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戦時期日本の精神史1931-1945年 <鶴見俊輔>

岩波現代文庫 20080428

カナダの大学での講義録であり、著者の長年の研究成果をわかりやすくまとめている。 「転向」を悪い意味だけではなく、積極面もとらえる。獄中でたたかいつづけた人だけでなく、妥協をくりかえしながら生き抜いた柔軟さを積極的に評価する。著者自身の頭の柔軟さに脱帽する。

元来の日本の村は、どんなに住民同士のいやがらせがあっても、徹底的に暴力をふるったり追い出したりはしないものだった。「魔女狩り」のような事態は、こと村人のあいだに関してはほぼありえなかった。だから戦前、共産党支持者らに対してすさまじい拷問もあったが、転向を誓えば、想像するほど厳しい刑罰は課せられなかったという。
もうひとつの江戸時代以来の特徴が「鎖国性」だった。
眼前にたちはだかる鎖国状態に対処するため、明治政府は、西洋を模範とする大学などの高等教育と、神話的な天皇制による小学校教育と兵士の教育という二本立ての教育体系をつくった。
旧来の家族や村の結合力の上に天皇崇拝をかぶせることで国家のまとまりをつくると同時に、欧米の指導者と対等にわたりあえる科学的な視点をもつリーダーを養成するためだった。前者のタテマエとしての天皇崇拝を「顕教」、後者の指導層のホンネを「密教」と筆者は呼ぶ。
最初のうち、この体制は富国強兵をすすめるうえで効果をあげる。日露戦争では、勝利ムードにわく大衆の反感を買いながらも、完勝とはいえない現実を冷静に判断し、早期の講和を実現させる。
だが、明治の元老が一線をしりぞき、第2世代が台頭するにつれて、前者のタテマエが後者の(指導層の)ホンネを駆逐していく。純粋な「日本的なもの」ばかりがもとめられ、輸入思想は排除され、しまいにはパーマでさえも認められなくなる。蓑田胸喜のような国家主義者によって、「密教」側の典型的な思想であり、天皇自身も認めていた天皇機関説も蹴散らされた。

共産主義をはじめとする、反体制側の思想をリードしたのは東大新人会だった。当時は官立高校に18歳で入学すれば国家のリーダーの座を約束された。反体制の立場のエリートたちは、西欧伝来の思想を純粋に信じ、国際共産主義を信じ、それを「上」から大衆に信じこませようとした。逆に言うと、村々に根付いた土着の思想を軽蔑し、そこから学ぶ視点はもたなかった。日本の村人や商人や職人がつちかってきた柔軟さも否定した。
江戸時代にはごく一部にしか見られなかった「侍」の文化が、明治以降は理想化され、国民全体に広げられた。サムライであるがゆえに、知識人の感覚は硬直化し、弾力性を失っていった。
大衆への浸透を鎖国性によって阻まれ、硬直化によって大衆から支持されなかったインテリ左翼知識人は、献身的に奉仕している対象である一般大衆が満州侵略を支持し、彼らを排除するにおよんで、失望し、転向するにいたる。
転向したあとは、極端から極端へと、一気に天皇崇拝にはしる例が多かった。天皇制は認めるけど戦争は反対する……といった粘り腰の後退は少なかったという。
軍国主義に一般国民を染めるにあたっては、新たに導入された「隣組」が鎖国性と結びついて力を発揮する。そこでは江戸時代のようなやわらかな受容力は消え去り、密告やむきだしの敵意が異分子にむけられ、価値観を一気に画一化していった。
「鎖国性」はある意味で国をひとつにまとめるのに役だった。だが、それが「他者」への想像力をなくし、「自分」「自国」しか見えない国民性をつくってしまった。それが、アジア諸国での傲慢なふるまいに結びつく。本人は良心的にやっていても、日本の流儀の押しつけとしか思われない。大東亜会議の代表で東条英機の盟友だったビルマの指導者バー・モウでさえ「日本の軍国主義者は、他国人を理解するとか他国人に考え方を理解させるとかいう能力を完全に欠如していた。日本の軍国主義者はすべてを日本人の視野においてしか見ることができず、すべての他国民が同じように考えなければならないと言い張った……」などと評していた。

