに対して、朝鮮の芸術のすばらしさを再発見し、それらを残そうと努力した。
沖縄では、共通語を強制する動きに対して徹底的に反対し、文化や言語の多元性を尊重するよう要求する。そのせいで官憲にとらえられている。
朝鮮の無名の工人の陶磁器の魅力を知ったことが、日常の暮らしにつかわれている食器などを「民芸」として再評価する視点につながった。「下手物」という言葉は、上品な芸術品に対して、日常生活につかわれる雑器をしめす言葉として京都のおばさんたちがつかっていた言葉だったが、その後、現在のような猟奇的な意味でつかわれることになったため、「民芸」という言葉に言いかえたという。
柳は戦時体制になって以降も、沖縄や朝鮮の文化について発言し、アイヌの文化を尊重することを主張する。声高に反戦をとなえるわけではなかったが、意見がぶれることがなかった。
論理を重視する主流の哲学者らが次々転向し、文学者も転向する。だが、実証をふまえたうえで「直観」を重視する柳は、最後まで「転向」せず、獄中に隔離されていた共産党の活動家と異なり、戦時中においてさえ、ほんのわずかとはいえ、発言をつづけ影響力をもちつづけた。
——–以下、覚え書き———-
▽12 楢悦 和算を応用して測量し、航海につかった。西洋の学問輸入に際して、自分たちの問題をすべて西洋の眼で見ようとするのではなく、日本の眼で西洋の問題を見ることをもふくめて世界の未来をつくってゆこうという態度は、末男宗悦によって、数学と異なる文化の領域でうけつがれた。
楢悦は実地の測量に生かしたからよかったあ、和算家たちは、従来の方法による研究をつづけ、明治維新に際して学者としても生活人としても苦しい日々を迎える。
▽母・嘉納勝子は嘉納治五郎の姉。23歳上の楢悦に嫁ぐ。海軍の人脈。
治五郎の体育理論は、毛沢東の初期の体育論に示唆を与えた。明治以前の日本の技芸の伝統を近代の条件に生かしたこと。教育の中で体育を重んじて健康という規準をつよくすすめたことなど、宗悦の著作の指導理念と似ている。が、宗悦は柔道は好まなかった。
▽25 柳田国男は、古来の和歌俳諧に対する学問的研究の態度が、過去の作品に対する感情的一体化を図るロマン主義的陶酔から一歩はずれてその伝統を見るという視角をたてた。宗悦が、日本の民芸・茶道に対してつみかさねた研究が、直観に導かれながら実証の手つづきをはなれることがなく、同時代の国粋主義的感情とはちがうさめた心を保ったことにも、柳田の場合とよく似た、和算の残響をききとることができる。
▽26 幕末の革命運動をすすめた人々の間には自然の同格意識があった。身分を越え、藩を越えた同格意識は、生き残った者たちの間では次第に消えていく。1884年、生きのこりの指導者たちが、お手もりで自分の子孫に世襲の特権を与えたことは、いくらかのこっていた同格意識にとどめをさした。
皇族・華族の子弟を育てる場としての学習院。旧大名・公卿の子弟と、新華族の子弟の間のちがい。新華族の子弟にとっては、公卿や大名家の気風がばからしいものにおぼえた。明治の末、個人の人格の価値、文化の価値を主張する『白樺』の文学運動が起こったのは、旧華族と新華族のあいだのこの摩擦に由来するところが大きい。宗悦が生徒としてすごした16年間は、学習院に、個別のめざめを主張する運動がそだっていく時代だった。 35 日露戦争勝利に役割をはたした陸海軍の将校、政財界の指導者の二代目たちが多くいた。とりまきのおだてにのって、こどもながらも気炎をあげるものが多かった。……こういう軍国の風潮に講義する自分の声もまたむなしくないかと宗悦は……校友に対する批判。
▽43
▽85 宗悦の妹の死を描いた文章 明治の人間の身についた儒教的儀式性を伝える。
「成和さん、お母さんはもうぢき、あなたに逢へないのです。併しあなたは一番のお兄さんです。私がいなくつても喧嘩をしたりしてお父様に御心配をかけてはいけませんよ。よろしいか」。「はい」。「お母さんは、さよならをします。お母さんの云つた事を忘れないで頂戴」。すすり泣く声があちらにも、こちらにも聞こえた。「成和、お母さんに御機嫌ようをして、あちらに行つてよろしい」「お母様御機嫌よう」