一方、数は少ないが、侍的な「純粋」にはしらず、粘り腰の抵抗をした人たちもいた。
たとえば柳宗悦は、民芸や文化という面から沖縄の標準語化に異を唱えた。山川均は、何度も警察に逮捕されながら、そのたびに物売りや代書屋などさまざまな職業で食いつないだ。山川均をささえたのは「侍」の純粋さではなく、商人のたくましさだった。
戦前の東大新人会を中心とした反体制運動は「上」からの運動だった。戦後の反核運動や公害運動、安保闘争はその正反対の「下」からの運動であり、社会党や共産党は脇役だった。そうした現場に密着した泥臭い運動が、その問題をとおして世界とつながっていく。そういう動きのなかに、鶴見は「鎖国性」をうちやぶる可能性を見いだしている。

なるほど、と思った。一見、思想の先端をはしっているようにみえる市民運動的と、宮本常一的な日本土着の思想が、鶴見の頭のなかでつながる理由がようやく納得できた。
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□転向
▽14 明治維新の主な指導者のうち、生き延びたのは岩倉だけ。ほかは10年ほどで皆死んだ。
日露戦争のときの国家の指導者は、彼らがロシアを負かしたなどという幻想によって彼ら自身を騙すことはしなかった。だから、日本にとってほんの名目上の利得だけをもたらす程度のすばやい講和を陸軍と海軍も許した。世論に背く決断を恐れなかった。
▽17 明治はじめは男性人口の40-45%と女性人口の15%が読み書き能力をもった。徳川時代の遺産。
▽19 入学試験制度。官立高校入試に合格した18歳の青年は、日本の未来の指導者になることを約束されたと感じた。残る6年間の学校生活は、日本の未来の設計図を描くために費やすことができた。
東大新人会の学生の運動。吉野作造ら唱えていた穏やかな民主主義から離れていく。吉野は、貴族院の廃止と統帥権廃止の努力をした。穏やかな実際的な目標。東大新人会は社会主義政党と結びつき、軍国主義の興隆の可能性を断ち切るために共同戦線をつくという課題に興味をもたなかった。その後、新人会の創立者たちは国家社会主義にむかう。
▽23 佐野学と鍋山貞親の転向。共産党籍を離脱することなしに表明。指導者に選ばれたものは、政治上の意見が変わろうとも指導者でありつづけるという信念。
▽26 満州事変に熱狂した大衆。これも転向の背景に。人民からの孤立の感情、隣近所や家族からの孤立の感情。

□鎖国
▽37 伊藤整 米国との戦争が起きると、「人間そのものなどというものはいない、日本人とアメリカ人とかがいるだけだ」と主張。戦後、「氾濫」で主人公の地位が上がるにつれてその考え方が変わってくるありさまを描いた。転向小説
▽44 転向 拷問はあったが、訴追されたものが公けに転向を誓った場合には刑罰はきびしくなかった。支配層の温情のしるしとも、明治以前からの日本の伝統の延長線上で解釈できる。
守田志郎は「日本の村」で、村人が近所の人たちをいっぱい食わそうとしたりするけれど、その相手を村から追い出そうなどとはしない側面に注目。多数派のやさしさを示すだけでなく、少数派の側からよりをもどす努力の可能性をも示す。
戦時中でさえも、反乱と反抗の例はほとんどないが、異議申し立ての例は見つけることができる。
日本文化の鎖国性は、東大新人会が輸入した思想で日本を改造しようと試みたときに、対面せざるをえなかった手強い相手だった。
□国体
鎖国性という文化上の特徴の延長線上において理解できる。
▽55 戦前、日本の教育体系は2つに分かれて設計されていた。小学校と兵士の教育では、国家の神話に軸をおく世界観が採用され、大学などの高等教育ではヨーロッパを模範とする教育方針が採用された。
ひとつの国家宗教の密教の部分と顕教の部分のそれぞれの信者として別々に訓練された。鎖国状態から由来する困難と取り組む工夫だった。明治以前からの家族制度と村の制度の強い結合力を損なうことなくやりとげようとした。それだけでは不十分だから、未来の指導者には西欧の教養と技術を与えて訓練しようとした。
元老たち重臣層は、後継者が、密教部分を十分理解した上で、顕教部分を指揮することを期待した。
重臣の役割は青年将校の登場とともに力を失う。青年将校たちは統帥権という特権によって、軍部機構を通して、天皇に対して彼らの圧力を用いるようになる。
戦争の終わりごろ、準重臣層というべき人々が、軍事機構の指導者を後退させ、老人たちの忠告に耳を貸す古手の退役軍人・鈴木貫太郎を引き出す。彼が降伏にむけて導いた。

▽58 明治維新後の1871年、若い指導者層106人の官僚をいちどきに欧米に送りだした。41歳の最高権力者岩倉に率いられ、38歳の木戸、大久保を含んでいた。
西洋の能率ある統治組織を推し進める宗教・倫理の信条をうらやましいと感じた。技術文明を支える力として、神道の伝統を模様替えして採用しようと考えた。天皇崇拝は技術文明の思想的土台に据えられた。
▽63 神政政治と民主政治がおりまぜられていた。明治の技師たちが設計した秩序が働かなくなると、明治国家によって採用された政治思想(顕教)を文字通り実行せよとせまるようになる。西洋から輸入された思想は否定される。
政府高官にたとえ話のように用いられてきたさまざまな言葉は、文字通りに受けとられなければならなくなる。
(タテマエの大切さ恐ろしさ〓)簑田胸喜
▽67 明治以来、日本の官僚機構は有能な若い人をカナメの位置におく努力をしてきた。軍隊もそう。参謀将校は勝つ見込みがあるという判断はしていなかった。なのに太平洋戦争をはじめる。主な理由は石油貯蔵量がやがて不足するということ。戦闘開始を遅らせるならばさらに不利になる、と。隠された理由は、すでに10年間も続けられている総力戦への努力は、政府機構に打撃を与えることなく止められるべきではないという判断。
長期にわたって、仮想敵国との軍事力・経済力の差について、事実と反する情報を国民に与えつづけてきた指導者自身が、いまやその情報によって自己欺瞞の状態に陥る。
顕教の部分が、長い年月のうちに密教部分を飲み込んでしまった。
1942年、翼賛選挙。大政翼賛会の推薦を受けて当選したのが381人。受けないで当選したのが85人。この時期になってもなお、異議申し立てをする声が残っていたことを示す。
▽70 パーマをやめさせる運動。すべての輸入された思想が落ちたあとに残るのは、現人神としての天皇の不謬性を中心とする国体観念。しかし敗戦で国体観念も頭から落ちる。そのあとには肉体が残る。肉体の要求に忠実であることが最高の価値であるとする「肉体主義」。
□大アジア
▽83 鎖国性がなければ、このような戦争は続けられなかった。東条の最高の親友で大東亜会議の代表をつとめたビルマの指導者バー・モウが
「日本の軍国主義者は、他国人を理解するとか他国人に考え方を理解させるとかいう能力を完全に欠如していた。彼らがつねに東南アジアの人々にとって悪いことばかりしたように見えるのはそのため。日本の軍国主義者はすべてを日本人の視野においてしか見ることができず、すべての他国民が同じように考えなければならないと言い張った。……日本人種の立場の押しつけ、彼らのしたことはそういうことだった」「白人支配からアジアを解放するために、これほどのことをした民族は、ほかにない。にもかかわらず、当の人民によって、こんなにも誤解された国民は少ない」
▽87 日本人は敗北したあとで、63万人の日本軍兵士がフィリピンに送られて48万人がそこで死亡したと記録した。そのように回想するとき、この戦争において100万人のフィリピン人が死亡したことを無視している。
▽89 1945年8月15日に、日本海軍は、インドネシア指導者たちがオランダ軍による再占領に抵抗する目的で独立宣言することに便宜をはかった。これらの決定は、日本政府が軍事上の統制を維持していた時代にはなされなかった。
アジア諸民族を解放するために努力した、とはいえないが、結果で判断するならば、日本政府の活動がやがてアジア諸地域に解放と自由をもたらしたということはできる。日本政府の意図を通してではなく、アジア諸民族自身の努力をとおしてもたらされたものだった。
□非転向の形
▽108 灯台社の明石順三の長男明石真人は、良心的徴兵忌避。
▽112 灯台社、ホーリネス、セブンスデイ・アドバンティストなどの小さいキリスト教宗派が中日戦争初期の段階から戦争に批判的態度をとった。戦争による利益がなく、徴兵によって打撃をうける下層社会の人々に訴えていたから。灯台社には信者のなかに多くの朝鮮人がいた。
▽114 敗戦後出獄した十数人の共産党指導者は、彼らが獄外にいた1920年代の左翼知識人がもちいていた言語やものの言い方によって政治上の意見を発表した。1920年代の東大新人会の文体であり、翻訳語を通してだったから、敗戦直後の日本の人々の生活感情から切れていた。
灯台社で獄中にいた村本一生は、敗戦から30年たって「いまならば天皇陛下万歳を唱えられそうな気がします」といった。彼は戦争中に中国に対する戦争がつづくかぎり、同じことをしなかった。同時代の状況をしっかりとらえて判断し行動するということは、海外の思想を大前提としてそこから論理だけによって時代状況についての判断を導き出すという考え方の流儀とはちがう。〓