▽89 「ブレイクとホ井ットマン」 彼等がこの雑誌を出版しはじめたころの日本では、日本思想の普遍性と永遠性ならばともかく、英米2人の詩人の普遍性と永遠性を東洋人の立場から研究するという方針そのものが、おだやかながらも、当時の国策と相容れない方向を指していた。雑誌の創刊された1931年には「満州事変」
雑誌の編集後記に……
–めつたに死なない将校達や非戦闘員の愛国主義者が、下積になる兵隊達の事を考えずに、むやみに軍国的言論を弄ぶのは感心しないし、卑怯だとも思へる。–
おだやかな政治思想を、そのまま、戦争時代の終わりまで保ちつづけたところに、柳の特色がある。倉田百三は、無産者の解放と国際平和を説くことから超国家主義と日中戦争支持をとなえる立場に移行し、そういう極端から極端への移行をもふつうのこととしてあたたかくむかえる日本の知的風土があった。武者小路実篤も、中国攻撃賛美の文章を書き、西田幾多郎は大東亜戦争を基礎づける宣言文の草案を起草し……
柳の持久力は、宗教心の特色がそこにあずかっているように思える。……趣味においても政治思想においても宗教心においても、ウルトラごのみの人ではない。
▽98 志賀直哉はハーンの文体から影響を受けた。日本語の言いまわしをさらに単純にしてとらえる手法は、単純簡素な文体への志賀の本来の志を深めただろう。
志賀・里見のように、日本人のこまやかな情緒を筆にしたと言われる小説家が、同時に人間として人間に語りかけるという流儀を、国家主義と日本への回帰の時代にも手ばさなかったところに、白樺派の日本文学史におけるめずらしい役割を見る。この特長は、民芸の批評という国家主義・民族主義にのめりこみやすい仕事を続けながらも、人間としての立場から一歩も身を移すことのなかった柳宗悦の文体とその物の見方にも、よくあらわれている。
……柳が、自分の好みに反して、その生涯の終わりまで、実証的・論理的であったことが、思考のスタイル、文章のスタイルにあらわれており、このことが、軍国主義の時代にも、武者小路のように政府の戦争政策への手ばなしの讃美にむかうことから彼をさまたげた。「白樺」の人類普遍の立場から書く文体は、文体だけでは軍国主義への同調をさまたげるのに十分の力となり得なかったことを示すもので……
▽110 1919年「三・一運動」砲火で殺された者は10万人以上にのぼると山辺健太郎は述べた。……水原では老若男女を無差別にキリスト教会にとじこめて建物に石油をかけて焼き殺した。…… 柳宗悦はほかの日本人とちがって、この事件に心をうばわれた。
▽115 京城の「光化門」取り壊しに反対論文を書き、それによって、移築された。
「朝鮮民族美術館」を設置。李朝の陶器にひかれ、これらの作品が無名の工人によってつくられたことを考え、日本にもおなじような工芸の伝統があることに気づく。柳の民芸運動は朝鮮の陶器への開眼にはじまる。朝鮮文化と日本文化を結びつける、当時としては独特のインタナショナリズムがあった。
柳は日韓併合後も朝鮮が日本と一つの国になったと認めていない。「二つの国」としてつねに朝鮮と日本を語る。
▽125
▽127 柳の蒐集は、朝鮮の陶磁器からはじまり、日本の日常生活用品にうつる。京都の市をまわってあつめる。
「下手物」という言葉は、京都の売り手のおばあさんたちの口から聞いた。だが、中央の論壇用語に移しかえられると、言葉の意味の転化がはじまる。猟奇的な連想を呼ぶようになる。そこでこの俗語を避けるようになり、「民芸」という二字に落ちついた。
▽145 沖縄での標準語の強制に反対論文
ナチスドイツのドイツ語純化運動にならって、朝鮮と台湾などの植民地の住民に、外国語である日本語を強制する政策に拍車をかけ、1897年の沖縄処分以後、明治政府の国内植民地とされていた沖縄にも、おなじ政策を強要したことになると、幼方直吉は説明した。
……柳が日本の革新官僚のナチス文化政策追随に対して、朝鮮における日本語強制とおなじやりかたを沖縄県民におしつけようとしていることをはっきり見すえて、しかしその認識を伏せて、おだやかに批判しているものと考えてよいだろう。