□日本のなかの朝鮮
▽124 田山花袋 関東大震災で朝鮮人を追いかけて殴りつけたと体力を自慢。自ら警察官の役を買ってでた自警団という民衆組織と警察官と軍隊の手によって、道ばたで6000人の朝鮮人が殺された。
千田是也はこれに抗議の声をあげた。彼は千駄ヶ谷で朝鮮人とまちがわれ自警団に殺されそうになった。芸名は千駄ヶ谷の朝鮮人という意味。
▽江戸時代は、中国風の散文と詩を書く能力において日本の知識人を凌ぐ力をもつ朝鮮の使節は高く評価された。明治のはじめは中立の態度。帝国主義国家として、台湾をとり、樺太をとり、満州で鉄道使用権を獲得し、朝鮮を併合し……という過程のなかで、しだいに朝鮮人を軽んじる傾向が強まった。
併合ののち、日本の商人は、脅迫や高利貸しなどさまざまな方法で土地を自分のものにした。(グアテマラとUFCの関係〓)多くの朝鮮人は土地を失い、第一次大戦以降工業が発達した日本に渡ってきた。低賃金で働く外国なまりの朝鮮人労働者が出現したことが、さらに軽蔑を深めた。
▽132 日韓併合 数少ない批判。石川啄木。保守的な文筆家のなかでは柳宗悦。朝鮮の工芸に対してもつ愛着の故に、やがて日本政府が朝鮮における民族文化を破壊する政策をとることにはっきりと抗議した。お金をあつめて日本に散らばる朝鮮芸術作品を朝鮮に持ち帰って、朝鮮民族美術館という名で展示した。注意深く批評を工芸と美術の領域に限り、政治そのものを直接批判することはあまりしなかった。併合から10年20年たっても「二つのくに」と書くことをやめなかった。
▽138 金達寿 硬直した日本知識人の転向観は、武士階級文化の不幸な遺産であって、明治以後の文化は、武士階級の徳目を国民の全体に広げることによって、日本の人民から弾力性のある活力を奪ってきたという。