148 柳が時の県知事に「それなら方言を廃止させる意向なのですか」とたずねると、知事は「そうです。標準語にかえぬかぎり、この県の発展はありません。現に徴兵検査の折など未だに正しく言葉の使えぬものがあって笑話になる位です」と答えた。東京の「標準語」の強制はあきらかに総力戦体制とむすびついている。
……国家の単位は地方である。地方性の薄弱は国家から特色を奪う。地方から生まれた言語を尊ぶことなくして、どこに一国の如実な表現を見出し得ようや。ダンテは彼の「神曲」を伊太利の当時の土語で書いた……
当時の西洋学者による中央集権主義的なドイツ文化イタリア文化の把握をこえて、敗戦後にいたってようやくすすめられている地方単位のヨーロッパの把握を、すでに自分の見方としてしっかりもっていたことがわかる。
▽173 柳は自分の収入を、民芸品買い入れにおしみなく使った。……文筆の仕事に心を込めました理由は、実に美しい品々に少しでも恩返しを致したいからなので御座居ます。……
蒐集が個人の好みにはじまるとは言え、私有をおのずから越えるものとなった。
▽191 日本の伝統の内部から、世界に通用する普遍的な学問の可能性に確信をもちつづけた柳楢悦の考え方は、美学における柳宗悦の考え方と相通じるところをもつものと言える。母の弟である嘉納治五郎によって、明治以前の体術が新しく把握されて柔道として再興されたことも、柳の民芸開眼は、ひびきあうところをもっている。
▽196 昭和24年のインタビュー
近頃の学生は、臆病であり、又打算的なところがあるのではないか。……尤も面白いことには「白樺」は乃木院長の時代に起った、乃木将軍は随分英雄視されて、神社まで建つに至ったが、私達はいわば不埒な学生で軍国主義には反動的でトルストイなどを愛読した。……
▽217 幕末の日本人はまず、軍事、技術、政治、商取引などの実務をヨーロッパから学んだ。第二世代は、ゆとりの故もあって、感性の側からヨーロッパをとらえる方向に関心を移した。学習院出身の青年のおこした「白樺」は、第二世代のこうした関心の移動があらわれている。
人類普遍の規準によって生きようとすること、規準を自発的にになうものとしての個の解放が「白樺」同人の旗印だった。
白樺創刊10年目の一九一九年の転機。朝鮮美術への関心。……「白樺」と並行してあらわれる大正時代の東大新人会の社会主義運動でも、ヨーロッパが手本としてすえられ、朝鮮はかえりみられなかった。朝鮮を重んじる柳の考え方は、大正時代の日本の知識人のなかで独自のものだった。さらに柳は、この独自性を、昭和の軍国主義時代をとおして守り抜いた。……日韓併合後20年たっても、朝鮮というくにの独立性について自分の考えを捨てなかった。朝鮮の美についての柳の関心は、民芸館の運動の源流となった。
……日露戦役後の大勢に対する批判が「白樺」成立の一つの原因。……おそらくはバーナードリーチから柳へと、朝鮮の陶磁器への情熱がつたわったのだろう。
▽224 三・一独立運動 「韓国独立運動之血史」水原郡における虐殺。……三・一運動弾圧の残虐をとりあげる人は少なかった。新聞雑誌において吉野作造、石橋湛山、宮崎滔天、柏木義円、柳宗悦……くらい。
▽227
▽245 「工芸」の編集後記
かう云ふ戦時下だるから色々のことが窮屈になるのはお互に忍ばねばならない。只さう云う中にも、出来るだけ格の正しい出版をしたいと心がけ、少なくとも二三号おきに特集号を出すことを念願としていいる。幸ひこの一号はその望みを充たしてくれるであろう。ーー
ここにあるような平常心をたもつことが戦時下にむずかしかった。私にとっては、この編集後記のような文章が、この時代の中ではげましをあたえた。
日本軍宣伝部員が「漢口陥落、蒋賊亡命、朱徳爆死」などと嘘の宣伝を壁新聞に書くのをおしとどめる軍医の吉田の手紙を引用し、「民芸人吉田さんの面目が躍如としている」と述べる。
状況の悲惨から眼をそらさぬ姿勢をもつことに、「工芸」が守りとおした役割があった。
アイヌについても、「アイヌに何かの敬念を懐き得ぬ者はアイヌを語る資格はない。資格なきアイヌ論者がどんなに多いことか」(1941年)

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