□非スターリン化をめざして
▽146 獄中で生き残った十数人の共産党員は、ソビエトの国際共産党によるテーゼの科学的真理に完全な信仰をもちつづけた。日本共産党から離れた人たちは、転向の時においては、国際共産党から発せられた指針が不十分であるという認識をもったことが、重要な役割を演じた。佐野学は、転向声明で、国際共産党の指令から日本共産党は自らを解き放つべきだと述べた。国際共産主義から離れるとともに天皇の政府への批判を同時にやめる呼びかけになった。軍国主義を、ソビエトの判断から独立した立場から批判し続けていくことはできなかった。
▽152 佐野学らは、スターリンへの信仰から離れたのちは、天皇に対する信仰に立場を移した。非転向の党員は戦後、魔術的な影響力をもつようになり、スターリンの指導のもとにあった国際共産党の不謬性への信念を彼らに植えつけた。
フルシチョフによってスターリンの粛清が暴露されると、埴谷雄高の見方が理解されるようになる。60年安保の反対運動は、こうした共産党から離れた非共産党系の左翼学生が中心となった。埴谷は吉本とともに、新左翼の先駆者として評価される。
埴谷の虚無主義の思想は、戦時中でも天皇崇拝に包み込まれず、スターリン崇拝思想にも包み込まれなかった。非転向を貫いた日本共産党の少数の指導者たちを無条件に礼拝するという動きに同調しなかった。
▽154 山川均 戦前において、国際共産党の不謬性を信仰しない左翼だった。純粋化をはかる急進派と衝突して共産党から早くに離れたが、ねばり強く、軍国主義に対する人民戦線の形成を訴えつづける。何度も投獄され、釈放された期間は、薬局を開いたり写真屋をしたり、酪農をしたり、代書屋をしたり……して生活を支えた。新人会系の指導者とは流儀を異にしていた。
日本人は明治以後、侍階級の暮らしぶりを理想として国民全体として採用し(柳田国男)、左翼運動指導者にも影響したが、山川は一人の商人として生きた。〓

□玉砕の思想
▽179 南満州鉄道の線路を爆破し、中国人による陰謀だとして戦争に突入する。関東軍の数人の参謀によって企てられ、実行後に、既成事実として東京の陸軍参謀総長に認めさせ、天皇に対しても受け入れるように強制した。天皇にも東京の参謀にも知らせないでなされた行動を、彼らは「統帥権」と呼んだ。

□戦時下の日常生活
▽205 隣組 配給制度に市民をなじませるため、東京市役所の区政課長が、徳川時代の近所づきあいの組織を復活させて、隣組という新しい名前をこれに与えることを考えついた。
政府の政策を、民衆生活まで下げるための道具となり、民衆の意見を中央政府に伝える役割をつとめた例はほとんどなかった。
大政翼賛運動は、1940年の初期の段階では、広く大衆の自発的支持を受けた。が、まもなく高等官僚と陸軍軍人にのっとられ、役人と軍人が市民の日常生活を監督し干渉する機関となった。
尾崎秀実とその家族と親戚は、祖国への裏切り者であるという噂がたち、精神・肉体ともども殲滅しようという動きが、隣組近所に集まってくる。魔女狩りやマッカーシー旋風にも近い。
こうした「魔女狩り」に屈服せず生き抜いた女性 九津見房子。転向を通り抜け、そのあとでも、重い罰を重ねて受けるような政府批判の反戦活動に参加しつづけた。学歴はなく、転向を裏づける理論を自分で構築することもなかった。当局に対しては書面の上で転向を声明したけれど、行動の面では転向しないという人の一人だった。共産主義の熱烈な信者から超国家主義の立場へと極端から極端に移動する傾向には属さなかった。
さまざまな色合いの住民に保護を与える昔からの部落の伝統とはちがう働きを、隣組はするようになる。自分たちの身の回りから、異国のスタイルを嗅ぎ出して、そういう人たちに圧力を加えて、国体に目覚めた真の愛国者に叩き直そうとした。
▽212 横浜事件 完全にでっちあげ。

□原爆の犠牲者として
▽230 焼津市議会という小さい部分がまず最初に原水爆という世界的規模の現象に反対する決意表明をした。杉並の中産階級の主婦がつくった運動が、新しい反戦運動の形をつくる。はじめは無産階級解放運動の形を引き継いでいた人たちから軽んじられた。「署名運動などいうものはマルクス主義の文献にはない」と批判した学者もいた。が、運動が広まるにつれて、共産党員も社会党員も運動に近づき、主導権をとろうと争い、やがて分裂に追い込んだ。
杉並区の公民館長に安井郁という人がいた。戦争の理論家として活動したという理由で東大教授の職から追放されていた。彼が、主婦たちの読書会を組織する。安井が、反対署名を求める運動を設計し、世界平和会議と結びつけた。

▽236
地域と世界的との関係が、公害反対運動の場合は、東大新人会の運動と対照をなしている。地域の問題から始まり、地域の運動として主として働き続ける。それはやがて国の障壁を越える行動の形に。日本文化の鎖国性に大して内側からこれと闘う力が現れた。

□戦争の終わり
▽245 中国からの強制連行 劉連仁のような人は、38939人いて、いずれも1042年の内閣指令によって中国から連行された。このうち6872人が2年間のうちに亡くなった。花岡山では850人が抗議に立ち上がり、420人が殺された。劉は北海道の現場から45年に逃げて、58年に発見された。このころ、中国人の強制労働を商工大臣として決定した岸信介が首相だった。岸政府は、劉を不法滞在の外国人として罰しようとしたが、さすがに世論の反対にあって止められた。
▽248 沖縄 柳宗悦は、標準語の強制に反対し、沖縄滞在中に警察に拘束される。十五年戦争のさなかに、沖縄の言葉を守りつづけることを説いた。戦争中に柳は、地域文化を、世界文化がここで創造される場所としてとらえていた。
▽253 1941年に陸軍省が編纂した「戦陣訓」と文部省がつくった「臣民の道」は、教育の基本とされた。戦陣訓は明治の「軍人勅諭」とははっきりちがう考えかた。兵士たちに生きて捕虜になるなとさとし、家族には戦死者の死体がもどらない場合もあるための覚悟をするように伏線を準備している。これらを小学生にまで強制することで、教師は生徒に対し、軍隊組織における上級者の役を演じた。学童疎開の記録では、子供を保護してくれるやさしい先生の肖像はわずかしか入っていない。このような教師たちが45年8月15日を境として回れ右をした。子供たちの心中に裏切り者としての忘れがたい印象を残した。
▽256 60年安保。共産党や社会党はあまり力をもっていない。岸が退いて池田が首相になると、運動は退潮となる。大衆の抗議がイデオロギーに基づくものではなかったことを示す。
十五年戦争に責任をもっていた首相の存在と、中国人に対して日本人がもっていた罪の感じによって古傷が引き裂かれて痛みを発したということに由来する。亡くなった22歳で亡くなった樺美智子は終戦当時小学校2年生だった。
▽267 マッカーシー旋風による米国の転向 リリアン・ヘルマンは、彼女自身に関する質問にだけ答えて、彼女以外の人々にかかわる質問には沈黙を守るという線を押し通した。マッカーシーの魔女狩りに、はっきり立ち向かった最初の人が女性だった。農園を売り払わなければならなくなり、中年をすぎてパート仕事をしなければならなくなった。
▽276 転向 国家権力の性格とそれが用いる強制力、これらの強制力に対して反応するさまざまな個人の考え方の変化を記述する。……転向がいいか悪いかということは、定義によっては規定しない。……私は転向の結果として現れたさまざまな思想の中から実りのあるものを明らかにしていきたい。「過を観て、すなわちその仁を知る」
日本政府は投獄などの強制力を用いたが、それ以上に有効だったのは、伝統となっていた鎖国性を政府指導者が巧みに利用できたこと。世論は隣組制度を導入したことをきっかけに、流言と自由な思想表現が統制され、画一化される。このような舞台装置のなかで、東大新人会のスタイルはたやすく屈服し、自分たちの思想を軍国主義ならびに超国家主義の国策宣伝に姿を変えた。
▽280 戦争中に声高に唱えられた思想は、西洋の思想体系と正面から対決するため、不謬の普遍的原理をそなえるものとして日本の伝統を理想化した。それは日本の伝統を歪めてとらえた。実際の日本の伝統は、あらゆる場所とあらゆる時代を通して同じ仕方で人間を結びつけるような、普遍的断定を避けることを特徴としている。普遍的原理を定立しないというこの流儀が、日本の村に、村の住民ならば、その人を彼の思想のゆえに抹殺するなどということをしないという伝統を育ててきた。
目前の具体的な問題に集中して取り組むことで、異なる民族のあいだの思想の受け渡しに向かって、日本人らしい流儀で働くことができる。それは、西洋の知的伝統の基準ではあまり尊敬されてこなかった、もうひとつの知性のあり方。

(危機にあって硬直するのではなく、やわらかに)、

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